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3章
01 心許せる相手
しおりを挟む坂戸(さかど)はひたすら頭が痛いし、ひたすら重かった。
チーム内の不穏(ふおん)分子の存在、この世界のもうひとりの政の存在、接して改めてわかった拝藤組の脅威(きょうい)、極め付けに隠岐(おき)佳澄(かすみ)の離脱――。
坂戸の取り巻く環境は日を追うごとに不利になっているような気がした。
見えない力にじわじわと詰められる感覚。波濤(はとう)が大岩にぶつかり、天まで届けと白いしぶきが舞い上がる。切り立った断崖(だんがい)からあと数歩後ろに下がれば、間違いなく死が口を開けて待っている。しかし坂戸の場合は死ではなく、どこかの世界に飛ばされるとトキネに明言されてはいるが。
対抗策を講じて抵抗や反撃を試みているものの、いまだに不利な状況は変わらない。何ひとつ解決できていない現状に焦りと怒りすら覚える。坂戸はどれかひとつでも解決すれば、それが契機で次々解決していくだろうと思っている。
ここらで攻めた作戦を実行しようとした矢先の佳澄の離脱は、坂戸にとっても新後アイリスにとっても戦力的なダメージが非常に大きかった。
ただ、救いはあった。まだまだ妊娠初期の段階で、ある程度自宅と恩愛寮(おんあいりょう)を行き来できる体力があるのだ。本人がその気になれば毎日でも来れる。本人も自分の両親がいるとはいえ、四六時中いっしょにいては息が詰まるだろうし、話すことが大好きな佳澄にはいい気晴らしになるだろう。また、チームメイトたちにとって佳澄は、馬鹿話から普通の話、真面目な話ができる存在であり、練習はともにできなくても、姉御としてのチームでの存在感が計り知れないものだ。
佳澄に次ぐ年長者ふたりは、由加里は由加里で正義感が強過ぎて冗談が通じない部分があり、桐子は桐子で言葉遣いが乱雑で方言がキツく何を言ってるかわからないことがある。監督の坂戸も骨は折っているのだが、佳澄には到底及ばない。佳澄の人を惹きつける魅力は天性のもので、その面では凡人の坂戸――中身は20年後の由加里だが――は逆立ちしたって敵わない。
それゆえに、佳澄の存在は絶対不可欠であり、欠けてはいけないピースのひとつなのだ。しかし今は精神面ではともかく、戦力面ではぽっかり大穴が空いている。並の選手が束になっても埋まらないそれは、直近の問題として坂戸の慢性的に頭を痛めつけ、胃の辺りを捻り上げている。
「ぼっちゃん、私もうダメかもしれないわ」
ぼっちゃんと呼ばれた本保(ほんぼ)儀晴(よしはる)はギョッとした顔になり、真円の黒縁(くろぶち)眼鏡の奥で点になった眼で坂戸を見つめた。今年は人生で2回目の本厄を迎える男であり、新後市役所に勤めている広報課の主任である。
新後アイリスの特集を載せた広報誌の見本を持ってやって来た本保は、坂戸に捕まってかれこれ2時間は経とうとしている。この世界での関係性は学校の先輩が坂戸で後輩が本保の間柄で、本保が敬語を遣ってくるものだから、坂戸はタメ口で愚痴っていたのだ。
太鼓腹(たいこばら)にこげ茶のストライプが入ったスーツを身に包んだ本保は、緊張で脂肪のついた丸い顔に滲んだ汗をハンカチで叩いた。ゲジゲジの太い眉とゾウのような優しい目が不安なものに変化していく
「佳澄が抜けるのがそんなに不安ですか」
「情報が早いわね。どうして知ってるの」
「佳澄本人から妊娠の報告の電話がかかってきまして」
「それはぼっちゃんだけ?」
「いえ、みんなに知らせてるって言ってましたよ」
「あの馬鹿」
さらに頭痛が増した気がした。佳澄はすぐに感情を共有したいタイプの人間である。きっと、本保が知っているなら、チームに関わる人間のすべてが知っていると言っても過言ではない。
――口止めしておけばよかった。誰が味方で敵かはっきりしない状況で言いふらす馬鹿があるか。
とはいえ、チームに広報面でも練習を率先して付き合ってくれる献身(けんしん)的な本保を疑いたくない。元の世界では拝藤組に殺されたに等しい人生の終え方をした。しかしこの世界は違う。拝藤組と繋がっている可能性も万が一であれ、ありえる。そんなことは考えたくもないし、敵であってほしくない。都合のいい理想である。けどもし、拝藤組に吹き込まれている人間のひとりだったとしたら――。
「どうかしました?」
顎のない心配した顔がこちらに向けられている。
「顔色悪いですよ。疲れているんじゃありません?」
「やあねぇ。ぼっちゃんみたいに仕事もして、チームにも顔を出して、じゃないから平気よ。私なんかチームのことだけ考えてればいいもの」
「それでも、ああやって拝藤組に堂々とケンカを売っちゃいましたし。普通の人なら潰れてますって」
拝藤富士夫が引き連れてきたマスコミたちにより、翌日には各メディアで放映または紙面に踊り、物議をかもしていた。彼らは拝藤組寄りの報道をしたため、身の程知らずだ、たかがクラブチームがなどと批判的な意見が多数を占め、連日電話は鳴りっ放しになるわ、取材の申し込みは来るわでてんてこ舞いな状況になっている。もちろん、新後テレビは新後アイリス寄りの編集内容になっていた。
それらをすべて坂戸が表に立って対応していた。
「正直言って今の坂戸さん、顔――特に目がヤバイですよ」
「目……? ああ、忙しくて最近ロクに眠れてないのよ」
なんとなく目の下の隈を指で伸ばす。
「せめてチームの内部を知る人物が何人かいてくれたら……」
「佳澄なんて適任じゃないですか。社交的な人間ですし、体に差し障りのない程度で動いてもらうというのは、どうでしょうか? 坂戸さんも知っていると思いますが、ああ見えてしっかりしてますし。自分が補佐しますので」
「でも――」
「デモもストもないです。このままだと過労死してしまいますよ」
「面目ない……」
「『面目ない』もなしですよ。第一、生前の倉本監督が何人分の仕事をすべてこなしていたのが異常だったのであって、客観的に見ても普通の人間であれば音を上げて倒れてしまいますし」
「『普通の人間』、か……」
結局坂戸は元の世界でもこの世界でも、外交面では凡人の域を出なかったのである。本保の言う通り、八面(はちめん)六臂(ろっぴ)の活躍をしていた倉本が何事にも長(た)けていただけで、そんな人間と凡人を並べて比べること自体間違っているのだ。自分でできる範囲は自分でやり、及ばないまたは苦手な範囲などは、他人に任せたほうがいいに決まっている。
元の世界の本保もメディアや支援企業の応対などの外交面では長けていたが、ことチームの采配面や求心力は欠けていたし、人間関係の折衝(せっしょう)などはどうしても苦手で、自殺する寸前まで思い悩んでいた。そのころの坂戸――佐渡は、本保に協力してチームをまとめようとした。しかし、拝藤組の息のかかった裏切り者たちの工作により、悪性のガン細胞のごとく不和が広がり、若くて対抗する狡猾(こうかつ)さと術(すべ)も知らなかったせいで、チームは櫛(くし)の歯が欠けるがごとく瞬く間に崩壊。責任を感じた本保は首を吊って死んでしまったのだ。残ったチームメイトたちや支援者たちが寄り集まり、下した結論が解散だった。
佐渡は国内外で選手として指導者としての経験を積み、同じ轍を踏むまいと心に誓い、満を持して独立リーグのチームのひとつとして復活した新生・新後アイリスの監督に就任したのだ。
今は坂戸として、別世界である1993年にタイムリープして新後アイリスの監督をしている。チームを掌握する力と采配する力、育成する力が培われ、同時に外交面も鍛えられていたと自分では思っていたのだが、甘かった。ひとつひとつは対応できても波状攻撃のごとく、次々とやられてはどう対応していいのかわからなくなり、余裕がなくなって頭の中に残り続け不眠を引き起こしてしまった。自分自身への落胆とできないことで生じたギャップは精神を蝕(むしば)む原因だ。結局餅(もち)は餅屋なのだ。自分ひとりで背負い込もうとすればするほどドツボにハマり、すぐ後ろで虎視(こし)眈々(たんたん)と死神が鎌を薙ぐ機会を与えているようなものである。そうなれば拝藤組の思うツボだ。
坂戸は自嘲(じちょう)気味に笑みを漏らす。情けないのもあるし、本保の申し出が頼もしく嬉しかった。意地を張ってもしょうがない。自分がなんでもできるという全能感(ぜんのうかん)に囚われているのはよくない。今の状態が続くならば、今度は坂戸自身が何かの拍子で首を吊ることもありえる。
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