紺碧のかなた

こだま

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第二章 第三節

徒浪

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 忠清寺を脱走してから四日が経ち、清々しい秋晴れの日のもと、鳶飛と明空は西へ向かって都を進んでいた。明空は空を仰ぐと、うきうきした様子で鳶飛に言った。
 「今日はすごく気持ちいい日だなぁ。」
 「そうだな。雲一つない空だ。」
 「なあ、あとどれくらいで都を出られそうなんだ?」
 「あと三日はかかる。急げば二日だが、そうなると夜に西門の辺りに着くことになる。あの辺りはかなり物騒な歓楽街だから、夜に近づくことはなるべく避けたい。だからあと三日だ。」
 「歓楽街…。」
書物で目にしたことのある言葉だったが、それが実際にどんなものなのか、山奥の寺で育った明空にはまったく想像がつかなかった。
 「西門を出れば、住んでいるのは農民か、都に居場所を見つけられなかった貧しい者たちばかりだ。土地も、畑や荒野ばかりで、追手にとっては人の多い都より襲いやすくなる。一層周りに警戒して進んでくれ。」
 「わかった。そういえばさ、俺たちのの方は大丈夫なのか?」
 「ああ、まだ誤魔化せているようだ。今はお前のが、俺のから法術を習っているぞ。俺たちが港を出るまで、それで時間を稼いでくれればいいんだが。」
 「そうだな。俺のが法術を学んでいる間は実質《飛影》がもう一派の追手から俺たちを守ってくれているわけだし。ん?えーと、ちょっと待って、整理させてくれ。じゃあ、俺たちが港を出た後、あのは《飛影》かもう一派かに殺されるふりをするってことだよな?」
 「ああそうだ。そうすれば、奴らにとっては目障りな俺たちは『消えた』ことになるわけだから、もう追ってはこないだろう。もっとも、《飛影》はお前に寺に戻ってもらおうとするだろうが、お前が殺されようが寺に連れ戻されようが、あれはお前のだから、お前自身には何ら影響のないことだ。」
 「もし俺のが寺に連れ戻されたらどうなるの?」 
 「俺が霊力を送り続ける限りはずっとお前のふりをし続ける。ただ、は本物の人ではないから、基本は何も食べない。飲食ができないわけではないが、かなり霊力を消費するんだ。そもそも食べ物や水を消化できないしな。」
 「え、じゃあが何か食べたら?」
 「飲んだものも食べたものもそのままの状態で排泄される。まあ誰も厠に出したものまで見張りはしないだろうし、そもそもあの寺で断食はかなり重要な修行の一環だろう?断食すると言えば誤魔化せる。それに、あのが必要なのは俺たちがこの国を出るまでだ。出さえすれば、たとえだとばれてももう誰も追ってはこれない。」
 「そうか…。なら、俺のにはゆっ~くりお前の法術を学んでもらって、出来るだけ時間を稼いでもらわないとだな。」
 「それについては心配ない。出来るだけ時間をかけるように命令してある。」
 「なら安心だ。そういえば鳶飛、俺にはお前の法術、教えてくれないのか?」
それを聞いて、鳶飛の顔が一瞬曇ったのを明空は見逃さなかった。
 「俺が使う法術は、お前が学んできたものとはまったく異なる類のものなんだ。お前の霊力が修行のお陰で常人よりかなり強いことは認めるが、俺の法術を身につけるにはやはり相当の時間がかかる。今はそんなことに時間をかけているより、港に向かうのが先決だ。」
 「…分かった。」
明空は今までも、事あるごとに鳶飛の法術についてそれとなく尋ねてみたのだが、その話題になった瞬間、彼は顔をこわばらせ、貝のように固く口を閉ざしてしまうのだった。
 (俺、信用されてないのかな。)
やはり鳶飛は心のどこかで、明空が彼の術を身につけてしまえば、《飛影》に報告して裏切るのではないかと疑っているのだろうか。そうは思いたくなかったが、法術の話題に触れる度に頑なな態度をとる鳶飛を見ていると、その不安はどうしても拭えなかった。
 (でも昨日、あんなに笑って、打ち解けてくれてたのに…。)
明空は、鳶飛の新たな一面を知った昨晩の出来事に思いを馳せた。


  *


 「ただいま。」
小さな徳利を手にして、明空が宿の部屋に戻ってきた。
 「おかえり。厠へ行ったんじゃなかったのか。」
 「うん、そうだったんだけど、下で何か大きな宴会をやってるみたいでさ。酔っぱらったおじさんたちに押し付けられちゃって。何とか逃げてきたけど。」
鳶飛はその徳利を横目で見ると言った。
 「それ、飲むなよ。初めて酒を飲んだ時どうなったか覚えてるだろ。」
 「いやぁ、覚えてるというか何というか…。頭がふわぁっとして、気づいたら寝てて、朝起きたら激しく頭が痛かったことなら…覚えてるかな。」
 「泣きながら俺に絡んできたことは?」
 「もういいって、それは!俺の記憶にはない!それにあれは、初めての酒だったんだし、水だと思って一気に飲んだから酔っぱらったんであって、ちょっとずつ飲めば問題ない!…と思う。」
 「だめだ、危ない。」
 「何が?」
 「…お前を心配して言ってるんだ。それに、明日に響くと困る。」 
 「あーあぁ、もう分かってるよ。飲まないよ!別に全然おいしくもなかったし。でもこれ、押し付けられちゃったしさ、お前が飲むかなぁと思って持ってきたんだよ。」
鳶飛は進んで酒を飲むことはないが、出されれば拒みもしない。今まで数回彼が酒を飲むところを見たが、酒の入った鳶飛は普段よりほんの少しだけ口数が増える気がして、明空は好きだった。さっき酒を押し付けられたときも、最初は仲居に渡そうかと思ったのだが、これでもう少し鳶飛と話ができれば、あわよくば彼のことをもっと知れればいいと思ってわざわざ部屋まで持ってきたのだった。
 「…ならいただこうか。」
鳶飛は、明空に手渡されたお猪口に酒を注ぐと、ぐいと飲み干した。
 「酔わないのか?」
 「これくらいなら酔わない。」
それを聞くと明空はふんと鼻を鳴らした。
 「どうせ俺はお前の『これくらい』でも酔っちゃう下戸ですよーだ。」
 「そういう意味では…」
困惑している鳶飛を見て、明空は笑った。
 「わぁかってるよ。ただお前をちょっと困らせて見たかっただけ。あと、『下戸』って言葉使ってみたかったんだ。忠清寺では絶対に使わないからさ。」
鳶飛は楽しそうな明空を見てほうっと溜め息をついた。
 「…お前、俺が思っていたのとは全然違うな。」
 「何。どんな奴だと思ってたの?」
 「十八で薄紫ノ僧だというから、もっとこう…忠清寺に染まったやつだと思っていた。」
 「ほーう。もっと性根の腐った奴だと思われてたわけだ、俺。」
鳶飛は苦笑した。
 「いや、何というかこう…もっとお堅くて冷淡で、自分の目的以外には価値を見出せない狭小な奴かと思っていた。」
 「おい、ひどい言われようだな。…まぁでも、寺にいた頃はそんな感じだったよ。俺、修行を頑張っていくうちにさ、寺の汚い部分とかが嫌ってほど見えてきて。あんな寺の一員だって考えただけでも虫唾が走るほどだったんだ。それで、人一倍修行して誰よりも優秀な僧になることで、どうにかして周りと距離を取って、自分はこいつらとは違うんだって思いたかったんだよ、今考えてみれば。でもそうなったらなったで孤独でたまらなくて。お前がさっき言ったみたいに、『修行して優れた僧になる』ことしか頭にないような自分を演じる自分まで嫌になってきてたんだ。」
そこで明空は言葉を切り、ゆっくりと天井を仰いだ。
 「でももう、そんな昔の俺とはきれいさっぱりおさらばしたから、今まで押さえつけられてきた部分が溢れ出してるんだと思う。」
鳶飛は軽く眉を上げた。
 「それはかなりの溢れっぷりだ。」
 「どういう意味だよ。」
 「お前が今言った『修行して優れた僧になることしか頭にない人間』とは全然違う奴になってるってことだよ。」
 「…じゃあ鳶飛は、今は俺のこと、どう思ってるんだよ。」
 「そうだな――とても真っ直ぐで、感情豊かで、負けず嫌い。まるで子どもみたいだ。」
 「はぁ?何だそれ。ちょっと馬鹿にしてるだろ。」
 「徳利一本で酔っぱらうようなやつは大人には程遠いと思うが。」
 「なっ…。そもそも!俺は別に酒なんて美味いとも思わないし。そんな正気失うようなもののどこが良くて飲むんだよ?」
鳶飛は空になったお猪口に酒をつぐと、その透明な液の表面をじっと見つめた。
 「そうだな。酒にも、美味い酒と不味い酒があると思う。」
ふいに神妙な面持ちになった鳶飛を訝しそうに見ながら、明空が尋ねた。
 「…なら、お前が今まで飲んだ中で、一番美味いと思った酒は何だった?」
鳶飛はしばらく黙っていたが、ふいに口を開いた。
 「昔、とても大切な人がいたんだ。俺を泥沼から引き上げて、生きるために必要なすべてを教えてくれた人――法術もその人から教わった。俺が一番最初に教わった術を一人で完璧にできるようになった日、その人が一緒に祝ってくれたんだ。あの時の酒が一番美味かった。」
お猪口に残った酒を見つめながら、懐かしそうに目を細める鳶飛の様子に、明空は一瞬胸の奥を何かで突かれたような、何とも言えない苦しさを覚えた。
 「…じゃあ、これは?お前が今飲んでるこの酒は、どうなんだよ。美味いのか、不味いのか。」
鳶飛はふっと笑って言った。
 「美味いよ。美味い。ただ、連れが一緒に飲めないのが玉に瑕だな。」
 「なっ、の、飲めるよ!それ一杯くらいなら!貸せ!」
明空は、鳶飛が手に持ったお猪口を奪い取ろうと手を伸ばした。しかし鳶飛はそれより早くお猪口を持った手を高く上げ、明空の手は敢えなく空をつかんだ。彼は舌打ちすると、隣の徳利にも手を伸ばした。
 「それもだめだ。」
鳶飛は明空の手が届く寸前で徳利を取り上げた。明空は悔しそうにきっと鳶飛を睨むと、そのまま彼の両手首をつかみ、手首ごと何とかお猪口と徳利を自分の方へ引き寄せようと、思い切り腕に力を込めて引っ張りはじめた。
 「やっ…めろ…」
 「いい…から、かっ、せっ!」
二人は互いの腕を引っ張ったまましばらく睨み合っていたが、ふいに明空は膝立ちになり顔をお猪口へ近づけて飲もうとした。腕が動かないなら他を動かし何とか飲んでやろうという魂胆だ。その動きを察知した鳶飛は、明空の腕の力が抜けた僅かな隙をついてお猪口を口元へ引き寄せ、ぐいと中味を飲み干した。
 「くそっ。」
言いながらもまだ諦めていない明空は、今度は徳利の方へ顔を近づけた。
 「それはもっとだめだっ。」
鳶飛はつかまれている手首ごとぶんと前方へ突き出し、明空を押し返した。明空は一瞬よろめいたが、鳶飛の手首はがっちりとつかんだまま放さなず、両者ぎりぎりと互いを引っ張り合ったまま微動だにしない。と、明空の目に、鳶飛の唇がさきほど飲んだ酒で濡れているのが映った。その途端、彼の頭にはっとある考えが浮かんだ。
 「もらったぁ!」
明空はぐいと顔を突き出すと、鳶飛の濡れた唇をぺろりと舐めた。舌にうっすらと酒のつんとした味が広がる。
 「へっ、どうだ!」
明空は勝ち誇った顔で鳶飛を見下ろしたが、呆気に取られた彼で明空を見つめ返す鳶飛に眉をひそめた。
 「なに。」
明空は鳶飛の顔を訝しげにしばらく見つめていたが、ふと、先ほど自分がした行動が別の意味を持ち得ることに気づいてみるみるうちに耳の先まで真っ赤になった。彼は部屋の隅まで一気に後ずさると、両手をぶんぶんと振り回し、冷や汗を垂らしながら弁解をはじめた。
 「あ…あっ、あああああの!こ、これは!違う!違う、本当に違うんだ!他意は全然なくて、ただお前に飲めないと言われたのが悔しかったから!絶対飲んでやると思って、つい意地を張ってしまって!いやほら、俺、お前が言った通り子どもっぽいからさ、その…いや、ほんとに…ちが……。いや……。いや俺、少し調子に乗りすぎたな。ごめん……本当にすまない…。」
だんだんと尻すぼみになり、最後は消え入りそうな声で明空は謝った。鳶飛の方はというと、彼の謝罪を聞いているのかいないのか、呆然と虚空を見つめたまま、そっと唇を指でなぞった。明空の舌の生温かいざらりとした感触が今も残っている。彼はしばらくそうしてぼうっとしていたが、ゆっくりと明空のほうへ視線を移した。彼は鳶飛に背を向け、部屋の隅で体を丸めて小さくなっている。その細いうなじは真っ赤になっていた。
 (明空、明日になっても引きずりそうだな…。)
自分の行いを心から恥じ、悔いていることが背中から伝わってくる。
 「おい、別に何も気にしてないから大丈夫だ。俺もふざけていたんだし、何もお前が気に病むことじゃない。それに、口吸いくらい大したことでもないだろう。」
それを聞いた途端、明空の肩がぴくりと跳ねた。
 「…そ、そうか…。そうだよな…。世慣れしたお前には、こんなの、大事でも何でもないよな…」
蚊の鳴くような声で言った明空の言葉に、鳶飛はしまった、とこめかみを押さえた。
 (これは失言だったな。)
鳶飛は少し考えるように明空をじっと見つめていたが、ついと立ち上がると、ゆっくりと部屋の端まで歩いてきて、彼の背後に屈み込んだ。
 「なあ明空。」
 「…何。」
そうぼそりと答えた明空は、相変わらず鳶飛に背を向けたまま、畳につきそうなほど深く首を垂れている。
 「実は今まで俺、もの凄く大事なことをお前に黙っていたんだ。」
 「え?」
不意を突かれ、明空は思わず鳶飛のほうを振り返った。しかし鳶飛と目が合うや否や、彼はすぐに目を逸らして俯いてしまった。
 「明空、これは俺だけじゃなくて、お前にも関わる重要なことなんだ。今まで何度言おうと思ったか分からない。ただずっと勇気がでなくて言えなかったんだ。でももう大丈夫だと思う。お願いだから、聞いてくれるか。」
鳶飛は明空の両肩に手を置くと、真剣な顔で彼をのぞき込んだ。明空は、はじめは顔を赤らめて俯いたままだったが、その切実な雰囲気に押されたのか、恐る恐る顔を上げ、鳶飛を見た。
 「面と向かって言うのは恥ずかしいから…耳を貸してくれるか。」
明空は少し困惑した表情を浮かべたが、言われるまま鳶飛のほうへ耳を傾けた。鳶飛は明空の耳を手で包み込むと、口を近づけた。と次の瞬間、ぐおえぇっという、踏まれた蛙のような野太いが明空の耳元に、そして部屋中に響き渡った。
 「なっ、なんだよ?!!」
明空は耳元に酒臭い風を感じ、咄嗟に耳をおさえた。それを見た鳶飛は腹を抱えて笑い出した。
 「はっはっはっはっ…!あぁー…はっはっひっ!はぁ、あぁ、もうお前、おかしすぎる…」
 「鳶飛!おっ、お前、からかったな!もう、ほんっとーーに最低だ!見損なったぞ!ばか!」
 「馬鹿はそっちだろ。こんな見え透いた嘘に引っかかるやつがあるか。」
明空はむくれてばしばしと鳶飛の肩を叩いた。彼は明空の反撃を気にも留めず、笑い過ぎて目の端に浮かんできた涙を拭いている。
 「はぁー…おかし…」
鳶飛はまだ笑いでひぃひぃと乾いた息をしている。それを見て明空は心底腹が立ったが、なぜかそれと同じくらい、心がじんわりと温もってくるのを感じていた。
 (こいつも冗談言ったり、こんなに笑ったりするんだ。昔の死んだような顔でも、いつもの仏頂面でもなくて…こんなに生き生きできるんだ。)
今まで知らなかった鳶飛の一面を見ることができたこと――そして彼が、それを見せてもよいと思うほど自分に心を開いてくれたこと――それが何よりも、明空の心を喜びで満たしていた。


  *


 「俺の顔に何かついてるか。」
鳶飛に言われてはじめて自分がじっと彼の顔を見つめていたことに気づき、明空は慌てた。
 「え?い、いや、何も…。」
鳶飛は、昨晩の無邪気な少年のような様子とは打って変わっていつもの無表情に戻っている。最初のころよりは少し態度が軟化したように思えるが、やはり口数も表情も乏しく、何を考えているのか分からない。
 (昨日はこいつ、酔ってたのかな?)
少し心を開いてくれたのではと思っていた明空は、なんだか寂しい気がした。
 と、道の脇から、腰の曲がった老人がこちらに近づいてくるのが見えた。着物はあちこち破け、もとの色が分からないほど黒ずんでいる。彼の足取りは今にも倒れそうなほどおぼつかない。老人は二人の脇に立つと、震える手を差し出して言った。
 「お恵みを…少しでかまわない…いくらか…」
彼の方からは、何日も風呂に入っていない人間特有の、垢と尿が混ざったような、鼻が曲がりそうなほどの異臭が漂ってくる。皺だらけの顔に、切れ込みのように細く開いた目は白濁し、まったく精気が感じられない。明空には、この老人がまるで生きた屍のように見えた。
 「なあ、鳶飛、少しくらい…」
あまりに痛々しい老人の様子に、明空は鳶飛のほうを見上げて言った。
 「悪いがほかを当たってくれ。」
鳶飛は老人に目もくれず淡々とそう言うと、明空の腕を引いてすたすたと歩きだした。明空は残された老人をちらちらと振り返りながら言った。
 「おい、鳶飛…。あの人、死にそうだったぞ。ちょっとくらい小銭をやってもよかったんじゃないか。」
 「何を言ってる。お前も少しは都に慣れてきたなら、死にそうな人間なんてそこら中で見てきただろ。安易に金を出せば賊に目を付けられるかもしれない。誰が見ているか分からないんだぞ。それに、物乞いの中には人の慈悲につけこんで銭入れ丸ごとかっさらうような輩もいるんだ。まして俺たちは今出来るだけ目立たないようにしなければいけない身だ。人の心配をする前に、まず自分の身を守れ。」
 「……」
鳶飛のもっともな言い分に、明空はぐうの音も出ない。それでも明空は何だか納得がいかず再び後ろを振り返った。あの老人は、往来の人々に近寄っては声をかけていたが、彼を相手にする人は誰もいないばかりか、皆老人を避けて歩くので、人混みの中で彼の周りだけは輪のような空間ができている。明空はその様子に顔を曇らせた。
 (こんなのって…。)
都に来てから、寺では想像もしなかったさまざまなものを目にしたが、その中で最も明空に衝撃を与えたものの一つが、先ほどの老人のような物乞いや、道端で死んだように動かない人々だった。中にはまだほんの小さな子どもまで見た。数の大小はあれど、都のどの通りでもこのような人々は必ずいて、明空の心は彼らを目にする度にずきりと痛んだ。彼らが何をし、どんな経緯で今のような状態になったのかは分からない。もしかしたら中には悪事を働いてこうなった者もいるのかもしれない。しかし同じ人として、助けが必要な人間を見て見ぬふりをするのは、明空にとっては耐え難い罪のように感じられた。
 「少し腹ごしらえするか。」
 「え、あ、うん。」
鳶飛に唐突に声をかけられ、明空は咄嗟に頷いた。
 「食べたいものはあるか。」
 「えっと…じゃ、あれで。」
そう言って明空が指さしたのは、こぶし大の大きさの蒸餅むしもちだった。唐黍とうきびの粉でつくった生地に、肉や野菜などの具を詰め込んで蒸した食べ物だ。先日これを初めて食べた明空はその味に感動し、それからというもの屋台を見かける度に生唾が湧くのだった。
 「よっぽど気に入ったんだな。」
 「わ、悪いかよ。」
 「いや。行こう。」
二人は屋台の前へ来ると、それぞれ三つずつ蒸餅を注文した。鳶飛は店主に金を渡し、すでに出来上がって台に並べられていた蒸餅を四つ受け取った。
 「あと二つ、もう蒸しあがるから、ちょっと待ってね。それと兄ちゃん、釣り。」
鳶飛は受け取ろうとしたが、蒸餅で手がふさがっている。明空は代わりに手を伸ばした。
 「悪いな、明空。」
 「いいよ。後でちゃんとお前に渡すから。」
 「ありがとう。」
そうして二人が残りの蒸餅が出来上がるのを待っていると、ふいに明空は肩を叩かれた。びくりとして振り返ると、そこには年配の女が立っていた。
 「ちょいと兄ちゃん、あんた並んでんのかい?」
 「え、あ、いや、こいつと一緒に待ってるだけです。すみません。鳶飛、俺、邪魔になるしあっちで待ってる。」
 「わかった。」
明空は、屋台から数歩離れたところで鳶飛を待つことにした。しばらくぼんやりと往来を眺めていたが、突然、着物の裾をぐいと引っ張られた。驚いて足元を見ると、そこには五、六歳くらいのやせ細った少年が、丸い瞳を大きく見開いてじっとこちらを見ている。
 「お兄さん、小銭、ちょっとちょうだい。」
ぼさぼさの髪に、くすんだ顔色、骨がくっきりと浮き出た手足。孤児であることは明らかだ。彼はその薄汚れた両手の平を精一杯広げて、ひたすら明空を見つめてくる。
 (鳶飛は物乞いは無視しろって言うけど、こんな小さな子まで放っておけないよ…。さっきの釣りは鳶飛のだからあげられないけど、せめて何か…。)
明空はしばらく懐を探っていたが、指にあるものが当たった。彼は屈み込んで少年と目線を合わせると、その汚れた小さな手を取り、懐から取り出した薄い紙のふだを握らせた。
 「ごめんね、小銭はおれの友達のものだからあげられないけど、これならいいよ。これは、この国で一番すごい寺のお札なんだ。これがあれば、どんな強い悪霊も近寄ってこないし、憑りついている悪霊なんかも祓ってくれる。君のことを必ず守ってくれるよ。」
 「…これ、俺だけじゃなくて、弟も守ってくれる?」
 「もちろんだ。」
それを聞くと少年はぱぁっと顔を輝かせた。
 「お兄さん、ありがと!」
礼を言うなり、少年はくるりと踵を返してどこかへ駆け去っていった。明空はその背中が人混みに消えるまで見送っていたが、何だかいいことをしたと思い、上機嫌で立ち上がった。その途端、彼の目に、足元でひしめき合っている何十人という子どもたちの姿が飛び込んできた。明空は、いつの間にか孤児たちに囲まれていたのだ。
 「?!」
 「お兄さん、これ、買って!」
 「こっち、お兄さんこっち。ねぇあたしにもお金ちょうだい。」
 「お兄さん、お腹すいたよ。あの蒸餅ほしい。」
 「だめ、お兄さん!おれ!おれ見て!おれのこれ買ってよ。」
 「どいてよあんた!お兄さん!あたしにもお金…」
子どもたちは互いに押し合いながら我先にと明空に迫ってくる。小銭や食べ物をねだる者、道端で拾ったらしいがらくたを売ろうとする者、とにかく何でも貰えるものを貰おうと迫ってくる者…。中には無遠慮に明空の着物をつかんで引っ張ったり、足につかまろうとする者もいる。明空はぐるりと四方を囲まれ、身動きがとれなくなってしまった。
 (ど、どうしよ…?!)
 「おいお前たち、金がほしいならこっちだぞ。」
と、ふいにどこかから声がした。声の主のほうを見ると、片手いっぱいの小銭を持った鳶飛がいた。
 「ほら。」
そういうと鳶飛は、小銭の乗った片手をくるりとひっくり返した。小銭は彼の手からばらばらと音を立てて地面に落ち、そこら中に散らばっていく。子どもたちはそれを見るなり、わあっと声をあげ、我先にと落ちた小銭を拾いに走り出した。鳶飛はその隙をついて明空の腕をつかむと、釣り銭拾いに夢中になっている子どもたちの間を縫って駆け出した。
 鳶飛は明空を引っ張ってしばらく走っていたが、子どもたちの姿が見えなくなると足を止めた。そして彼の方へくるりと振り向くと、険しい声で言った。
 「明空。さっき俺が言ったことを忘れたか。俺たちは目立ってはんだぞ。」
 「ご、ごめん。でも…」
 「可哀想な子どもがいたたまれなかった、か?お前、俺がいなかったらどうなってたと思う。」
 「それは…」
 「あのまま子どもたちにたかられて、身ぐるみはがれていたかもしれないんだぞ。あいつらは生きるために必死なんだ。狩れそうな鴨がいれば容赦しない。取れるものなら何でも取っていくんだ。子どもだからって舐めてかかっていればいつか痛い目を見る。それに、あんなに風に目立てば、物乞いも上手くあしらえない腰抜けだと思われて、どんな賊に目を付けられるか分からない。もしも俺が助けに入っていなかったら、明日にはお前、さっきの爺さんみたいに文無しで道端を這いずり回っていたかもしれないんだぞ。」
鳶飛の言葉に、明空はうなだれた。
 「…すまなかった。浅はかだったよ。本当に、ごめん…。」
しゅんとした彼の様子を見て、鳶飛ははぁと溜め息をついた。
 「まあ、これでまた、寺の外で生きていくための教訓を学んだんじゃないのか。一歩成長したってことだ。」
 「…うん…。」
鳶飛は、脇に流れている用水路のほとりに腰掛けると、自分の左隣をぽんぽんと叩き、明空にそこへ座るよう促した。明空は促されるまま彼の隣に腰を下ろしたが、相変わらず暗い顔で俯いている。二人は互いに黙ったまま、水路の茶色い水がゆっくりと流れていくのを見つめていた。
 と、明空は、突然目の前に白くて丸いものを突き出され、驚いて顔を上げた。見ると、鳶飛が用水路を見つめたまま、先ほど買った蒸餅を明空のほうへ手渡している。
 「小銭はさっきの子どもたちにちょっとばかり渡したが、こっちは渡さなかったんだ。」
鳶飛はぼそりと言った。
 「あ、ありがとう。」
明空はそれを受け取ると、ぱくりと一口かじりついた。
 「熱っ。」
鳶飛は出来立てのほうを渡してくれたらしく、蒸餅の中はやけどしそうなほど熱い。鳶飛も、懐から自分の蒸餅を取り出すと、黙って食べはじめた。
 二人は沈んでいく茜色の夕日を背に、はふはふと息をしながら、黙って熱い蒸餅を頬張った。



 二人が蒸餅を食べ終え、今晩の宿を探しに歩き出したころには、辺りはすっかり暗くなっていた。
 「ここを少し行ったところに、いい宿があるんだ。今晩はそこにしよう。」
 「わかった。」
明空は鳶飛について歩き出した。軒先に吊るされた提灯には点々と灯がともり、紫黒の空にぼんやりと街を浮かび上がらせている。秋とはいえ、日が沈むと少し肌寒い。行き交う人々も、籠を背負った女たちや桶を担いだ商人の姿は消え、鳶飛と明空のような旅姿の者や、腰に刀を差した男たち、鮮やかな着物を着た艶めかしい女たちの姿が増えてきた。明空は鳶飛について歩きながら、日中とはまた違った趣を呈す街のようすをぼんやり眺めていた。
 (俺、やっぱり役立たずだな。良かれと思ってしたことも、結局無駄になって鳶飛にも迷惑かけて…。忠清寺では神童だ神童だって嫌っていうほど一目置かれていたのに、一歩俗世に出れば、ただの世間知らずの能無しと変わらない。いつも鳶飛に守られて、助けられてばかりで…。こいつがいなかったら俺なんて、今頃とっくにどこかで野垂れ死んでたかもしれないな。あーあ、もう自分が嫌になる。鳶飛だって八つまで寺にいたのに、なんで…いや、十年も俗世で暮らしてればそりゃ生きる術くらい身につくか。はあぁ…一体いつになったら、俺はあいつに追いつくんだろ…。) 
そう明空が物思いに沈んでいると、突然細い路地から小さな手がにゅっと伸びてきて、彼の衣のすそを掴んだ。驚いてそちらを振り返ると、路地の陰から、見覚えのある小さなやせた顔が覗いている。さきほど明空が札をあげた少年だ。
 「ど、どうしたの。俺、もう何もあげられないよ。」
明空は鳶飛のほうをちらちらと見ながら囁いた。幸い鳶飛は何も気づいていないようだったが、あんなことがあった手前、また同じ物乞いの子どもと話しているところを見られれば立場がない。 
 「あのね、お兄さんがくれたお札、弟にあげたらね、ちょっと元気になったの。お兄さんありがとう。」
少年はそういうと、明空の方へ手を差し出した。
 「これ、あげる。」
彼の手の中に入っていたのは、つやつやと黒光りする丸い石だった。
 「川で見つけた俺の宝物なの。お礼にお兄さんにあげるね。」
明空は心打たれた表情で彼を見ると、手を差し出してそれを受け取った。
 「ありがとう。大切にするよ。」
彼は反対の手で、少年のぼさぼさの髪を撫でた。
 「じゃ、俺もう行かないといけないから。気を付けてね。」
明空は最後にそう囁くと、くるりと踵を返し、足音を忍ばせ鳶飛の方へと戻っていった。
 (やっぱり、無駄じゃなかった。俺にも出来ることあるんだ!)
彼は、懐の小石を握りしめながら、胸がふつふつと希望に満ちていくのを感じていた。
 

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