紺碧のかなた

こだま

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第二章 第六節

花街 I

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 「何かおかしい。」
インは木の陰から、遠くで瞑想をしている二人の僧をじっと見つめて言った。
 「え?何がですか?別にいつも通り普通に修行しているだけで、何も変わったことなんてないと思いますけど。」
隣で立っていたイェチが不思議そうに答える。
 「確かに何も変わったところはない…が、まさにそこが引っかかるんだよ。連日ああやって瞑想したり、手印か何かを作って鍛錬しているようだが、澄史とうし殿の技に変化があるようには思えない。」
 「そうですか?でもけっこう頻繁に、手から光みたいなのが出たりしてますよ。この前あの二人が泊まっていた寺に急病人が出た時なんかは、世緒ぜおと一緒に治癒してましたし、それなりに上達はしてるんじゃないですか?それに、以前澄史とうし殿が文書で、世緒ぜおの使う法術は忠清寺とは根本から違っていて習得に時間がかかるって仰ってましたし。あの方も苦労してるんじゃないですかね。」
 「…」
 「インさんは心配し過ぎなんですよ。法術なんて所詮、殺ししかしらない俺たちには分からない代物なんでしょうよ。かしらだって別に何もおかしいとか言ってなかったですし。」
 「俺がどうした。」
イェチが声のしたほうを振り返ると、大柄な男が後ろの茂みをかき分け近づいてきた。
 「頭、お帰りなさい。いやね、インさんがあの二人何か変だって言うんですよ。俺は勘繰り過ぎてるだけだと思うんですけど。」
 「ほう?どの辺がだ、イン。」
頭と呼ばれた男は、さっきから一度も顔を上げずに、じっと遠方の二人の僧を見つめ続けている細身の男に目を向けた。
 「いや…特にどの辺がおかしいということはないんだ。だが、何かが…これはただの俺の勘としか言いようがないのかもしれないが、何かが引っかかる。…強いて言うなら、忠清寺で神童と謳われた澄史殿があれほど熱心に修行しておられるのに、術が上達していないように見えることだ。」
 「お前、僧でもないくせに法術の巧拙が分かるのか。」
 「いや、分からないよ。だから俺の勘だと言っただろう。」
頭――バシュは、遠くにいる二人の僧を見つめたまましばらく考え込むように顎をさすっていたが、ふいに口を開いた。
 「俺は、今のところあの二人に何か怪しいものがあるとは思えない。が、お前の勘は大抵当たるのも事実。この任務にもう数人回して警戒を強めよう。」
インは目線を二人の僧たちに保ったまま、無言でうなずいた。
 「頭、それじゃあ俺たちは交代ですかい。」
 「ああ。お前は戻っていい。インはそのまま黎禮寺れいらいじの件に行ってくれ。標的は今夜都の西の花街に向かうはずだ。もう準備は整っているから、見つけたらお前が殺れ。」
 「了解した。」
インとイェチはバシュに一礼すると、一瞬にして木の葉のように散っていった。
 インは、次の任務――この国で新たに勢力を強めている黎禮寺れいらいじの大僧正・霜毘そうびの始末――のため、澄史とうし世緒ぜおを監視していた都の南端にある林から、西の歓楽街を目指して駆けていた。黎禮寺れいらいじは、都でも有数の商人と癒着し、人々の信仰心を利用してさまざまな品を売りつけていることで知られている。一昔前までは、常人ならば名を聞いただけで眉を顰める悪名高い寺だったのだが、新しく大僧正の地位を継いだこの霜毘という男が人を惑わすたいそう不思議な魅力のある人物らしく、あっという間に数多の信者を得、忠清寺でさえも危機感を抱くほどに勢力を拡大したのだった。そこで忠清寺の紫ノ僧らは、これ以上黎禮寺れいらいじが力を持つことがないよう、《飛影ひえい》に霜毘そうびの抹殺を言い渡したのだ。同時に世緒ぜおの暗殺という命も下されていた《飛影ひえい》たちは、世緒ぜお澄史とうし霜毘そうびの三人の動向を常に追っていた。
 (あの二人…何が、とは言えないが、絶対に何かある。)
法術のほの字も知らないインだったが、長年命の奪い合いに従事し研ぎ澄まされてきた彼の勘がそう言っている。二人の様子を見る度、腹の底にもやもやした疼きのような悪寒が走るのだ。
 (まあ今は、尻尾を出すまで見張るしかない。)
インは次の任務に集中しようとひとつかぶりを振り、西への道を急いだ。


  *


 明空は息を切らして必死に走っていた。溢れてくる涙で視界はぼやけ、ほとんど周りの景色は見えない。口の中には血の味が広がり、肺が痛くなってきたが、それでも構わず無我夢中で走り続けた。
 (俺はただ…助けられてばっかりの自分が情けなくて…ただ俺にもできることをしたかったんだ!それだけなんだ…!)
なりふり構わず走るうち、かなり人通りの多いところに来てしまったらしい。かすむ視界の中、煌々と灯りのついた店の数々や、鮮やかな着物を着た女たちがぼんやりと見えた。あちこちから酔った男たちの野太い笑い声も聞こえてくる。明空は人の間を縫うようにして一心不乱に駆け抜けた。
 「きゃっ!ちょっとなにっ…」
 「わっ!何だいあれ!」
 「おぉいっ、小僧!あぶねぇだろがぁっ!」
度々道行く人にぶつかりそうになり怒鳴られたが、そんなことは今の明空にはどうでもよかった。とにかく今は鳶飛と離れて、一人になりたかった。放っておいてほしかった。どこか遠くで、思い切り泣きたかった。
 (も、涙とまんね…!)
明空は次々に溢れてくるその熱い水滴を出し切ろうとするかのようにぎゅっと固く目を瞑った。その途端、どん、と思い切り誰かにぶつかり、明空は勢いよく後ろに倒れた。
 「いっ…たいねぇ!あんた!ちょっと何してくれるんだい!急に飛び出してきて!」
腰をさすりながら明空が顔を上げると、目の前に彼と同じように倒れていたのは、真っ赤な唇をした背の高い女だった。蝶の模様の入った紫色の派手な衣に、つやのある黒い髪、そこからのぞく金色のかんざし。遊女だ。
 「す、すみません。」
とにかく出来るだけ早くこの場を立ち去りたかった明空は、急いで謝ると立ち上がり、遠慮がちに女に手を差し出した。総じて女という生き物が異質で奇妙に思えてしまう彼にとって、これ以上の接触は避けたかったのだが、転ばせてしまったことや、彼女の重そうな着物や底のある下駄を見て、咄嗟に手を出していた。女はその手を取って立ち上がると、ずいと顔を寄せてしげしげと明空を見た。
 「ふぅん…。あんた、泣いてたのかい?そのかわいい顔が台無しじゃないかい。うちに寄ってきなよ。あたしが慰めてあげるからさ。」
女は細い指で明空の顎をするりと撫でた。ふわっと練り香の甘い香りが漂ってくる。何の香りか明空には分からなかったが、頭が痺れるようなしつこい甘さだ。
 「え、いや…俺、急いでるんで…。」
女のねちっこい視線を頭の先からつま先まで浴びせられ、明空の全身は一気にこわばった。女が近くにいるというだけでもどうしてよいか分からなくなってしまうのに、こんなに迫られると息が詰まりそうだ。あまりのいたたまれなさに、気がつけば涙は引っ込んでいた。
 「何言ってるんだい、あんた。ひどい顔だよ。よっぽど辛いことがあったんだろうねぇ。可哀想に。固いこと言わずに、元気になるまで休んできな。」
 「いえ、本当に結構です…お金持ってないし…」
明空は緊張で目を合わすこともできない。
 「そんな泥も跳ねてない着物着て何が金持ってないだよ。笑わせるねぇ。それにあんた、このあたしをこんなに人の多いところで派手に転ばせておいて、ちゃんとした詫びもなしに帰れると思ってんのかい?戯言もたいがいにしなよ、坊や。」
 「いや、本当に俺…」
 「小太しょうたぁっー、客よー!ちょっとふらついてるから店入るの助けてあげてぇ!」
女に大声で呼ばれて、上背のある若い男が店から出てきた。歳は明空と変わらないくらいに見えたが、かなり体格が良い。彼の腕は、明空の小枝のような腕など簡単にへし折れそうなほど太かった。彼はその太い腕を明空の肩へ回すと、半ば抱えるようにして店へ入った。
 「あの、俺、本当に違うんです!客じゃなくて、ただあの人にぶつかっただけで…」
 (体が全然動かない…!)
明空は何度も体をよじって逃れようとしたが、男はびくともしない。明空の必死の弁明も、男はまるで聞こえていないかのように完全に無視し、店の奥へ奥へと入っていく。気づけば明空は、衝立と布団の引かれたこぎれいな部屋に通されていた。男は明空を無造作に布団の上におろすと、踵を返して出て行こうとした。
 「あの!俺、本当に客じゃないんで!あの人にぶつかったことは謝りますが、別にここに用はないので、出ます!」
すると男はくるりと明空を振り返り、鬼面のように瞳孔の開いた目で彼を見据え、野太い声で言った。
 「ここに入ればもう客だ。線香一本燃え尽きるまではいてもらうぜ。」
男の有無を言わさぬ迫力に、明空の全身から冷や汗がどっと吹き出してきた。男が部屋を出て行ったのとほぼ同時に、反対側の襖が開き、さっきの女がしずしずと入ってきた。女は明空の前でぺたりと正座すると、艶っぽい声で挨拶した。
 「どうも、さっきぶり。菖蒲あやめです。どうぞよしなに。」
 「あの、俺…」
女はにやりと口の端を上げると、ついと明空に近寄り、彼の膝に手を乗せた。女の白い手を布越しに感じて、明空はびくり全身を震わせた。
 「ふふっ。そんなに怖がらないでおくれよ、旦那。別に、取って食うわけじゃないんだからさ。」
女は膝に乗せた手をするりと内側にずらすと、明空の腿の上をゆっくりと滑らせた。同時に明空の胸元に顔を近づけ、くいと彼を見上げた。
 「旦那、さっき泣いてたねぇ。いいんだよ、何も恥ずかしいことじゃあないさ。誰だって泣きたいときくらいある。」
明空は、冷や汗を垂らしながら、後ろに手をついて女を遠ざけるようにのけぞった。しかし女はそんな彼の様子を気にも留めず、腿を滑らせた手を帯まで持っていくと、素早く解いた。その時、一瞬敏感な部分に女の指先が触れ、明空の全身に戦慄が走った。
 「?!」
女は真っ赤な唇の端を上げて妖しく微笑すると、布の上からそれを撫でた。
 「っ…!」
明空の体にえも言われぬ痺れが走り、全身の力が抜けていく。女は次に彼の着物の前をわずかに開き、その隙間から両手を入れて彼の脇腹をさすった。突然柔らかく温かいものに素肌を触られ、明空はびくりと飛び上がって後ろへ倒れ込んだ。
 「あら、こういうの慣れてないのかい?まあ旦那、見るからにうぶだもんねぇ。」
女は明空の上に跨ると、今度は彼の胸元をばっと開き、そのなめらかな表面へと舌を這わせた。
 「ひっ?!」
全身の神経が、女の濡れた生温かいものに集中する。明空はその奇妙な感覚に思わず声を上げた。
 「やっ、やめて、くださっ…!」
 「ねぇ旦那。何か辛いことがあったんだろ?ならここであんたを天に昇るほどよくして全部忘れさせてあげるからさ、もう私にすべて預けちゃいな。ね?気持ちよくなるだけだから。」
女は明空の首元に顔を埋めて吸い付きながら、片方の手で彼の耳をするりと撫で、もう片方で薄紅色の胸の尖りを弄んだ。
 「ほ…とに、やっ…めて…!」
頭と体がちぐはぐで、今何が起こっているのか分からない。汗が噴き出し体中が熱いのに、頭は氷水に浸かったように冷え渡り、あっけなく蹂躙される無力な自分を見下ろしている。倒錯した意識の中ただひとつ確かに感じるのは、許可なく自分の内側へと入ってこられる恐怖と嫌悪感だけだった。明空の見開かれた目から、ぽろりと一筋涙が流れ落ちた。
 女はしばらく、じゅっじゅっと濡れた音を立てながら彼の胸に舌を絡めていたが、ふいに上体を起こした。
 「何だいあんた。あたしのこれだけの奉仕を本気で嫌がってるっていうのかい?さっきからこっちもふにゃっふにゃじゃないか。これがどうにもならないと何も始まんないよ。なんかあんたがそんなだとこっちも萎えちゃうね。ま、しっかり金もらうからにはあたしももうちょいと頑張るけれどもさ。」
 「…ね…い。」
 「ん?何だい?」
 「金、ない。持ってない。」
明空は虚ろな目でくうを見つめたまま懐に手を入れると、小さな巾着を取り出し、女に手渡した。女は訝しげにそれを受け取ると、中を開けた。
 「はぁっ?!何だいこれっ!空っぽじゃないか!どういうことだい!」
 「だから、金なんてないって言った…」
 「なっ、そんなこぎれいな身なりしてたら誰だってある程度は持ってると思うよ!本当にいったい何だいこれは!あたしのこと突き飛ばしてその上ここまで仕事させておいて、金ないってねぇ!馬鹿にしてるのかい?えぇ?あたしのこと!この店のこと!」
女は明空を鬼のような形相で睨みつけると、ぱっと立ち上がった。
 「あんた、ただじゃ済まないよ。」
そう言い残すと女は部屋を飛び出していった。残された明空は、表情の消えた顔でただ天井を見つめていた。どくどくと心臓が脈打っているのが分かる。頭の後ろの方で、「逃げろ」と声がするのに、体が動かない。と、再び襖が開いて、先ほど明空を連れてきた小太と呼ばれた男がどすどすと入ってきた。
 「お前、本当に金持ってなかったらしいな。舐めたことしてくれるじゃぁねぇか。どうしてくれるんだ。」
小太は仰向けに寝ている明空の脇に立った。明空は何も答えず、涙の筋の残る目で相変わらず空を見つめている。
 「なぁ、どうしてくれんだよっ!」
男は足を高く上げると、明空の腹めがけて思い切り振り下ろした。明空は潰れた呻き声を上げ、身をよじって腹を押さえた。腹の中心から全身に痺れるような痛みの波が広がる。内臓がえぐられ、出てきそうだ。
 「ん?ちょっと待て…」
そういうと小太は屈み込み、痛みに顔を歪めている明空の顎をがしりと掴んで持ち上げた。
 「お前、なかなかいい面してんじゃねえか。こいつぁうちの陰間に使えるな。よし、決まりだ。」
 「は…?」
小太はその大きな手で明空の両手首を押さえつけると、懐から縄を出し縛りはじめた。
 「やっ、やめろ!」
その途端小太は拳を振り上げ、明空の鳩尾を強く拳打した。
 「あ゛っ…」
明空は呻き声を上げてがっくりと前に倒れ込んだ。口の中いっぱいに、腹から上がってきた酸い液が広がる。
 「うちの女を踏み倒しておいて、さっさと帰れると思ったか?世間知らずにも程があるぜ。」
小太は彼の手を縛り上げると乱暴に腕を引っ張って立たせ、そのまま彼の首元をつかみ、よろめく明空を半ば引きずるようにして部屋を出た。
 「おい、しっかり歩け。あんな軽い一発でもうふらふらなのか?それともなんだ、菖蒲とやりすぎたか。」
男は下卑た笑みを口元に浮かべた。
 (くそっ…!絶対にこんな所で陰間になんかなるもんか。でも、体中が痛くて動くのも辛い…いや、今俺に出来ることを考えよう…)
明空は薄暗い廊下を小太について歩きながら、先ほどの部屋からの道順を覚えようとわずかに残った体力をかきあつめ、必死に意識を集中させた。
 (左…階段を上って右…右…左…)
しばらくして、ある部屋の前で小太は止まった。彼は襖を開けると、毬でも投げるかのように乱暴に明空を中へ放り込んだ。彼はうつ伏せにどすんと倒れ込み、痛みに顔をしかめながら目を開けると、そこは十二畳ほどの質素な部屋だった。真ん中に布団が引いてある。
 「ここで待ってな。あ、いや、逃げられたら困るな。よし。」
そう言うと小太は、もう一度明空の腹に一発重い拳を食らわせた。鈍い呻き声とともに明空は布団に投げ出された。薄れゆく意識の中、彼の瞼の裏に、鳶飛の姿が一瞬映って消えていった。


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