孤独の温もり

春光 皓

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孤独の温もり

後編

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「空気も美味しい気がする」

 車から降りると、良子は身体いっぱいにひんやりとした空気を取り込んだ。

 小鳥のさえずりが、優しい旋律を奏でている。

 目を閉じるだけで、どこかに吸い込まれてしまいそうだった。

 案内所で貰ったマップによると、駐車場から滝つぼまでおよそ二時間。

 良子は自分を鼓舞するように「よし」と言って頬を叩き、歩き始めた。

 この日の為に購入した黒のトレッキングシューズがしっかりと地面を捉え、前に進む力をサポートする。

 運動不足の良子には辛い道のりではあったが、押し寄せる興奮に背中を押され、足取りは軽かった。

 軽快に山の奥へと足を運んでいく。


 山道を登り始めてから約四十分。

 体力的にはまだまだ問題はなかったが、道中に食事処と書かれた昔ながらの茶屋があるのが目に入り、良子はここで小休憩を取ることにした。

 店内にも席はあるが、気持ちの良い晴れ空だったので外の席に腰を下ろす。


「みたらし団子を一つ」


「ありがとうございます」と、良子より若いであろう女性店員が元気よく店の中へと入っていく。


 穏やかな空気が心を満たす。

 都心から離れた場所であることや、特に連休というわけでもないことが影響しているのだろうか。

 特集が組まれる程の観光地であれば人も大勢いるだろうと思っていたが、人はあまりいなかった。


「お待たせいたしました、ごゆっくり」


 あっという間にみたらし団子と温かなお茶が運ばれてきた。

「美味しい……」

 そこまで空腹だったわけではないのに、不思議と普段の食事の何倍も美味しく感じる。

 そんなことを思いながら美しい緑を楽しんでいると、若い男性が山道を登ってくるのが目に付いた。

 金色に染められた髪の毛に穴の開いたジーンズ、そして真っ白な靴。

 お世辞にもこの世界観に似つかわしくない出で立ちをしている。

 男性は良子のいる茶屋を見て何か考えるように立ち止まったが、暫くしてこちらに向かって歩いてきた。

 ポケットに手を入れたまま、気だるそうに近づいてくる。

 どことなく苦手なタイプだと感じて視線を自然の中へと移し、良子は男性を視界から消した。

 しかし、あろうことか男性は良子の隣に勢いよく腰を下ろした。


 そして鞄をおろした音がした後、何やら呟いているのが聞こえる。



「……っすか」


 それが自分に投げられたモノだとはわからず、良子は男性に背を向けていたが、続けて投げられた「あの」という強めの声は、明らかにこちらを呼びかけていた。

 良子は恐る恐る振り返る。

 視線が合うと、男性は良子の後ろを指差しながら言った。


「メニュー、取ってもらって良いっすか」


「あ」と良子は慌てて振り返り、メニューを男性へと渡した。

「あざます」

 男性はこちらを見ることなく、小刻みに頭を下げながら小さく低い声で礼を口にした。


 ――面倒くさいことにならなくて良かった。


 そうため息をついたのも束の間、男性は再び良子に視線を向け、口を開く。

「それ、みたらし団子っすか? 旨いっすか?」

 見た目とは裏腹に、男性の瞳は子どものように輝いている。

 どこか見覚えのあるような気もしたが、良子は深追いせず、出来る限り素っ気なく男性の問いに答えた。

「美味しいですよ」
「そっすか。じゃあ俺もそれにしよう」

 それからはお互いに会話をすることもなく、良子は静かにお茶を飲み、席を立つ準備を始めた。

 その様子が目に入ったのか、男性はまたしても良子に声を掛ける。

「……あの、あなたも今日は滝つぼに?」
「そ、そうですが」
「そうっすか。もし良かったらなんすけど」

 良子は直感的に嫌な予感がした。


「滝つぼまで一緒に行きません? 一人で歩くのもつまらないし、初めてで道もわからないんすよ」


 予感は的中した。


 どうしてせっかくの休日に、自分と真逆ともいえる男性と一緒に過ごさなければならないのか。


 絶対に断ろう、そう思った時だった。


「俺、磯崎俊いそざきしゅんって言います」
「磯崎?」

 その言葉に、身体が勝手に反応していた。
 俊は意表を突かれたといった表情をしている。

「そうすけど……、あれ、もしかしてどこかでお会いしてます?」
「いえ、たまたまこの場所を紹介してくれた先生と同じ苗字だったもので」

 一瞬考えるような素振りをして、眉根を寄せながら俊は言った。

「……もしかして、それって都内の眼科で、この場所の雑誌を見せてきたりしました?」

「はい」と答えると、俊は「やっぱり」と言って苦笑いを浮かべた。


「それ……、親父です」


 良子の感情は声にならず、開いた口が塞がらなかった。

「趣味なのか知らんすけど、気に入った人? には色々と押し付けるんすよ」
「やめろって言ったのに……」と俊は小さく呟いた。

「でもまぁ、親父の紹介で会えたわけですし、これも何かの縁ってことで一緒、して良いすよね?」

 半ば強引なところも、あの先生とよく似ている。

 良子は俊の気を悪くするのもそれはそれで面倒くさそうで、勢いに押されるように「はぁ」と答えた。


「よっしゃ」と笑う俊を、良子は少し可愛いと思った。





「へぇ、会社でそんなことが」

 親譲りの一見聞き上手とも取れる俊の誘導尋問に、気付けば良子は自分のことを話していた。

「でも確かに、『人間らしさ』なんて要らないって思うこともあるっすけどね」

 そう言って向けられた笑顔に嘘はないと、良子はなぜか思った。

「基準とか標準とか? 人間関係って知らぬ間にそういうものに紐づいているんすよ。だから、そこから外れてると煙たがられる。変な呼び名をつけたりして無理矢理、向こうの基準に戻そうとしてくる。俺らって、見えない紐に縛られてるんす」

 俊は随分と口が立つ。

 良子は話を聞きながら、何度も深く頷いていた。


「人付き合いが上手いとか下手とか。そんなことを気にするなら、仕事を押し付けた人も、それを見て見ぬふりをする人も、俺からすれば人付き合いが下手な人っす。だから速水さんが『人間らしさ』を捨てる必要なんて俺はないと思います……、けど難しいっすね。それは人それぞれが決めることで、それが速水さんが辿り着いた答えなんでしょうから」

 良子には、俊の言葉がただの励ましには聞こえなかった。


 まるで自分の胸の奥から伸びていた手に、優しく手を差し伸べてくれているようだった。



 遠くから水の落ちる音が聞こえる。


「あ、速水さん! 見えてきたっす! 滝!」


 そう言って俊は木々の間から指を差す。

 良子もその目に滝を捉えていた。

 良子は腕時計に視線を移す。

 到着目安時間から逆算すると、あと十分足らずで到着する距離だった。


「そういえば、あなた……、俊くんはどうしてここに?」

 目的地を前に、良子は尋ねた。

 驚く表情も父親そっくりだった。


「俺すか? 俺は……」

 俊は木の根に置いた足を止め、良子を見た。


「今更すけど見てみたかったんです。自分の心の内を」


 ――今更? それってどういうこと……?


 そう尋ねようと思ったが、良子は口をつぐんだ。

 俊の瞳から、先程までの輝きを感じられなかったからだ。



「まぁたぶん、また親父に騙されてるだけなんでしょうけどね」

 良子には俊の笑顔がどこか「人間らしく」感じた。

 視覚で滝を捉え、聴覚で滝の音を聞きながら二人は足を運んでいく。

 そしてついに、滝は二人の前に姿を現した。

 神々しい美しさを纏い、生命が宿ったかのようにとめどなく落ち行く滝が視界いっぱいに広がる。


 ただそこに立っているだけで、心が浄化されるかのようだった。


「例の滝つぼは……、あっちですね」

 俊がスマートフォンの画像を拡大し、現在地と照らし合わせながら歩き出す。


「滝つぼならどこからでも良いってわけではないの?」
「親父曰く、違うみたいっすね」
「俊くんのお父さんって……?」
「ただのパワースポットマニアっすよ。あ、ここ滑るから気を付けて」


 良子は俊に手を引かれながら、一歩ずつ滝の近くへと進む。

 滝つぼに落ちた水のしぶきが届く程の距離で、俊は足を止めた。


「ここみたいっす。はい、これ」


 俊はマッチ棒を一本、良子に手渡した。

「マッチ棒? 何に使うの?」
「何って、火を付けるんすよ?」
「そうじゃなくて、それをどうするつもりなの?」

 思考の追い付かない良子を横目に、「大丈夫。この棒は水に溶けてくれますから」と俊は言い、「こうするんです」と火の付けたマッチ棒を滝つぼへと投げ入れた。



 彼は一体――……。



 太陽が雲に隠れ、突然辺りが暗くなる。

 次の瞬間、滝つぼは蒼く淡く、内側から照らされた。

 良子は言葉を失い、俊は驚くこともなく水面を見つめている。

 何が見えているのかはわからなかったが、何も言わずに大きく息を吐いた俊の表情は明るかった。


「さ、次は速水さんの番です」


 それ以外に、俊が言葉を発することはなかった。

 もしかすると本当に心が映り、見せたくない部分が見えたのかもしれない。

 そう思うと俊に言葉を掛けることも出来ず、良子は静かに頷いた。


 目の前で起きた光景を思い返すと、マッチ棒を持つ手が震えてしまう。

 良子は中々思うように火を付けることが出来なかった。



「良かったら……、怖かったら一緒にやりましょうか?」



 そう言って俊は良子の手を取り、マッチ棒に火を付ける。

 そして良子は俊と一緒に滝つぼへマッチ棒を投げ込んだのだった。

 小さな水しぶきとともに、水は穏やかに揺れる。

 やがて水面はじんわりと薄く、微かな橙色だいだいいろへと姿を変えた。



 まるで、抑え込もうとしていた自分の、人間としての感情が映し出されたようだった。



 その光景を見て、俊は耳元で小さく囁いた。



「速水さんの手……、あったかいっす。やっぱりまだ、優しいが残ってる――……」







「あなたはロボットなんかじゃない」






良子の瞳から零れた一筋の涙はきつく締めあげられた心のネジを緩め、意思を持って動き始めた心臓の鼓動は自分が人間であることを認めてくれているかのように、全身に優しい温もりを与えていく。




 水面には涙を流す、良子の顔が映っていた――。
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