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亮が、この田舎町に来て……すなわち、薫と関わるようになって二週間近くが経った。
その間、亮は昼近くまで寝て、午後は与えられた自室で大量に描いたスケッチの中で気に入ったものを清書して、夜はあの場所で薫と他愛ない会話を交わし、また明日と言って別れて、夜明け近くに床につく、という非常に不規則な生活を送っていた。
薫と過ごす時間は本当にあっという間で、亮は心底今が夏であることが恨めしかった。
冬だったら、もっと夜が長いのに。
その思いが積もっていくうちに、亮は薫が夜意外は外出できないという理由が気になり始めた。
自室にこもっていると、翼がたまに遊びにくる。
明るくて人懐っこい翼と話しているのはそれなりには楽しいけれど、やっぱり薫との時間の方が断然楽しい。それに、翼には悪いけれど、黙って集中して薫を描いている方が有意義だと思っている自分がいた。
ただ、収穫もあった。
宿の娘である翼は、やはり薫と同じ年の高校一年生だった。けれど、スケッチを見せても薫を知らないと答えた。この田舎の高校では一クラスしかないらしいが、クラスに『西宮薫』はいないとのことだった。
翼曰く、
「でも、すっごい時間はかかるんだけど、一番近くの街にある進学校に通うような秀才もたまにいるから、その西宮くん?はその類なのかも。」
『夜しか外に出られない』という薫だが、その白い肌は滑らかで傷一つないし、細身だけれどやせ細っているわけでもないので、虐待されているわけではないと亮は思っている。
もし、高校に行かせてもらえてないのなら、本気で虐待を疑わなければならないから、亮は薫がその進学校に通っていると信じている。
二週間、毎日薫に会いにいっているけれど、段々屈託ない笑顔を見せてくれる回数が多くなった。他の表情ももちろん可愛くて愛おしいけれど、やっぱりその表情は格別で、気が付けば亮のスケッチブックの大部分は薫の笑顔でうまり、特に気に入って丁寧に清書しておいた数枚も全てが笑顔だった。
昨日描いた一枚が、その中でもお気に入りで、亮はここにいる間に完成させるのはその一枚にすることに決めた。それ以外も、帰宅してから完成させる。
大量のスケッチはあるし、それに描かれている薫の顔も、描かれていないものも、全てしっかりと亮の脳裏に焼き付いている。いつだって鮮明に思い出せる自信がある。
実を言うと、亮はもう薫意外の被写体を描く気は一切なかった。
また時間が空けばここい会いに来るつもりだし、たとえもう一生会えないとしても自分は筆を持ち続ける限り薫を描き続けるという確信めいた想いを亮はここ一週間くらい抱き続けている。むしろ、その想いは日に日に強くなっていた。

日がくれかけた頃、亮は絵筆を置いて宿を出た。
いつもはきちんと部屋を片づけてから出るけれど、今日は気が付いた時にはもう空が赤く染まっていたから、散らかしたままだ。
薫といられる時間は少しでも長くしたかった。
もうスケッチは十分過ぎるくらいにあるから、絵を完成させることを考えれば宿にとどまり続けるのが正解だ。けれど、亮にとって最も大事なことは、薫に会うことそのものだった。
今思えば、最初から、薫に会ったその日から、ずっとそうだったのかもしれない。
もちろん、薫を描きたいというその気持ちに嘘はない。
亮は生まれつき映像記憶能力に優れていたので、実をいえば一度実物を見たものならば、その後は見なくても描ける。わざわざ、薫にモデルになってくれないかと持ちかけたのは本能的に行った口実作りだった。
本当に無意識だったから、『本能』というより他ない。
野生動物かよ、と自分でも苦笑いしてしまうが、亮は同時によくやったと自分自身を褒めてやるべきだとも思っている。
薫とここまで親しくなれたのは、『本能』の功績に他ならないのだから。

二週間毎日通っていたおかげであの場所へと続く道は踏み鳴らされてプチ獣道となっていていて大分分かりやすいし歩きやすい。
薫は、既にそこにいた。
いつもと同じに、足を投げ出して座っている。
「薫。」
「亮。」
振り向いた薫が屈託なく笑う。
すかさず亮は立ったまま鉛筆を走らせる。
毎回そういうことをやっていたので、流石に薫も驚かなくなってきていて、今日もただ呆れた顔をしただけだった。
「せめて座ってからにしなよ。」
「ん、描き終わったら座る。」
「……そんなに俺ばっか描いてて楽しいわけ?」
唐突に、薫に問いかけられた。亮はほとんど反射的に答える。
「めちゃくちゃ楽しい。」
「へぇ……」
いつもの薫なら、そこで耳を真っ赤にしてぷいっとそっぽを向く。
けれど、薫は長い睫毛を伏せて、微笑んだだけだった。
笑っているのに、そんな薫は何故か儚くて、消えてしまいそうで。
亮は薫に触れることすら躊躇われて、せめて薫が何の痕跡も遺さず泡のように消えてしまうことだけでも防ごうと、必死に鉛筆を走らせその表情を描き留めた。
薫の絵なんてやまほどあるけれど、そんなことには一切考えが及ばなくて、ほとんど死に物狂いに息を詰めて、描き留めた。
幸いにも当たり前ながら薫は消えず、いつも通りにの表情に戻って軽く言った。
「描き終わったなら座ったら?」
「……確かに。」
亮は何だか呆然と呟いた。
一方、薫はいつもと同じように屈託なく笑った。
相変わらず、可愛い。
それは間違いない。
けれど、亮はいつものようにただただ見惚れていられる心境ではなかった。
薫には、何か秘密がある。
そんなことは最初からわかっていた。
けれど、こうやって薫に面と向かってその事実を突きつけられるのは精神的につらかった。
なごやかな会話はいつもと違わず弾んだけれど、亮の手は最初以外動かなかった。
薫は当然それに気が付いていて、心配そうに眉をひそめていたけれど、結局何も言わなかった。
別れ際まで、何も。
空が白みかけたころ、薫はいつものように立ち上がった。
「さよなら、亮。」
こつん、と心の中で小石のような違和感が転がった。亮はその正体が突き止められないままにとりあえず笑顔を作る。
「うん、また明日、薫。」
いつもなら、薫はすぐに歩きだす。けれど、今日はまるで地面に足がくっついてしまったように動こうとしなかった。
「……かおる?」
さっきの哀しげな笑顔と併せて、亮はひどく緊張してしまい、かすれ声しか出せなかった。
薫は変な声、と笑ったけれど、泣きそうな顔に見える。
「薫?」
今度は、ちゃんと芯の通った声が出た。
「ごめん、亮。」
「薫?」
「俺、明日はもう来れないと思う。」
薫の声は涙声だったけれど、長い前髪が顔を隠していて、表情は伺えない。
ただ、亮の頭上に温かい水滴が降ってきたことから、薫が泣いていることはわかった。
亮はまるで金縛りにあったように動けなかった。
その間に、薫は走り去っていった。
「さよなら、亮。」
その言葉を遺して。
取り残された亮は、独り、呆けて座っていた。
何も感じず、ただただ無心に。
朝日が上がったころ、亮はさっきの違和感の正体に気がついた。
いつも二人は決まって『また明日』と言って別れていた。
けれど、今日の薫は
『さよなら』
と言った。
『また明日』はもう、ないから。
亮はようやく心を取り戻した。
酷い痛みとともに。
けれど、ようやく亮は泣いて泣いて怒って、泣いて、心の奥底にわだかまっていた感情を、吐き出すことができた。
吐き出しても、吐き出しても、すっきりしないけれど。
でも、泣くことができて、ほんの少しだけ、気が楽になった、ような気がした。

 太陽が頭上に上がるころになって、ようやく感情に一区切りついた亮はよろよろと宿に戻った。泣きすぎて酸欠だし、水分不足だしで今にも倒れそうだったけれど、何とか戻ることができた。
宿の前には、小母さんが仁王立ちしていた。
亮は目が泣き腫らして真っ赤だから誤魔化しようがないことはわかっていたけれど、とりあえずへらっと笑ってみせた。
「すみません、遅くなりました。」
「もぉ、すみませんじゃないのよ!亮くんに聞きたいことがあってずっと待ってたのに……って、違う、そんなことはどうでもいいわ。飲み物も持たずに何やってんのよ。夏なめると熱中症……」
小母さんのお説教を聞いているうちに、亮はふっと気が遠くなって、倒れた。
「え、ちょっと、亮くん!?」
小母さんの悲鳴じみた声が段々遠くなっていって、視界が黒く塗りつぶされた。

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