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後編
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出来る限り優しく、自然に、笑顔で。それが、人の心に一番刺さり、効果的に訴える――らしい。真相は定かではないが、幸介もその印象だけで柳瀬のことを覚えていたこともあり、ここだけは柳瀬の教えを忠実に守っている。
「いえ、それが全く……。気が付いたら周りに何もない、真っ白なところに一人で立っていて。それで、私の後ろには変な扉があったので、もしかしたら、酔っぱらってこの扉の中に入っちゃったのかなって、扉が押したり引いたり、横にスライドさせたりしたんですけど――」
「ビクともしなかった?」
「はい。それで仕方なく歩き始めたら、急にこの場所を記す看板が見えて」
田浦は思い出しながら話しているのか、視線が常に動いている。不安な気持ちに駆られているのだろう。その間にも、田浦の額からは汗が内側からこちらを覗くように、次々と顔を出していた。
「田浦さん、ご安心ください。ここに居る者はみな、田浦さんと同じ道を歩んでここに来た者たちです。右も左もわからぬまま、ただ足を前に動かして。良いですか、あなたは決して一人じゃありません」
「みな……ということは、あなたも――?」
「もちろんです。私も田浦さんと同じように扉の前に立ち、ここへと来ました」
「そうでしたか」と、少し安堵の表情を浮かべながら、田浦は吐き出す息とともに肩を下ろす。そして、間髪入れずに「ところで」と切り出した。
「ここは一体、どういう――」
その言葉だけで、幸介は全てを理解する。
「失礼しました。ここは田浦さんが見た通り、『扉の中の世界』です。特に名称は無いので、ここに暮らす人々は『中の世界』と呼んでいます」
「中の……世界?」
田浦は幸介の言葉の意味、おかれた状況を整理しようとするような表情を浮かべると、言葉を発することなく、瞬きの回数だけが増えていく。
「中の世界に居る人たちもみな、田浦さんと同じく過去の記憶がありません。最初に私がした質問も、単なる確認作業に過ぎません。私たちは自分がどのような生い立ちで、どんな過去を背負い、どれ程の未来を描いていたのかを知らないのです。だからこそ、ここでは全てが『自由』です。趣味や仕事、更には恋愛も。記憶はありませんが、幸いにも身体は動き、感情は働きます。変に記憶が残っているより、余程建設的だと思いませんか?」
幸介の話を受け入れ始めたかのように、田浦はゆっくりと頷くと、真っすぐ幸介の目を見てから口を開く。
「それは確かに……そうなんですかね。あなたの話が真実であるなら、色々な成長過程をすっ飛ばして、新しい人生を手にしたようなモノですから」
「えぇ、おっしゃる通りです。そして私の話が真実であるかどうかは、これから田浦さんご自身の目で確かめていけば良い」
田浦の顔から困惑の瞬きは消えていた。代わりに希望にも似た笑みが見え隠れしている。
「私は何をしても自由――なのですね?」
「縛られるモノはありません。やりたい時に、好きなことをしてください。ちなみに、味覚や嗅覚は残っていますが空腹になることはなく、中の世界では食べ物を食べなくとも問題ありません。交通事故などで外的損傷を受けても大丈夫です」
「え、それってどういう――?」
「どのようなことが起きようと、ここで死ぬことはないという意味です」
幸介の言葉に、田浦は再び表情を曇らせた。眉根を寄せ、次の言葉を待っている。
「もうお気づきかもしれませんが、我々の居る『中の世界』とは、すなわち、『その後の世界』であり、言ってしまえば『死後の世界』なんです。ですから、もうこれ以上、命を落とすことはありません。但し――」
次の言葉までの「間」は、幸介によって意図的に設けられたモノだったが、田浦の緊張を煽るには十分な効力があった。田浦は瞬きもせずに唾を飲み込んでいた。
「田浦さんの元に『手紙』が届いた時、あなたはあの扉の先へと、戻らねばなりません」
「それは、つまり――」
「『外の世界』へと行く、ということです」
「外の世界……」
田浦は幸介の言葉を繰り返し口にする。しばらく目を泳がせながら考える素振りを見せた後、田浦は言った。
「私はまた――生き返るということでしょうか?」
その表情には、確かに希望が滲んでいた。幸介は表情を崩すことなく、田浦の問いに応えていく。
「生とはリセット。死とは継続です。捉え方によってはそれらが循環しているように映るかもしれません。ですが、正確には違います。外の世界へと旅立つ時。それがあなたの、本当の意味での最期ということになります」
「『生』が……本当の意味での最期ですか?」
田浦の気持ちに蓋をするように、幸介は静かに頷いた。
「で、では、『手紙』とは? その手紙はいつ頃届くんです?」
睨みつけるような視線を送りながら、田浦は身を乗り出す。この瞬間だけは、否が応でもあの時の事を思い出す。
「それは――私たちにもわかりません。『手紙』は何の前触れもなく、中の世界において自由の象徴といわれる伝書鳩によって、突然、運ばれてくるのです。わかっているのは、『誰の元にもその日がいつかは必ず来る』ということ。そして、私たちは『その日』を目標に、精一杯の『自由』を生きていく必要があるのです」
田浦の視線は凄みを増し、感情を言葉に乗せて吐き出した。
「目標って……そんな制限がついていては、とてもじゃないが『自由』とは言えないじゃないですか。先が決まっていて、その中の『自由』を謳歌しろなんて……あなたの言うことは、机上の空論に過ぎませんよ」
「それはそうなのかもしれません」と幸介は田浦に同意するように、頷きながら下を向き、ゆっくり深い息を吐く。そして再び、柳瀬直伝の笑顔を田浦へと向けた。
「ですが、限られた『自由』だからこそ、精一杯生きる価値があるのですよ。そして、そう言われるみなさんに、私はいつもこの話を贈っています。私が生きる、等身大の自由の話を――」
そう言って、幸介はあの日の話をし始めた。
――叶と結婚してから三ヶ月後。
幸介はいつもと変わらぬ朝を迎えていた。ベッドから身体を起こすと、ほのかにコーヒーの香りが漂っている。
「おはよう。今日もいい天気だね」
食卓にはトーストと目玉焼き、それから昨夜のホワイトシチューが並べてある。叶は食器を洗う手を止め、一日の始まりを教える笑顔をくれた。
「おはよう、幸介。ちょうど今、コーヒー入ったとこ」
水色とピンクのマグカップ。幸介がプロポーズをした日の帰り道、たまたま見つけた雑貨屋で購入した物だった。これを見る度、あの時の「温度」を思い出す。
「ありがとう。んー、良い匂いだね」
その香りを楽しむように、幸介は大きく息を吸った。
「あ、そうだ。今朝ね、郵便受けに手紙があって」
「手紙? 誰から?」
「それがなんと……あの時の神父さん」
叶は嬉しそうに、その手紙を抽斗《ひきだし》から取り出すと、幸介に手渡す。手紙には結婚式の際の写真と、簡単なメッセージが添えられていた。
「うわ、本当だ。そうか、今日は結婚式をした日からちょうど一ヶ月……。こんな粋な事をしてくれる神父さんが居るんだね」
「素敵よね。あの日の言葉、私、今でも夢に見ちゃうもの」
「俺もだよ。確か――」
二人は神父の言葉を口にする。
「命とは、心の炎が灯ること。結婚とは、心の炎をわかつこと。さあ、目を閉じて、相手のことを想いなさい。炎は互いの胸に、光を灯すでしょう。そして、灯った光を感じなさい。さすればいつまでも、互いを感じることが出来るでしょう」
「これで汝の心に、想い人の炎は灯された――」
その言葉を、言い終えた時だった。
あの時と同じ優しい風が室内へと流れ込み、その風に乗るように、一羽の鳩が手紙を口に挟んで飛んできた。鳩は手紙を机の上に置くと、再び来た道を音もなく帰って行った。
「これって、もしかして……」
「うん。きちゃった……みたいだね」
二人はその手紙を読むと、温かな朝食もそのままに、家を出た。
向かった先は――あの扉の前だった。
「『生とはリセット、死とは継続』かぁ――」
扉の前で、叶は扉を見つめたまま呟いた。
「『継続』って言っても、当時の記憶はないわけじゃない? そう考えると、『継続』って言葉を使うのは変だと思わない?」
「確かに……そうだね」
「結婚式で誓いの言葉を言った時、幸介は言ったよね? 『「絶対」とか「誓う」とか、そんな不確かなモノは「信じる」気持ちで補われているんだ』って」
幸介は言葉にすることなく、小さく頷く。
「だからさ……私、『信じて』みようかなって思うんだ。ここで幸介と出会って、夫婦になれたのは、きっと『外の世界からの継続』だったんだって。私たちはあっちの世界でも出会ってた。ここでまた出会えたのは、二人の心に、最後の光を灯すため。そして私は向こうに行っても――その光を探していくよ」
叶は静かに、扉を閉めた。
中の世界とは反対側から扉を閉める時、最後の言葉を中の世界に残して。
「『信じて』生きていくことも、『自由』でしょ?」
「君は一足先に、灯ったんだね。俺はまだ、君の炎が灯ったままだ」
幸介は扉に向かって、涙ながらに呟いた。
――君がこの光を見つけるまで、俺はこれからもずっと、君を想うよ。
絶対と誓った、「生」がふたりを、分かつまで。
「いえ、それが全く……。気が付いたら周りに何もない、真っ白なところに一人で立っていて。それで、私の後ろには変な扉があったので、もしかしたら、酔っぱらってこの扉の中に入っちゃったのかなって、扉が押したり引いたり、横にスライドさせたりしたんですけど――」
「ビクともしなかった?」
「はい。それで仕方なく歩き始めたら、急にこの場所を記す看板が見えて」
田浦は思い出しながら話しているのか、視線が常に動いている。不安な気持ちに駆られているのだろう。その間にも、田浦の額からは汗が内側からこちらを覗くように、次々と顔を出していた。
「田浦さん、ご安心ください。ここに居る者はみな、田浦さんと同じ道を歩んでここに来た者たちです。右も左もわからぬまま、ただ足を前に動かして。良いですか、あなたは決して一人じゃありません」
「みな……ということは、あなたも――?」
「もちろんです。私も田浦さんと同じように扉の前に立ち、ここへと来ました」
「そうでしたか」と、少し安堵の表情を浮かべながら、田浦は吐き出す息とともに肩を下ろす。そして、間髪入れずに「ところで」と切り出した。
「ここは一体、どういう――」
その言葉だけで、幸介は全てを理解する。
「失礼しました。ここは田浦さんが見た通り、『扉の中の世界』です。特に名称は無いので、ここに暮らす人々は『中の世界』と呼んでいます」
「中の……世界?」
田浦は幸介の言葉の意味、おかれた状況を整理しようとするような表情を浮かべると、言葉を発することなく、瞬きの回数だけが増えていく。
「中の世界に居る人たちもみな、田浦さんと同じく過去の記憶がありません。最初に私がした質問も、単なる確認作業に過ぎません。私たちは自分がどのような生い立ちで、どんな過去を背負い、どれ程の未来を描いていたのかを知らないのです。だからこそ、ここでは全てが『自由』です。趣味や仕事、更には恋愛も。記憶はありませんが、幸いにも身体は動き、感情は働きます。変に記憶が残っているより、余程建設的だと思いませんか?」
幸介の話を受け入れ始めたかのように、田浦はゆっくりと頷くと、真っすぐ幸介の目を見てから口を開く。
「それは確かに……そうなんですかね。あなたの話が真実であるなら、色々な成長過程をすっ飛ばして、新しい人生を手にしたようなモノですから」
「えぇ、おっしゃる通りです。そして私の話が真実であるかどうかは、これから田浦さんご自身の目で確かめていけば良い」
田浦の顔から困惑の瞬きは消えていた。代わりに希望にも似た笑みが見え隠れしている。
「私は何をしても自由――なのですね?」
「縛られるモノはありません。やりたい時に、好きなことをしてください。ちなみに、味覚や嗅覚は残っていますが空腹になることはなく、中の世界では食べ物を食べなくとも問題ありません。交通事故などで外的損傷を受けても大丈夫です」
「え、それってどういう――?」
「どのようなことが起きようと、ここで死ぬことはないという意味です」
幸介の言葉に、田浦は再び表情を曇らせた。眉根を寄せ、次の言葉を待っている。
「もうお気づきかもしれませんが、我々の居る『中の世界』とは、すなわち、『その後の世界』であり、言ってしまえば『死後の世界』なんです。ですから、もうこれ以上、命を落とすことはありません。但し――」
次の言葉までの「間」は、幸介によって意図的に設けられたモノだったが、田浦の緊張を煽るには十分な効力があった。田浦は瞬きもせずに唾を飲み込んでいた。
「田浦さんの元に『手紙』が届いた時、あなたはあの扉の先へと、戻らねばなりません」
「それは、つまり――」
「『外の世界』へと行く、ということです」
「外の世界……」
田浦は幸介の言葉を繰り返し口にする。しばらく目を泳がせながら考える素振りを見せた後、田浦は言った。
「私はまた――生き返るということでしょうか?」
その表情には、確かに希望が滲んでいた。幸介は表情を崩すことなく、田浦の問いに応えていく。
「生とはリセット。死とは継続です。捉え方によってはそれらが循環しているように映るかもしれません。ですが、正確には違います。外の世界へと旅立つ時。それがあなたの、本当の意味での最期ということになります」
「『生』が……本当の意味での最期ですか?」
田浦の気持ちに蓋をするように、幸介は静かに頷いた。
「で、では、『手紙』とは? その手紙はいつ頃届くんです?」
睨みつけるような視線を送りながら、田浦は身を乗り出す。この瞬間だけは、否が応でもあの時の事を思い出す。
「それは――私たちにもわかりません。『手紙』は何の前触れもなく、中の世界において自由の象徴といわれる伝書鳩によって、突然、運ばれてくるのです。わかっているのは、『誰の元にもその日がいつかは必ず来る』ということ。そして、私たちは『その日』を目標に、精一杯の『自由』を生きていく必要があるのです」
田浦の視線は凄みを増し、感情を言葉に乗せて吐き出した。
「目標って……そんな制限がついていては、とてもじゃないが『自由』とは言えないじゃないですか。先が決まっていて、その中の『自由』を謳歌しろなんて……あなたの言うことは、机上の空論に過ぎませんよ」
「それはそうなのかもしれません」と幸介は田浦に同意するように、頷きながら下を向き、ゆっくり深い息を吐く。そして再び、柳瀬直伝の笑顔を田浦へと向けた。
「ですが、限られた『自由』だからこそ、精一杯生きる価値があるのですよ。そして、そう言われるみなさんに、私はいつもこの話を贈っています。私が生きる、等身大の自由の話を――」
そう言って、幸介はあの日の話をし始めた。
――叶と結婚してから三ヶ月後。
幸介はいつもと変わらぬ朝を迎えていた。ベッドから身体を起こすと、ほのかにコーヒーの香りが漂っている。
「おはよう。今日もいい天気だね」
食卓にはトーストと目玉焼き、それから昨夜のホワイトシチューが並べてある。叶は食器を洗う手を止め、一日の始まりを教える笑顔をくれた。
「おはよう、幸介。ちょうど今、コーヒー入ったとこ」
水色とピンクのマグカップ。幸介がプロポーズをした日の帰り道、たまたま見つけた雑貨屋で購入した物だった。これを見る度、あの時の「温度」を思い出す。
「ありがとう。んー、良い匂いだね」
その香りを楽しむように、幸介は大きく息を吸った。
「あ、そうだ。今朝ね、郵便受けに手紙があって」
「手紙? 誰から?」
「それがなんと……あの時の神父さん」
叶は嬉しそうに、その手紙を抽斗《ひきだし》から取り出すと、幸介に手渡す。手紙には結婚式の際の写真と、簡単なメッセージが添えられていた。
「うわ、本当だ。そうか、今日は結婚式をした日からちょうど一ヶ月……。こんな粋な事をしてくれる神父さんが居るんだね」
「素敵よね。あの日の言葉、私、今でも夢に見ちゃうもの」
「俺もだよ。確か――」
二人は神父の言葉を口にする。
「命とは、心の炎が灯ること。結婚とは、心の炎をわかつこと。さあ、目を閉じて、相手のことを想いなさい。炎は互いの胸に、光を灯すでしょう。そして、灯った光を感じなさい。さすればいつまでも、互いを感じることが出来るでしょう」
「これで汝の心に、想い人の炎は灯された――」
その言葉を、言い終えた時だった。
あの時と同じ優しい風が室内へと流れ込み、その風に乗るように、一羽の鳩が手紙を口に挟んで飛んできた。鳩は手紙を机の上に置くと、再び来た道を音もなく帰って行った。
「これって、もしかして……」
「うん。きちゃった……みたいだね」
二人はその手紙を読むと、温かな朝食もそのままに、家を出た。
向かった先は――あの扉の前だった。
「『生とはリセット、死とは継続』かぁ――」
扉の前で、叶は扉を見つめたまま呟いた。
「『継続』って言っても、当時の記憶はないわけじゃない? そう考えると、『継続』って言葉を使うのは変だと思わない?」
「確かに……そうだね」
「結婚式で誓いの言葉を言った時、幸介は言ったよね? 『「絶対」とか「誓う」とか、そんな不確かなモノは「信じる」気持ちで補われているんだ』って」
幸介は言葉にすることなく、小さく頷く。
「だからさ……私、『信じて』みようかなって思うんだ。ここで幸介と出会って、夫婦になれたのは、きっと『外の世界からの継続』だったんだって。私たちはあっちの世界でも出会ってた。ここでまた出会えたのは、二人の心に、最後の光を灯すため。そして私は向こうに行っても――その光を探していくよ」
叶は静かに、扉を閉めた。
中の世界とは反対側から扉を閉める時、最後の言葉を中の世界に残して。
「『信じて』生きていくことも、『自由』でしょ?」
「君は一足先に、灯ったんだね。俺はまだ、君の炎が灯ったままだ」
幸介は扉に向かって、涙ながらに呟いた。
――君がこの光を見つけるまで、俺はこれからもずっと、君を想うよ。
絶対と誓った、「生」がふたりを、分かつまで。
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