私と彼女の逃避行

といろ

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第四話

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 渋谷駅は魔境だった。いや、これは言ってみたかっただけ。

 でも渋谷駅の路線の数と出口の数は目が回りそうだったのは本当。彼女はなにを思ってかずっと目を見開いては、ぱちくりと瞬きをしていた。マスクをしているくせに表情がわかりやすいなあと感心してしまう。なにに驚いているのかまでは、はっきりわからないけれど。

「ハチ公前って書いてある!」
「やっと見つけた……」
 彼女が見つけた出口への看板を辿って、テレビでよく見るハチ公の像がある広場に向かう。

 広場に着く前に彼女が話し始めた。

「ハチ公ってテレビでよく見る像のイメージが強いけどさ」
「うん?」
「わたしそもそもテレビ自体あまり見ないから、このイメージはどこでついたものなんだろうって思う」
「そういえばそうだね」


 忠犬ハチ公の話を初めて聞いたのはいつ、どこでだっけ。
 それすら思い出せないけれど、確かに聞いたことがあって。テレビか何かでその像と、像がある広場に人が集まる光景を見た記憶もある。でも、思い出そうとして頭に浮かぶ映像は、犬の像なんて映っていない街頭インタビューのワンシーンだ。

「概念、っていうのかなあ。なんだか不思議じゃない?」
 彼女はぽつりぽつりと呟くようにそう言った。私も不思議には思う。思うけれど、私の興味はハチ公という概念よりも彼女が見ている世界の方に向いていた。

 彼女の半歩前を歩きながら、斜め後ろの表情をチラチラと確認する。何を考えているんだろう。彼女の目には、世界はどう映っているんだろう。


 そんな風に思うのは、私一人じゃあ一つの単語をもとにして世界に疑問を抱くことはないからだと思う。


 尊敬しているのと、羨ましいのと。あと、ちょっとだけ大変そうだなって思うのと。そんな感情をごちゃ混ぜにしてそれでも好きでいたいと思う。それが私の、彼女に向ける感情なのかもしれない。羨ましいのは人が人を嫌うのに十分な理由になる感情だと、担任教師は言ってたっけ。でもなあ。
 好きか嫌いかで聞かれたら、私は迷わず好きって答えるけど。何を考えてるのか掴みにくい彼女の表情を見ながらそんなことを思う。担任教師の言葉をそれ以上思い出したくなくて、少しだけ足を早めた。


 ハチ公前と書かれてた出口を出てまず思ったのは、さっきまでぼんやり考えてい像のこととか彼女が言った概念の話とかではなくて、さすが東京人が多いなということだった。レンタカーを停めたところがそうでもなかったから、実感するまでに時間がかかったけど、この土地は間違いなく人が多い。

「人……多くない……?」
 思わず彼女に聞いてしまった。何の意味があったかはわからないけれど、彼女は描いていないままの眉をひそめて言った。
「お昼じゃん、今。なのに、こんなに人がいるんだねえ」

 そういえば今はお昼とかのはずで、学校に行く生徒たちはもうあらかた登校し終えているだろうし、会社員も大半がもう会社に着いているようなイメージだ。それを思うと、電車の人の数もおかしいんじゃないかと思ってしまう。そもそも、おかしいって、なんだろう。

「なんか、ううん、変な感じだね」
「うん。変な感じ」
 私たちの住む地域でも朝の駅はそれなりに人がいる。でもそれはラッシュ時のことで、なんでもない時間にこんなに人がいることはない。

「今まで意識したことはあんまりなかったんだけど、」
「うん?」
 彼女は言う。東京には初めて来たのに見覚えがある交差点を、一番大きな液晶画面に向かって進みながら、彼女の言葉を聞き洩らさないよう耳をすませた。

「わたし、昼間はみんな各々に収容される場所があって、そこから出たら捕まるんだと思っていたみたい」

「うん……?」
 わかるような、わからないような。人で歩きにくい交差点を渡り切って、彼女と並んで歩く。都会は道が狭いと思っていたけれど、そうでもないな。二人で並んで歩いても、横を別の二人組が余裕ですれ違えるだけの幅がある。


「あ、あれじゃない?」
「わ~、案内してくれてありがとうね。距離はそうでもないのに結構歩いた気がするねえ」
「いいえ~。ところでモディってなんなんだろ」
「うーん、さあ?」
 そもそも読み方は「モディ」でいいのかな。建物の名前なのか施設名なのかわからないけれど、外国語でそんな感じに書いてある目的地。簡単に調べただけだけど、服とか靴とか、本、CDとかを売っているみたい。私たちの目的はもちろん服と靴だ。

 さっきまで何を話していたんだっけ。大事なことのような気がしたけれど、わからないから、後回しにしてしまおう。




 読み方は定かではないけれど、とにかく「モディ」とやらの目の前についた。建物が見えてから、到着するまでにやけに時間がかかったような気がするのは、たぶん人の多さのせいだろうな。しっかり意識を保っていないと自分の足場が人並みに流されていきそうな不安定さが、ここまでの道のりにはあった。気がする。

「ここだ」
「おしゃれだ」
「うん、おしゃれだ」

 モディはレンガ調の外観がおしゃれだった。頭上からはよくわからない植物みたいな飾りが生えている。本物かなあ、どうだろう。
 入り口に吸い寄せられるようにして中へと入る。服装が建物にそぐわないような気がして、落ち着かない。人通りの多いここまでの道のりでは、そこまで気にならなかったのに。

 エスカレーターで上の階へ向かう。靴だけ買おうかと思っていたけれど、服も買う方がいいかもしれないなあ。
 いや違うか、どちらにしても明日着る服が必要になるのか。


「東京って感じあんまりしなくない?」
「建物の中に入っちゃったから? これくらいのショッピングモールならうちにもあるもんね」
「あ~、そうかも」
 私たちの街の近くにある大きな駅の商業施設の名前を挙げた。彼女は納得したみたいだった。

「あ、このお店見たい」
「いいじゃん、行こ」

 エスカレーターの上昇につれて目の前に見えてきたアパレルショップを指差した。店先のマネキンが着ているプルオーバーのパーカーが可愛い。まずはこのお店から物色しよう。

 喋りながらエスカレーターに乗っていたからここが何階かは把握できていないけど、とくに不便はないと思うし大丈夫。

「このパーカーとか好きそうだね」
 彼女がマネキンを指差して言う。
「よくわかったね? これに惹かれたの」
 私の答えを聞いて、彼女はけらけらと楽しそうに笑った。つられて私も笑う。

「でも今もパーカーだからな……。パーカーだらけになっちゃうんだよなあ」
 私が言うと、彼女は一層笑った。
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