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恋の三角関係は、勝てばいちゃらぶへ直行
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1
折絵は二十歳のとき、勤めている紳士服店の事務服を着けて帰宅していた。
自慢ではないが、ソフトボールを思わせる胸元、引き締まった腰回り。大きな目と細い顎、男らに色っぽいと囁かれる容貌だ。
(高校時代は丸々としてたけどねー)
就職してから、ホルモンバランスか、ストレスなのかわからないが、徐々に引き締まった身体と細い顎の線になる。大きな目がなおさら強調されるが、わるい印象は与えてないらしい。
女性は変わるものだよね。
車道から夏の夕日に照らされた公園通りへ曲がる。
(トイレットペーパー、買い忘れちゃったな。まだあるから明日でいいか)
興味を示す男らを興ざめさせることを考えている。やがて、エンジン音がして振り返れば、幌付き軽トラックが追い越す、と思ったら隣に停車した。そしてドアが勢いよく開く。
外へ出て立ちふさがる男が、淫猥な表情で近づく。
「べっぴんちゃん、楽しもうぜ」
答える必要も感じない、ひと睨みしてから、逃げようと身体を回転するが、もう一人悪漢がいて抱きつかれた。
「ぃやっ」
悲鳴も、最初の奴に後ろから口を塞がれてしまい籠る。ハンドバックを握り締め、身体が小刻みに震える。
「荷台で可愛がってやるよ」
背中を締め付けた腕が、尻頬っぺたに指を這わせながら太ももを持ち上げようとする。
「何をしている」
大きな声が響く。悪漢たちは近くで響く足音と声に動きが止まる。
「邪魔が入った。逃げるぞ」
折絵を壁へ押し投げて左右へ逃げる彼ら。
彼女は壁にもたれて鼓動と震えが鎮まるのを待っているが、状況も分かってきた。誰かが助けに来たらしい。
「助かった。でもばかだね」
この公園の通りで今の時間帯に痴漢行為は、誰かに見つかる。だから安心もしていた折絵。服の乱れを整えながら、追いかけて行った人の状況も気になる。
助っ人の男は必死に逃げる奴には追い付けない。それより女を保護するのが先だと感じたか、早足で事件の現場へ戻ってくる。
「どうせ、車を取りにくるさ。警察へ連絡して置こう」
走っていて荒い息のまま、折絵へ伝える。
彼女は助けてくれたお礼をいうと、名前を教えて欲しいと告げた。彼の持っている孫の手には気づく余裕もない。
「俺の名前なんか、忘れたなー。困ったときはお互いさま」
名乗らないから怪しいというより、惚ける彼は悪い人ではないらしいのだが。
「それより、警察へ電話するから、俺の部屋へ来てくれ」
公衆電話が近くにないし、携帯電話もない時代だ。意味は分かるが頷けない折絵。
「君の部屋を知っている連中なら怖いだろ。緊急避難だよ」
「そうですね」
状況を説明する必要もあるだろうけれど困惑。女は見知らない男へついて行くのが不安。
仕事の失敗を助けてもらった売り場の同僚に、お礼はホテルでヤラセテくれること、と迫られたこともある折絵。
相手は女の戸惑いを察したようで、俺は高校生のころサッカーをしていて、など自己紹介代わりに喋る。
折絵は(固定電話は玄関にあるはず、ドアを開けたままにしていたら良いかも)などと警戒心は解けずにいる。うわの空で聞いていた話に聞き覚えのある名前がでてきた。
「えっ、妹のなんって。いくつ」聞き返す。
そんなに大きな町ではないし、この男の妹なら折絵と同じ年齢か。
「妹の名前か、早智子。デパートでエレベーターガールをしている」
間違いない、友達の田中早智子だと折絵は分かった。
「さーちとは部活が一緒で、先週もボーリングへ行ったよ」
「仲の良い友達って、君か。確か、おり、何とか」
「はい。折絵です。それじゃあ、田中さんですよね」
安心感と親しみがわく。何より暴漢がまた来ないか怖い。
ベランダから怪しいあいつらをみかけたから、と彼は部屋を指さして、ここへきた経緯を話す。
「それに、パトカーがくると人が集まるよ」
田中の気がかりは、痴漢されて触られて、と人前で警官へ折絵が話すのを避けたいからのようだ。
「それはいやだなー」
ちょっと冷静になる彼女。彼の部屋へ二人で歩き始めてしまった。
田中が明けたドアから室内へ入る。早速電話する彼。固定電話でやりとりしながら尋ねてくる。
「あの、君の話も聞きたいとさ。それより」
なにか言いたげにする。女性が悪戯された事件は、女性が恥ずかしくなるほど世間の視線を浴びる昭和時代だ。直接に話題にするのを避ける田中。
駐車違反と女への痴漢、折絵も恥ずかしい思いで、手短に電話で伝えた。
「遅くなったし、食事をしていけよ。俺はそれなりに作れるから」
「それなりですか」
正直だ、と良い感情を抱て、彼へ応じた。容姿を好奇の目で見ることもしていないのに安心もしていた。暴漢たちが捕まらないと不安だし自分の部屋へ戻るのが怖い状況。選択の余地も無い。折絵は波長の合いそうな彼の危険な香りへ引き付けられる蝶々。
キッチンテーブルへ彼が皿を並べる間にも、外でパトカーの赤い警告灯が窓に映る。来たようだな、と田中は笑顔で言う。
「予想していた通り、駐車違反を待ち伏せしていたのだ」
捕まえ方を知っていたらしい。折絵は安心もするが、ほどなく婦人警官が部屋を訪れる。犯人の掌に赤いのが付いており、それが口紅か確認しにきたのだ。それで、折絵は口紅の色とメーカーを告げる。
「容疑者も白状してますから、もう安心ですよ」
暴漢たちも、なるべく罪が軽くなる方法を選んだようだ。引っ越しの手伝いをした二人が悪戯心で企んだらしい。折絵にとっては迷惑だし、このことは忘れたい。田中も安心した顔で椅子へ座る。
「これで部屋へ帰れるな。テイクアウトするか」
「ハンバーガー店じゃないし。それより」
折絵は口紅が暴漢の手に付いていたということが気になる。ハンドバックからコンパクトを取って、口元を確かめた。ちょっと乱れている。簡単には崩れないが、乱暴にぬぐい取ったみたいになっている。早くなおさなきゃ、と思う。
田中が横を向いて、あっちが洗面所、と話す。見てないよ、との意味らしい。彼女も男の前で化粧直ししようとしたのを恥ずかしく感じた。すでに見られていたというのは、開き直りもさせる。それでも、あの男の手が気持ち悪く感じた。
「気が利く方ですね」
田中の痒いところへ手が届くやり方が居心地よく思える折絵。急いで洗面所へ向かう。電気のスイッチなど、アパートは似たような作りが多いし、迷うこともない。
一人になると、生々しく唇に暴漢の指の感触が蘇り、手ですくい何度もうがいをする。もう口紅なんか落としていいや、と思う。
弄ばれる口惜しさを想像してしまい、涙が頬へ伝うのが鏡へ映る。
(容姿が人並み以上に整えば狙われるのか)
高校生のころはふっくらとした顔と体形だった折絵。口の悪い男らは、誰も振り向かないぜ、と笑う。小学生のころまでは冗談もいう陽気な性格だったが、女らしく、と親や地域に押し付けられて大人しい態度をとるようになった。
(女は変わるときには変わるんですよ)
過去へ言い返したくなる彼女。
折絵は顔も洗って、ハンカチで拭いてから、ちょっと整える。均一に落ちた化粧は、これでいいか、と化粧方法を思いつかせる。いざとなれば開き直れ、というのが彼女の座右の銘だ。
折絵は田中と呼吸が合う気がする。写真クラブに所属していたころの早智子との話で盛り上がって、帰宅した。すぐ何か起こるなんてないし、彼女も友達の兄として親しい関係になったと思っていた。
2
公園通りは嫌なことを思いだしそうで、迂回して通る。田中が住むアパートの前を通ることになり、折絵は改めてお礼をしたいと、彼の部屋へ目を向ける。
「えっ。恋人なの。でも」
夕焼けで染まるドアを前に女の姿。しかし、窓を眺めてから階段のほうへ歩きだす。
田中は留守らしいが、恋人なら部屋にいないことも知っていると思う。
(もてるはずだから、女友達はいるはず)
折絵は、連絡はしないが、相手が会いたいときに会う仲だと考えた。自分も同じだろうと思う。
「何か、ご用事ですの」
突然声をかけられて視線を階段へ向けると、さっきの女がアパートから出て立っている。大手不動産の事務員が着ける制服姿。
一歩一歩と近づいてくる女は、ハイヒールの高さを引いても折絵より身長が高く、点灯した街燈に切れ長の目と固く結ばれた唇が浮かぶ。口のわるい男らは、相手が美人だし、女として上だというはず。
しかし、折絵は対抗意識が出てくる。相手が見た目で男にちやほやされる女に見えた。ふっくらしていた高校時代から、美人や良い子ぶる女に見返したい思いは持っている。
「田中さんには懇意にしていただいてます」
大袈裟と思うが、相手の目が遠くを見る。私は付き合ってますけど、と言われたら、彼の妹のことを持ちだそうと構える。折絵に有利なのは、影になり表情が分かりにくく、強張る表情に相手は気づいていない。
「高校時代から知ってますけど、私は」
「今日は留守ですよ」
言葉を探せないで、分かり切ったことを言う折絵。
「左様ですわね。あなたもお仕事帰りかしら。安っぽいデザインですわね」
「制服ですから。お互いに」
ここで務める企業の比較はしたくないが、相手は自信があるような笑みを浮かべる。
「紳士服店なの、素敵なお仕事ね。殿方を、よりどりみどりじゃございません」
「皮肉ですか」
いら立つ折絵。相手はそれを見逃さない。
「田中さんは、真面目な方です。お遊びは止めなさいな」
捨て台詞ともとれることを宣い、歩き去る相手。
「言いたいことだけ喋って、何よ」
折絵は思わず呟く。あまり田中と相性も合いそうにないと感じる。これは嫉妬だ、と気づいた折絵。 助けてもらったお礼がしたいのに、その根っこには「逢いたい」という感情がある。世間では恋と呼ぶが、折絵は未だ恋愛に臆病な面がある。
・
折絵は休みの日に早智子と喫茶店で待ち合わせた。
おしゃべりな彼女が、クラス会があるとか、出席するわけないとか言う。折絵も今更、あの派閥みたいな女子集団に会いたくもない。
「話はさ。兄貴がおーリーに会ったといってたから、よく顔が分かったねと言ったけど」
「それね、ちょっと変なのに絡まれて、助けてくれたのが、さーちの兄貴だったらしいわけ」
なるほど、田中も詳しくは話してないし、そういうのを聞くより、直接本人へ訪ねるのが早智子だ。噂話は信じないタイプで、折絵もそれは似ている。だからほかのクラスメートの噂話などにも距離を置いていた。
「それにしても、あいつは、どうしようもないよねー」
言葉とは反対に何故か笑顔。付き合ってるの? と尋ねる。折絵が前に付き合っていたクラスメートのことなのは、お互いに話の流れで理解していた。
美人になったけれど、結局おたふくじゃん、とあいつが言ったのが分かれる引き金になった折絵。早智子に経緯も話してある。
「あいつは軽いのよ、でも正直。自分の顔をみて、女に言えって鏡を誕生日に上げた。少しは落ち着くでしょ」
早智子のいうことだから、確かにちょっとは変わったということ。
「さーちとは上手くいくわよ。甘えん坊夫に世話焼き女房になる」
はっきりいえばかかあ天下タイプになると折絵は感じてる。早智子もそれが夫婦の理想と言ってた。少なくとも折絵には何の未練もないやつ。
それで、田中。
改めてお礼もしなければと思う。妹と同じで隠し事はしない質らしい。問題は恋人の存在が気になる。男への興味というのは原因などわからないし、助けてくれたこととは別に相性の良さを感じていた。
さすがに妹でも現在は分らないが、目標があって、甘えたり要求ばかりする女は嫌いだと早智子は話す。
「付き合ってたのか、しつこい女が一人だけいる。婚約しようと実家まで押しかけて来たけれど、兄貴が乗り気でもないこと」
女が思い込んでいたらしい。この前の女がそうかもしれない。
「おーりーがもっと知りたいなら、やっぱり、お礼にいくべきだね」
「それからだね。一応、お兄さんには内緒で」
「当然、弁えてるさ」
あんがい約束事なら口は堅い親友だ。
・
折絵は休日にアソートクッキーを準備して手土産に、田中のアパートへ向かう。部屋に居る確率が高いのは夕方だろう。
電話番号は交換してないし、突然になるが、ほかの人がいたときのための口上も準備している。
このドキドキ感が昭和時代にはあった。
彼女はボトムジーンズにポシェットを巻き、淡いオレンジ色の半袖ポロシャツを着る。ちょっと買物へ、といった服装だ。怖さも薄れた公園通りから眺める田中の部屋は蛍光灯が点いている。
アパートの裏手から入る形になるが、夕日を背にして階段へ向かう人物と遭遇する。各段の郵便受けを横に、階段の前で対面した。
不動産会社の女だ。
仕事帰りに何度か会ったが、お互いに無視していた。誰が、この階段を上るか、今度は譲れない状況になる。廊下のライトが思った以上に二人を照らす。防犯の意味で明るくしてある。
「どちらさまでしょうか」
折絵は先手必勝だと、仕事用の言葉を使う。最初の出会いのあと、まずは初対面なら名乗るのが先だと気づいてもいた。
「田中さんの知り合いですが。私の名前が必要ですの」
相手は姿勢を正して言う。なるほど会社の名札を付けているし、それでも名前を聞くなら先に名乗れ、と言いたげ。ここで、いつも仕事の時に電話で使う常套句を持ち出す折絵。
「町野紳士服店の折絵と申します。ご用件は何でしょうか。承ります」
それしか思い浮かばないのも事実。ちゃんと名乗ることで、田中に知られても大丈夫だという表情を見せる。
「マニュアルの台詞? おじょうずね。さようでございますか。田中さんにはご理解いただいてる私用なのですが」
しかし、黙ってしまう。あなたには話す必要もない、と言いたげだが口にださないようだ。それが折絵の重圧にもなる。
クラスメートたちの派閥と向き合うことは避けていたが、いつも心は構えていた。だからいじめも軽いからかい程度で収まっていた。今も下がれない思いがある。付き合っていなくても好意を寄せた相手へ近づく女は警戒する。それは相手も同じだろう。
睨み合い、相手の出方を窺う二人。
ここで折絵は、素直に話そうと決める。
「今日はお菓子を準備しましたのよ」
「それで男を釣るつもり。男を容易と見てるわね」
相手は呟く。
「ご一緒にどうです」
「なに? あっ!」
折絵が私服なので、何かを感じたらしい。付け足した言葉が相手に打撃を与えたのだろう。余裕の笑みが泣き顔に代わる。一緒に住んでいると勝手に思ったようだ。
「田中さんに、幸せになってくださいと伝えて。ごめんなさい」
頭を下げながら踵を返して早足で歩き出す。
「なんなのよ」
呟くが、自分の行動も不可解だと思った。
恋愛には慎重になっている折絵。昔に付き合った男に、所詮はお多福じゃん、と言われて別れた。それからも男は表面だけをみると感じている。今は、雌の勝負に勝ったとの思いが、店内をしたい衝動へと導く。すでに対象は田中だと朧げに浮かんできた。
3
二階の廊下へ立つと、ポシェットからコンパクトを取り出して化粧を確かめる。口紅を薄く付けただけで、目元や肌の張りは、素顔が生き生きしている。
(三十歳まで、これで行けるぞ)
女としての自信が湧いてくる。化粧より肌の手入れだなと実感した。
それで田中の部屋の前へ来たが、はたして一人だろうか。その謎は解明されてない。不動産会社の女との戦いで興奮した身体が、新たな敵へ怯える。彼の恋人がいたら、勢いで、さっきの女みたいになる危険性もある。
(お礼をするだけ。そう、ただの挨拶)
思いながら深呼吸をする。
ノックをして、お礼をしたくてきた、と名前も告げる。足音がしてドアは開かれた。
「折絵さん、いらっしゃい」
田中は無邪気な笑顔で彼女を招き入れる。前の緊張した日より柔らかな表情をする人だと感じる折絵。改めて礼を述べてアソートクッキーを渡す。
「わざわざ、ありがとう。一緒に食べよう」
「よろしいんですか」
社交辞令だろうが、無理に断る理由もない。どうやらほかに人影はなくて、微かな音声はテレビか、畳の色が変わるのはテレビ画面のせいだろう。一緒に食べる、あの女に言った言葉だ、と予言者かと内心笑う。
畳座敷で小さなちゃぶ台を挟み座り、飲むストレートアイスティーがクッキーに合う。
あらためて名前を聞くと、田中秀樹と教えてもらった。
(秀樹さん。良い名前だわ。でもね、すぐにひできとは呼べないしね)
「知らない方が、田中さんへお幸せに、と言ってました」
最初に解決すべき問題だし、どういう関係か知りたい。
「同級生かな、たまに訪ねてくる」
彼も正直だ。月に一回の飲み会へ誘ってくるらしい。
「俺もたまには参加するが、あっちは自分に会いにきたと勘違いしてるから」
それでも年に2回は同級生たちと会う、義理堅い男だ彼は。
「私はあまり同級生とは関わってないけれど。さーちぐらいかしら」
「早智子も、あれだ。友達は少なかった」
小学生のころからお喋りだが話が飛びすぎて付いていけない同級生も多かったらしい。折絵が思う以上に田中は仲良くしていることに感謝していると話す。
「私も、いじめられたりしてましたから、どこか似ているんですよさーちと」
容姿や素振りがいじめの対象になるのも日常だった昭和時代。田中はそれに歯がゆさも感じてるようす。
「もっと住みやすい世の中にしたいなー。微力でも、そういう仕事がしたいんだ」
やはり大きな目標があるようだ。
知らず知らずのうちに折絵は身の上話をする。彼は頷き、ときに冗談をいいながら耳を傾ける。彼女としても初めて会う、真剣に聞いてくれる男性。まじで恋する一瞬で瞳が潤む。
「妹が高校生のころから折絵さんのことは聞かされて、会ってみたかったんだ。思った通り素敵な女性だよ」
「そんなことないよ」
ちょっと俯く。褒められるのに慣れてもいるが、田中の言葉はおたふくのころを含めた彼女自身だと折絵は感じた。危ないなー、とこの雰囲気に危機感を覚える部分と、突っ走っちゃえ、と急かす部分がある。
この場面で男が欲望を丸出しにしてくるとも考えている。それで、どうする。これを言い訳に抱かれるか。いや、まだ二度しか会ってないのに、身体を許す女とは思われたくない。 気持ちとは裏腹に、そろそろ自分の部屋へ戻る、と言い出せない。
田中は思いだしたように身体を動かすと、テレビを消した。幾分暗くなり、遠くから犬の遠吠えが聞こえる。
「片づけようか」
田中はコップとクッキーの乗った盆を持って立ち上がる。
「洗うよ」
折絵も立ち上がる。
帰る時間か、しかし、どうするか迷う。
電話番号を交換しておくか、それでも、次はいつ会えるのか。仕事のときは待ち合わせをしたら夜半になる。休みの日に都合よく会えるとも限らない。
キッチンの洗い場で立ちながら話す。
「それでさー。私と会ってどうだった」
彼の言葉を借りて、何かを聞きたい折絵。
「友達から。って女性の断わり文句かー」
惚けて笑う。
「べつに良いよ。お、お電話してもいい?」
緊張しながら言う。ちゃんと言えているか不安だが。
「歓迎だな。近くだし、夕方から暇だ」
それで、ちょっと真面目な表情になる。
「君と一緒になりたい。考えておいてくれ」
あくまでも今は紳士を貫き通したい彼。少なくとも恋人関係を望んでいた。
答えはひとつしかない。
「考えないよ」
玄関とは逆に座敷へ戻っていく。もう決めた、彼に抱かれたい。
「そうか。ゆっくりしよう。分かることは、俺は君に恋してる」
後ろから腰を抱きしめられて、頷いた。松茸みたいな塊が元気に動くのを感じ、女が男を迎え入れる応接間が反応した。
田中へもたれる折絵。なぜか受け止めてくれると安心している。ふんわり包み込んで、彼が周り込み、背中へ腕を伸ばして抱きしめた。
「愛している。おりえ、すべてを知りたい」
顔を寄せて囁く。彼女も腕を彼へ回す。胸が触れ合い、彼の髪から風呂上がりなのか、シャンプーのシトラスの匂い。風呂を、と長引かせる気はない。
「わたしも。好き、ひでき」
そのまま顔を彼の胸へ埋めた。厚い胸板だ。
ほら、と彼が軽く彼女の顎をあげる。アイスティーの甘苦さが舌を喜ばせる。目元や頬で焦らせる彼の唇は柔らかく熱い痺れを全身に感じさせた。
「ひでき。好き好き」
せがむ彼女の唇へ重なる彼の唇。蕩けるような甘さ。
「うーん」喉が悦び歌った。
焦らして、すれすれに吸い付く彼。
「あん」頭を反らして唇を近づける。
キスだけで、お喋りになる。強く吸われて、ちゅっ、音が響けば身体が疼いてくる。
破裂音を繰り返し、緩く開く口元。彼の柔らかな舌がちょろちょろ入り込む。
「だめ」囁くが、折絵の下は誘い込むように動いていた。
髪を弄られて、来て来て、と彼の柔らかな鞭を歓迎する。甘苦さから甘さだけが残り、粘り気のある液体が舌同士で絡み合う。
「じゅる」彼が吸い取る。
「はあっ」息を吐いて、男の唇へ舌を伸ばす折絵。きっと縦割れの唇も相性がいいだろうと、湿り気を帯びるのがわかる。
(もう、えっちしか考えられない。優しく強く)
彼の背中へ指を這わせて、ぎゅっ、と抱きしめる。
「折絵。見せて」
彼が裾から巻き上げて行く。ここで脱がせるつもりらしい。
「ひでき、ああー」
うわ言のように唇から零れて、脱がせやすいように腕を動かした。求められて、隠された部分を見せることに女の自信みたいなのを意識した。
立ったままがジーンズやパンツは脱がせやすいらしい。ちょっと足が疲れたけれど、彼に支えられて、下着姿になった折絵。思わずショーツの前は隠す。最後の楽園を見られるのは恥ずかしい。
秀樹がお姫様抱っこでベッドへ歩く。彼の胸へ顔を埋めて、まったりとした幸福を感じる折絵。もっと激しくされたい思い。彼へ抱きつく腕を深く交差させて抱きしめる。
「素敵だよ。ビーナスだ」
「そんなじゃないよ」
「どうして。さあ、横になって」
ベッドへ下ろされた折絵。仰向けでまつ毛を伏せる。女性は自分の淫らな格好を他人へ見せたくはない。折絵も好きな人以外には見せたくない。その秘め事が始まった。
秀樹の指と唇がブラの紐をなぞり、剥して行く。
彼を求めて指を伸ばせば、応えて柔らかく握ってくれた。
「素敵だよ。見せて」
胸の膨らみを露わにして、彼が愛おしく口に含むのは桃色で、グミの実にも似ている。
彼女は愛されている実感と期待に、淡い桃色で染まる肌。
イブがイチジク葉を取り去るように、彼女もすべてを彼へ見せる。手で覆う縦割れの唇。
彼も服を脱ぎ、逞しい身体を寄せて来る。抱き合い、これから一つになる、愛の囁きをキスでした。
(これだけでも、めまいがしそう)
恥じらいは雌の目覚めかもしれない。本能に身を委ねる準備をしている。
松茸のような彼の愛を、彼女が包み込み、奥へいざなう。もう理性で考えるときではない。
満たされた心と身体が快楽を求めて疼く。
「ひでき。ひでき」
忙しい息遣いと喉の喘ぎ。折絵自信は愛されている悦びで、夢世界へ招かれていた。
身体が踊るように一面の薔薇畑を泳ぐ。愛する存在があるから不安定さより、華やかな甘さに酔いしれる。
彼は思いを遂げる雄の動きを早める。彼女は情熱的な衝動が身体を突きあげる。
フルーティーな匂いがほのかに香る。
折絵の身体がしなり、蛍光灯に照らされた汗が銀色に煌めく。折絵が見たこともないはずの、絶頂の女体の美しさ。
・
折絵は田中の太腿の根っこに生えた松茸をしゃぶりながら、上目で彼をみる。すっきりしたというか、間の抜けた表情にもみえる。まどろむ中で、すっぱいとか、味覚は麻痺している。
「うん、美味しい。田中さんと結婚するのかな」
そんな予感がした。
あれから何年経ったのだろう。町内道路の拡張を訴えて、田中は町議会議員になっている。折絵は妻として選挙とか手伝い、美人秘書とか呼ばれているが、いつも謙虚に、と田中は窘めた。 あの日のことを覚えてくれている彼に折絵は感謝して、今も楽しい夜の性活を二人で楽しんでいる。
終
折絵は二十歳のとき、勤めている紳士服店の事務服を着けて帰宅していた。
自慢ではないが、ソフトボールを思わせる胸元、引き締まった腰回り。大きな目と細い顎、男らに色っぽいと囁かれる容貌だ。
(高校時代は丸々としてたけどねー)
就職してから、ホルモンバランスか、ストレスなのかわからないが、徐々に引き締まった身体と細い顎の線になる。大きな目がなおさら強調されるが、わるい印象は与えてないらしい。
女性は変わるものだよね。
車道から夏の夕日に照らされた公園通りへ曲がる。
(トイレットペーパー、買い忘れちゃったな。まだあるから明日でいいか)
興味を示す男らを興ざめさせることを考えている。やがて、エンジン音がして振り返れば、幌付き軽トラックが追い越す、と思ったら隣に停車した。そしてドアが勢いよく開く。
外へ出て立ちふさがる男が、淫猥な表情で近づく。
「べっぴんちゃん、楽しもうぜ」
答える必要も感じない、ひと睨みしてから、逃げようと身体を回転するが、もう一人悪漢がいて抱きつかれた。
「ぃやっ」
悲鳴も、最初の奴に後ろから口を塞がれてしまい籠る。ハンドバックを握り締め、身体が小刻みに震える。
「荷台で可愛がってやるよ」
背中を締め付けた腕が、尻頬っぺたに指を這わせながら太ももを持ち上げようとする。
「何をしている」
大きな声が響く。悪漢たちは近くで響く足音と声に動きが止まる。
「邪魔が入った。逃げるぞ」
折絵を壁へ押し投げて左右へ逃げる彼ら。
彼女は壁にもたれて鼓動と震えが鎮まるのを待っているが、状況も分かってきた。誰かが助けに来たらしい。
「助かった。でもばかだね」
この公園の通りで今の時間帯に痴漢行為は、誰かに見つかる。だから安心もしていた折絵。服の乱れを整えながら、追いかけて行った人の状況も気になる。
助っ人の男は必死に逃げる奴には追い付けない。それより女を保護するのが先だと感じたか、早足で事件の現場へ戻ってくる。
「どうせ、車を取りにくるさ。警察へ連絡して置こう」
走っていて荒い息のまま、折絵へ伝える。
彼女は助けてくれたお礼をいうと、名前を教えて欲しいと告げた。彼の持っている孫の手には気づく余裕もない。
「俺の名前なんか、忘れたなー。困ったときはお互いさま」
名乗らないから怪しいというより、惚ける彼は悪い人ではないらしいのだが。
「それより、警察へ電話するから、俺の部屋へ来てくれ」
公衆電話が近くにないし、携帯電話もない時代だ。意味は分かるが頷けない折絵。
「君の部屋を知っている連中なら怖いだろ。緊急避難だよ」
「そうですね」
状況を説明する必要もあるだろうけれど困惑。女は見知らない男へついて行くのが不安。
仕事の失敗を助けてもらった売り場の同僚に、お礼はホテルでヤラセテくれること、と迫られたこともある折絵。
相手は女の戸惑いを察したようで、俺は高校生のころサッカーをしていて、など自己紹介代わりに喋る。
折絵は(固定電話は玄関にあるはず、ドアを開けたままにしていたら良いかも)などと警戒心は解けずにいる。うわの空で聞いていた話に聞き覚えのある名前がでてきた。
「えっ、妹のなんって。いくつ」聞き返す。
そんなに大きな町ではないし、この男の妹なら折絵と同じ年齢か。
「妹の名前か、早智子。デパートでエレベーターガールをしている」
間違いない、友達の田中早智子だと折絵は分かった。
「さーちとは部活が一緒で、先週もボーリングへ行ったよ」
「仲の良い友達って、君か。確か、おり、何とか」
「はい。折絵です。それじゃあ、田中さんですよね」
安心感と親しみがわく。何より暴漢がまた来ないか怖い。
ベランダから怪しいあいつらをみかけたから、と彼は部屋を指さして、ここへきた経緯を話す。
「それに、パトカーがくると人が集まるよ」
田中の気がかりは、痴漢されて触られて、と人前で警官へ折絵が話すのを避けたいからのようだ。
「それはいやだなー」
ちょっと冷静になる彼女。彼の部屋へ二人で歩き始めてしまった。
田中が明けたドアから室内へ入る。早速電話する彼。固定電話でやりとりしながら尋ねてくる。
「あの、君の話も聞きたいとさ。それより」
なにか言いたげにする。女性が悪戯された事件は、女性が恥ずかしくなるほど世間の視線を浴びる昭和時代だ。直接に話題にするのを避ける田中。
駐車違反と女への痴漢、折絵も恥ずかしい思いで、手短に電話で伝えた。
「遅くなったし、食事をしていけよ。俺はそれなりに作れるから」
「それなりですか」
正直だ、と良い感情を抱て、彼へ応じた。容姿を好奇の目で見ることもしていないのに安心もしていた。暴漢たちが捕まらないと不安だし自分の部屋へ戻るのが怖い状況。選択の余地も無い。折絵は波長の合いそうな彼の危険な香りへ引き付けられる蝶々。
キッチンテーブルへ彼が皿を並べる間にも、外でパトカーの赤い警告灯が窓に映る。来たようだな、と田中は笑顔で言う。
「予想していた通り、駐車違反を待ち伏せしていたのだ」
捕まえ方を知っていたらしい。折絵は安心もするが、ほどなく婦人警官が部屋を訪れる。犯人の掌に赤いのが付いており、それが口紅か確認しにきたのだ。それで、折絵は口紅の色とメーカーを告げる。
「容疑者も白状してますから、もう安心ですよ」
暴漢たちも、なるべく罪が軽くなる方法を選んだようだ。引っ越しの手伝いをした二人が悪戯心で企んだらしい。折絵にとっては迷惑だし、このことは忘れたい。田中も安心した顔で椅子へ座る。
「これで部屋へ帰れるな。テイクアウトするか」
「ハンバーガー店じゃないし。それより」
折絵は口紅が暴漢の手に付いていたということが気になる。ハンドバックからコンパクトを取って、口元を確かめた。ちょっと乱れている。簡単には崩れないが、乱暴にぬぐい取ったみたいになっている。早くなおさなきゃ、と思う。
田中が横を向いて、あっちが洗面所、と話す。見てないよ、との意味らしい。彼女も男の前で化粧直ししようとしたのを恥ずかしく感じた。すでに見られていたというのは、開き直りもさせる。それでも、あの男の手が気持ち悪く感じた。
「気が利く方ですね」
田中の痒いところへ手が届くやり方が居心地よく思える折絵。急いで洗面所へ向かう。電気のスイッチなど、アパートは似たような作りが多いし、迷うこともない。
一人になると、生々しく唇に暴漢の指の感触が蘇り、手ですくい何度もうがいをする。もう口紅なんか落としていいや、と思う。
弄ばれる口惜しさを想像してしまい、涙が頬へ伝うのが鏡へ映る。
(容姿が人並み以上に整えば狙われるのか)
高校生のころはふっくらとした顔と体形だった折絵。口の悪い男らは、誰も振り向かないぜ、と笑う。小学生のころまでは冗談もいう陽気な性格だったが、女らしく、と親や地域に押し付けられて大人しい態度をとるようになった。
(女は変わるときには変わるんですよ)
過去へ言い返したくなる彼女。
折絵は顔も洗って、ハンカチで拭いてから、ちょっと整える。均一に落ちた化粧は、これでいいか、と化粧方法を思いつかせる。いざとなれば開き直れ、というのが彼女の座右の銘だ。
折絵は田中と呼吸が合う気がする。写真クラブに所属していたころの早智子との話で盛り上がって、帰宅した。すぐ何か起こるなんてないし、彼女も友達の兄として親しい関係になったと思っていた。
2
公園通りは嫌なことを思いだしそうで、迂回して通る。田中が住むアパートの前を通ることになり、折絵は改めてお礼をしたいと、彼の部屋へ目を向ける。
「えっ。恋人なの。でも」
夕焼けで染まるドアを前に女の姿。しかし、窓を眺めてから階段のほうへ歩きだす。
田中は留守らしいが、恋人なら部屋にいないことも知っていると思う。
(もてるはずだから、女友達はいるはず)
折絵は、連絡はしないが、相手が会いたいときに会う仲だと考えた。自分も同じだろうと思う。
「何か、ご用事ですの」
突然声をかけられて視線を階段へ向けると、さっきの女がアパートから出て立っている。大手不動産の事務員が着ける制服姿。
一歩一歩と近づいてくる女は、ハイヒールの高さを引いても折絵より身長が高く、点灯した街燈に切れ長の目と固く結ばれた唇が浮かぶ。口のわるい男らは、相手が美人だし、女として上だというはず。
しかし、折絵は対抗意識が出てくる。相手が見た目で男にちやほやされる女に見えた。ふっくらしていた高校時代から、美人や良い子ぶる女に見返したい思いは持っている。
「田中さんには懇意にしていただいてます」
大袈裟と思うが、相手の目が遠くを見る。私は付き合ってますけど、と言われたら、彼の妹のことを持ちだそうと構える。折絵に有利なのは、影になり表情が分かりにくく、強張る表情に相手は気づいていない。
「高校時代から知ってますけど、私は」
「今日は留守ですよ」
言葉を探せないで、分かり切ったことを言う折絵。
「左様ですわね。あなたもお仕事帰りかしら。安っぽいデザインですわね」
「制服ですから。お互いに」
ここで務める企業の比較はしたくないが、相手は自信があるような笑みを浮かべる。
「紳士服店なの、素敵なお仕事ね。殿方を、よりどりみどりじゃございません」
「皮肉ですか」
いら立つ折絵。相手はそれを見逃さない。
「田中さんは、真面目な方です。お遊びは止めなさいな」
捨て台詞ともとれることを宣い、歩き去る相手。
「言いたいことだけ喋って、何よ」
折絵は思わず呟く。あまり田中と相性も合いそうにないと感じる。これは嫉妬だ、と気づいた折絵。 助けてもらったお礼がしたいのに、その根っこには「逢いたい」という感情がある。世間では恋と呼ぶが、折絵は未だ恋愛に臆病な面がある。
・
折絵は休みの日に早智子と喫茶店で待ち合わせた。
おしゃべりな彼女が、クラス会があるとか、出席するわけないとか言う。折絵も今更、あの派閥みたいな女子集団に会いたくもない。
「話はさ。兄貴がおーリーに会ったといってたから、よく顔が分かったねと言ったけど」
「それね、ちょっと変なのに絡まれて、助けてくれたのが、さーちの兄貴だったらしいわけ」
なるほど、田中も詳しくは話してないし、そういうのを聞くより、直接本人へ訪ねるのが早智子だ。噂話は信じないタイプで、折絵もそれは似ている。だからほかのクラスメートの噂話などにも距離を置いていた。
「それにしても、あいつは、どうしようもないよねー」
言葉とは反対に何故か笑顔。付き合ってるの? と尋ねる。折絵が前に付き合っていたクラスメートのことなのは、お互いに話の流れで理解していた。
美人になったけれど、結局おたふくじゃん、とあいつが言ったのが分かれる引き金になった折絵。早智子に経緯も話してある。
「あいつは軽いのよ、でも正直。自分の顔をみて、女に言えって鏡を誕生日に上げた。少しは落ち着くでしょ」
早智子のいうことだから、確かにちょっとは変わったということ。
「さーちとは上手くいくわよ。甘えん坊夫に世話焼き女房になる」
はっきりいえばかかあ天下タイプになると折絵は感じてる。早智子もそれが夫婦の理想と言ってた。少なくとも折絵には何の未練もないやつ。
それで、田中。
改めてお礼もしなければと思う。妹と同じで隠し事はしない質らしい。問題は恋人の存在が気になる。男への興味というのは原因などわからないし、助けてくれたこととは別に相性の良さを感じていた。
さすがに妹でも現在は分らないが、目標があって、甘えたり要求ばかりする女は嫌いだと早智子は話す。
「付き合ってたのか、しつこい女が一人だけいる。婚約しようと実家まで押しかけて来たけれど、兄貴が乗り気でもないこと」
女が思い込んでいたらしい。この前の女がそうかもしれない。
「おーりーがもっと知りたいなら、やっぱり、お礼にいくべきだね」
「それからだね。一応、お兄さんには内緒で」
「当然、弁えてるさ」
あんがい約束事なら口は堅い親友だ。
・
折絵は休日にアソートクッキーを準備して手土産に、田中のアパートへ向かう。部屋に居る確率が高いのは夕方だろう。
電話番号は交換してないし、突然になるが、ほかの人がいたときのための口上も準備している。
このドキドキ感が昭和時代にはあった。
彼女はボトムジーンズにポシェットを巻き、淡いオレンジ色の半袖ポロシャツを着る。ちょっと買物へ、といった服装だ。怖さも薄れた公園通りから眺める田中の部屋は蛍光灯が点いている。
アパートの裏手から入る形になるが、夕日を背にして階段へ向かう人物と遭遇する。各段の郵便受けを横に、階段の前で対面した。
不動産会社の女だ。
仕事帰りに何度か会ったが、お互いに無視していた。誰が、この階段を上るか、今度は譲れない状況になる。廊下のライトが思った以上に二人を照らす。防犯の意味で明るくしてある。
「どちらさまでしょうか」
折絵は先手必勝だと、仕事用の言葉を使う。最初の出会いのあと、まずは初対面なら名乗るのが先だと気づいてもいた。
「田中さんの知り合いですが。私の名前が必要ですの」
相手は姿勢を正して言う。なるほど会社の名札を付けているし、それでも名前を聞くなら先に名乗れ、と言いたげ。ここで、いつも仕事の時に電話で使う常套句を持ち出す折絵。
「町野紳士服店の折絵と申します。ご用件は何でしょうか。承ります」
それしか思い浮かばないのも事実。ちゃんと名乗ることで、田中に知られても大丈夫だという表情を見せる。
「マニュアルの台詞? おじょうずね。さようでございますか。田中さんにはご理解いただいてる私用なのですが」
しかし、黙ってしまう。あなたには話す必要もない、と言いたげだが口にださないようだ。それが折絵の重圧にもなる。
クラスメートたちの派閥と向き合うことは避けていたが、いつも心は構えていた。だからいじめも軽いからかい程度で収まっていた。今も下がれない思いがある。付き合っていなくても好意を寄せた相手へ近づく女は警戒する。それは相手も同じだろう。
睨み合い、相手の出方を窺う二人。
ここで折絵は、素直に話そうと決める。
「今日はお菓子を準備しましたのよ」
「それで男を釣るつもり。男を容易と見てるわね」
相手は呟く。
「ご一緒にどうです」
「なに? あっ!」
折絵が私服なので、何かを感じたらしい。付け足した言葉が相手に打撃を与えたのだろう。余裕の笑みが泣き顔に代わる。一緒に住んでいると勝手に思ったようだ。
「田中さんに、幸せになってくださいと伝えて。ごめんなさい」
頭を下げながら踵を返して早足で歩き出す。
「なんなのよ」
呟くが、自分の行動も不可解だと思った。
恋愛には慎重になっている折絵。昔に付き合った男に、所詮はお多福じゃん、と言われて別れた。それからも男は表面だけをみると感じている。今は、雌の勝負に勝ったとの思いが、店内をしたい衝動へと導く。すでに対象は田中だと朧げに浮かんできた。
3
二階の廊下へ立つと、ポシェットからコンパクトを取り出して化粧を確かめる。口紅を薄く付けただけで、目元や肌の張りは、素顔が生き生きしている。
(三十歳まで、これで行けるぞ)
女としての自信が湧いてくる。化粧より肌の手入れだなと実感した。
それで田中の部屋の前へ来たが、はたして一人だろうか。その謎は解明されてない。不動産会社の女との戦いで興奮した身体が、新たな敵へ怯える。彼の恋人がいたら、勢いで、さっきの女みたいになる危険性もある。
(お礼をするだけ。そう、ただの挨拶)
思いながら深呼吸をする。
ノックをして、お礼をしたくてきた、と名前も告げる。足音がしてドアは開かれた。
「折絵さん、いらっしゃい」
田中は無邪気な笑顔で彼女を招き入れる。前の緊張した日より柔らかな表情をする人だと感じる折絵。改めて礼を述べてアソートクッキーを渡す。
「わざわざ、ありがとう。一緒に食べよう」
「よろしいんですか」
社交辞令だろうが、無理に断る理由もない。どうやらほかに人影はなくて、微かな音声はテレビか、畳の色が変わるのはテレビ画面のせいだろう。一緒に食べる、あの女に言った言葉だ、と予言者かと内心笑う。
畳座敷で小さなちゃぶ台を挟み座り、飲むストレートアイスティーがクッキーに合う。
あらためて名前を聞くと、田中秀樹と教えてもらった。
(秀樹さん。良い名前だわ。でもね、すぐにひできとは呼べないしね)
「知らない方が、田中さんへお幸せに、と言ってました」
最初に解決すべき問題だし、どういう関係か知りたい。
「同級生かな、たまに訪ねてくる」
彼も正直だ。月に一回の飲み会へ誘ってくるらしい。
「俺もたまには参加するが、あっちは自分に会いにきたと勘違いしてるから」
それでも年に2回は同級生たちと会う、義理堅い男だ彼は。
「私はあまり同級生とは関わってないけれど。さーちぐらいかしら」
「早智子も、あれだ。友達は少なかった」
小学生のころからお喋りだが話が飛びすぎて付いていけない同級生も多かったらしい。折絵が思う以上に田中は仲良くしていることに感謝していると話す。
「私も、いじめられたりしてましたから、どこか似ているんですよさーちと」
容姿や素振りがいじめの対象になるのも日常だった昭和時代。田中はそれに歯がゆさも感じてるようす。
「もっと住みやすい世の中にしたいなー。微力でも、そういう仕事がしたいんだ」
やはり大きな目標があるようだ。
知らず知らずのうちに折絵は身の上話をする。彼は頷き、ときに冗談をいいながら耳を傾ける。彼女としても初めて会う、真剣に聞いてくれる男性。まじで恋する一瞬で瞳が潤む。
「妹が高校生のころから折絵さんのことは聞かされて、会ってみたかったんだ。思った通り素敵な女性だよ」
「そんなことないよ」
ちょっと俯く。褒められるのに慣れてもいるが、田中の言葉はおたふくのころを含めた彼女自身だと折絵は感じた。危ないなー、とこの雰囲気に危機感を覚える部分と、突っ走っちゃえ、と急かす部分がある。
この場面で男が欲望を丸出しにしてくるとも考えている。それで、どうする。これを言い訳に抱かれるか。いや、まだ二度しか会ってないのに、身体を許す女とは思われたくない。 気持ちとは裏腹に、そろそろ自分の部屋へ戻る、と言い出せない。
田中は思いだしたように身体を動かすと、テレビを消した。幾分暗くなり、遠くから犬の遠吠えが聞こえる。
「片づけようか」
田中はコップとクッキーの乗った盆を持って立ち上がる。
「洗うよ」
折絵も立ち上がる。
帰る時間か、しかし、どうするか迷う。
電話番号を交換しておくか、それでも、次はいつ会えるのか。仕事のときは待ち合わせをしたら夜半になる。休みの日に都合よく会えるとも限らない。
キッチンの洗い場で立ちながら話す。
「それでさー。私と会ってどうだった」
彼の言葉を借りて、何かを聞きたい折絵。
「友達から。って女性の断わり文句かー」
惚けて笑う。
「べつに良いよ。お、お電話してもいい?」
緊張しながら言う。ちゃんと言えているか不安だが。
「歓迎だな。近くだし、夕方から暇だ」
それで、ちょっと真面目な表情になる。
「君と一緒になりたい。考えておいてくれ」
あくまでも今は紳士を貫き通したい彼。少なくとも恋人関係を望んでいた。
答えはひとつしかない。
「考えないよ」
玄関とは逆に座敷へ戻っていく。もう決めた、彼に抱かれたい。
「そうか。ゆっくりしよう。分かることは、俺は君に恋してる」
後ろから腰を抱きしめられて、頷いた。松茸みたいな塊が元気に動くのを感じ、女が男を迎え入れる応接間が反応した。
田中へもたれる折絵。なぜか受け止めてくれると安心している。ふんわり包み込んで、彼が周り込み、背中へ腕を伸ばして抱きしめた。
「愛している。おりえ、すべてを知りたい」
顔を寄せて囁く。彼女も腕を彼へ回す。胸が触れ合い、彼の髪から風呂上がりなのか、シャンプーのシトラスの匂い。風呂を、と長引かせる気はない。
「わたしも。好き、ひでき」
そのまま顔を彼の胸へ埋めた。厚い胸板だ。
ほら、と彼が軽く彼女の顎をあげる。アイスティーの甘苦さが舌を喜ばせる。目元や頬で焦らせる彼の唇は柔らかく熱い痺れを全身に感じさせた。
「ひでき。好き好き」
せがむ彼女の唇へ重なる彼の唇。蕩けるような甘さ。
「うーん」喉が悦び歌った。
焦らして、すれすれに吸い付く彼。
「あん」頭を反らして唇を近づける。
キスだけで、お喋りになる。強く吸われて、ちゅっ、音が響けば身体が疼いてくる。
破裂音を繰り返し、緩く開く口元。彼の柔らかな舌がちょろちょろ入り込む。
「だめ」囁くが、折絵の下は誘い込むように動いていた。
髪を弄られて、来て来て、と彼の柔らかな鞭を歓迎する。甘苦さから甘さだけが残り、粘り気のある液体が舌同士で絡み合う。
「じゅる」彼が吸い取る。
「はあっ」息を吐いて、男の唇へ舌を伸ばす折絵。きっと縦割れの唇も相性がいいだろうと、湿り気を帯びるのがわかる。
(もう、えっちしか考えられない。優しく強く)
彼の背中へ指を這わせて、ぎゅっ、と抱きしめる。
「折絵。見せて」
彼が裾から巻き上げて行く。ここで脱がせるつもりらしい。
「ひでき、ああー」
うわ言のように唇から零れて、脱がせやすいように腕を動かした。求められて、隠された部分を見せることに女の自信みたいなのを意識した。
立ったままがジーンズやパンツは脱がせやすいらしい。ちょっと足が疲れたけれど、彼に支えられて、下着姿になった折絵。思わずショーツの前は隠す。最後の楽園を見られるのは恥ずかしい。
秀樹がお姫様抱っこでベッドへ歩く。彼の胸へ顔を埋めて、まったりとした幸福を感じる折絵。もっと激しくされたい思い。彼へ抱きつく腕を深く交差させて抱きしめる。
「素敵だよ。ビーナスだ」
「そんなじゃないよ」
「どうして。さあ、横になって」
ベッドへ下ろされた折絵。仰向けでまつ毛を伏せる。女性は自分の淫らな格好を他人へ見せたくはない。折絵も好きな人以外には見せたくない。その秘め事が始まった。
秀樹の指と唇がブラの紐をなぞり、剥して行く。
彼を求めて指を伸ばせば、応えて柔らかく握ってくれた。
「素敵だよ。見せて」
胸の膨らみを露わにして、彼が愛おしく口に含むのは桃色で、グミの実にも似ている。
彼女は愛されている実感と期待に、淡い桃色で染まる肌。
イブがイチジク葉を取り去るように、彼女もすべてを彼へ見せる。手で覆う縦割れの唇。
彼も服を脱ぎ、逞しい身体を寄せて来る。抱き合い、これから一つになる、愛の囁きをキスでした。
(これだけでも、めまいがしそう)
恥じらいは雌の目覚めかもしれない。本能に身を委ねる準備をしている。
松茸のような彼の愛を、彼女が包み込み、奥へいざなう。もう理性で考えるときではない。
満たされた心と身体が快楽を求めて疼く。
「ひでき。ひでき」
忙しい息遣いと喉の喘ぎ。折絵自信は愛されている悦びで、夢世界へ招かれていた。
身体が踊るように一面の薔薇畑を泳ぐ。愛する存在があるから不安定さより、華やかな甘さに酔いしれる。
彼は思いを遂げる雄の動きを早める。彼女は情熱的な衝動が身体を突きあげる。
フルーティーな匂いがほのかに香る。
折絵の身体がしなり、蛍光灯に照らされた汗が銀色に煌めく。折絵が見たこともないはずの、絶頂の女体の美しさ。
・
折絵は田中の太腿の根っこに生えた松茸をしゃぶりながら、上目で彼をみる。すっきりしたというか、間の抜けた表情にもみえる。まどろむ中で、すっぱいとか、味覚は麻痺している。
「うん、美味しい。田中さんと結婚するのかな」
そんな予感がした。
あれから何年経ったのだろう。町内道路の拡張を訴えて、田中は町議会議員になっている。折絵は妻として選挙とか手伝い、美人秘書とか呼ばれているが、いつも謙虚に、と田中は窘めた。 あの日のことを覚えてくれている彼に折絵は感謝して、今も楽しい夜の性活を二人で楽しんでいる。
終
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