Gemini

あきら

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 最近、兄の様子がちょっとおかしい。
 おかしい、と言っても、頭がおかしいとかそういうわけじゃなくて。まあ、原因はわかりきっているわけだけど。

 
 リビングで、二人してアイスを齧りながらテレビを眺めている最中、兄の携帯電話が鳴った。
 震えるスマホを手に取って、送られてきたのだろうメッセージを目にした頬が柔らかく緩む。
 ああ、まただと俺は思った。一日に何度か、彼のそんな表情を目にするようになってひと月が経っている。

「……もう、好きじゃん」

 ぼそりとつぶやいた一言は、どうやら樹の耳には届いていなかったようだ。
 緩んだ顔のまま、ささっと返信をして。もう一度テーブルにスマホを置こうとした瞬間、今度はそれが着信を告げた。
 眉を下げて困った顔をするから、いいよ出なよと言ってやる。変なところで遠慮しいの兄は、もしもし、と小さな声で通話を始めた。

 ほら、また。無意識なんだろうけど、眼鏡の奥の目尻がゆっくり下がって、整え始めた眉もふわりと上がる。
 相手なんて、聞かなくてもわかった。圭人だ。
 俺たちの通う大学に突然編入してきた奴は、あっさりと兄の懐に入りこみ、俺や幼馴染ですらあまり見られないそんな表情を引き出してしまうほどの存在になってしまった。

「別に、いいけどさぁ」

 樹が通話に夢中になっているのをいいことに、二つ目のアイスを取りに冷凍庫へ向かう。
 一つ目のゴミを捨てて、二つ目を取り出して。くるりと反対を向くと、カウンター越しに笑う樹の顔が見えた。

 俺には、圭人のことが好きかどうかなんてわからないって言っていたけど。その表情を見れば、それが嘘――とまではいかないものの、無自覚で好きなんだろうなということはわかってしまう。
 もちろん、俺は。俺としては、樹が幸せなのが一番だから、圭人が樹の側にいてくれるというのならそれでいいのだけれど。

「でもまぁ、面白くはねぇなぁ」

 何しろ、生まれたときからずっと一緒にいる双子の兄だ。
 数十秒先に生まれた兄は、気が弱くて目立つことを嫌い、だけど隠しきれないものが零れて人を惹きつけるし、苛立たせる。それもこれも、全部無意識。

 だから俺は、小さなころから樹を守ってやりたくて、樹を傷つけるものなんか絶対許さない、と思いながら生きてきた。
 圭人はいい奴だ。だから俺も、最初協力したし。ちょっと金持ちのボンボンなところもあるけれど、基本的に優しいし。きっと樹を守ってくれる、と思う。思うのだけれど。

「……確信じゃないのが悪いのかもしんない」

 二つ目のアイスを口に運びながら、首を捻った。
 俺が面白くないのは、二十年以上一緒にいた樹が、ほんのひと月ちょい前に現れた奴にかっさらわれることもあるけど。
 どれだけいいやつだと思っていても、いつか圭人が樹を泣かせるんじゃないかっていう不信感みたいなものが拭いきれないせいだとも思う。
 ため息を落とし、あっという間に空になったアイスのゴミを捨てて、自分の部屋に行く、とまだ通話中の樹に合図をした。
 うん、と頷いて。それから慌てて、ちょっと待ってと言う。

「電話いいの?」
「大丈夫、圭人だし」

 やっぱり。口には出さないけれど、顔には出ていたかもしれない。
 目尻を少し赤くした樹が、あのさ、と切り出す。

「楓は、コンタクトレンズって……どこで買ってんの?」
「コンタクト?入れんの?」
「え、っと、その、話だけでも、と思って」
「……まず眼科行きなよ。買うのはそれから」
「そうなんだ?」

 ありがと、と俺に言って通話に戻る。その楽しそうな背中を見て、俺の内側に湧き上がるのはなんとも醜い嫉妬と独占欲だ。
 はあ、と短く息をついて、改めて部屋に行くから、と告げリビングを出た。




「楓は寂しがりやだねぇ」

 にこにこと笑って、彼は言う。そんなんじゃないと強がってみようかとも思ったけれど、そんなものはたぶん無駄だ。

「……寂しい、っつーか、悔しい」
「ま、それは僕もそうかな。何しろこんな小さいころから知ってるしね、楓も樹も」

 そこそこ大きな公園のベンチ。買ってもらった缶ジュースを傾ける俺を、横で穏やかに笑いながら見ているのが幼馴染、ともにぃこと、小倉 智也おぐら ともやだ。
 俺たちの家のすぐ隣に住んでいる智にぃは、いくつか年上で、お互い幼いころからいい遊び相手だった。それはもちろん今もそうで、しょっちゅうゲームしに来たり行ったり、樹と俺と三人で遊びに行ったりもしている。
 それこそ小さいころから、俺は樹に比べたら社交的だと言われるけれど、本当はこの二人だけが心を許せる存在だった。

「僕も一回見てみたいなぁ、その圭人くん」
「……見てどーすんの?」
「楓が何に納得いってないのかわかるかと思って」

 やっぱり、俺の考えていることなんて全部お見通しだ。にこ、と笑う顔は見慣れたそれで、でも見るたびにかっこいいなと思う。
 何しろ、俺の服も髪も、ちょっとしたメイクも、全部教えてくれたのは智にぃなのだ。そりゃ、俺の『かっこいい』の基準にもなる。

「どしたの?」
「な、なんでもない」

 だけど、人の顔で心を読むなって話で。
 慌てて誤魔化す俺に、それ以上追及することなく、そっか、という声が返ってきた。

「楓から見て、その圭人くんってどんな人?」
「どんな……うーん……なんだろ。御曹司のくせに偉ぶらないとこはいいと思う。生活の感覚も俺たちとそんなかけ離れてるって感じはしない」
「ああ、親御さんが大きい会社の社長さんなんだっけ」
「そう。ただ金銭感覚だけはちょっとおかしいかなって感じたりもするっつーか、奢りたがる。でも樹がやめろって言うと大人しくなる」

 思い出しながら話す。あの時やその時の圭人は、飼い主に叱られてしょぼくれる大型の犬みたいだったな、と少し笑った。

「樹は圭人くんが好きなんだ?」
「はっきり言わないけど、俺から見たらそう見えるよ。あんな嬉しそうに電話する姿、見たことねぇし。俺や智にぃがいくら言ったって、髪も服も無頓着だったくせに圭人があっさり変えちゃってさ」
「それは確かに悔しいね」
「だろ?!」

 我が意を得たりと勢いよく智にぃの方を向く。柔らかく笑う目が俺を見ていて、なんだか急に気恥ずかしくなった。
 ぱっと視線を前に戻し、半分ほど残っていた缶の中身を空にする。

「そ、それにさぁ。昨夜なんか、とうとう『楓はコンタクトレンズどこで買ってるの』なんて言い出して」
「え」
「なんで俺の言うことには頷かないくせに、圭人に言われたらその気になるんだよ。悔しいじゃん……俺のほうがずっと樹と一緒にいるのに」

 少しの間があって、くしゃりと頭を撫でられる感触があった。優しい手のひらにうっかり泣きそうになって、べそ、と鼻をすする。
 
「ずっと近くにいるからこそ、素直にうんって言えないこともあるのかもね」
「……わかってる、けど、さぁ」
「いいことじゃない?樹が、やっと僕ら以外の他の人に興味を持つことができ始めたんだから」
「……それも、わかってる」

 だけど、と続きを言いかけた俺の声は喉に詰まる。
 智にぃはそれでいいのかよ、と。
 ちらりと顔を覗き見れば、その表情に不審なところなんか微塵もない。いつもの、優しい智にぃのままだ。

「さみしい」
「それは俺も同じ。でも、同じくらいには嬉しい、かな?楓だって本当はそうでしょ」
「……うん」

 掛け値なしの本音をあっさり引き出されて、否定なんかできるはずもない。小さく頷く俺に、智にぃは偉いね、と言って笑った。
 なんで。なんで笑うんだよ。そんな言葉も声にはならなくて、俺の腹のうちに舞い戻る。
 圭人よりも、ずっと前から、智にぃは。樹のことを好きなはず、なのに。



 気づいたのはいつごろからだっけか、なんて考える。
 智にぃはずっと、俺たちのいい遊び相手でいてくれた。
 それが、いつからか。俺より少しだけ、樹のほうを気にかけてるような気がして。
 だけどそれでよかった。俺より樹に手がかかるのは俺だって解っていたし、何より二人が嬉しそうだったから。
 俺は二人とも好きだから、まあちょっとだけ爪弾きにされたって構わないぐらいには、二人が笑ってくれればそれでいいのに。

「――うん。え、いやいいけど……お前も、一緒にきてくれんの?」

 階下から聞こえる樹の声は、胸やけがしそうなほど甘ったるくて。
 俺も聞いたことのないそんな声に、電話の向こうの圭人をとりあえず一発殴りたくなる。

「俺ってこんな嫌な奴だったんだ……」

 自己嫌悪に頭からめり込みそうだ。
 最初はよかった。樹が、俺と智にぃ以外の人と少なからず関わろうとしてるんだからと背中を押した。圭人に、樹を連れ出してくれればいいと思って協力もした。
 樹が明るくなったこと。あんなふうに、誰かと電話で話したりすること。おそらくは、恋愛感情を持ち始めていること。それら全部、俺にとっても嬉しいことのはずなのに。

 まるで独り、暗闇に取り残された気分になりながらベッドに寝転がる。
 そのうち、ゆっくり階段を上がってくる足音が聞えた。電話が終わったのだろうかと思っていると、遠慮がちなノックの音がする。
 ドアが細く開いて、起きてるか聞かれたので大丈夫と返し、体を起こした。

「あ、のさぁ。楓、来週の連休空いてる?」
「連休?別に何の予定もないけど」
「それならさ、圭人が一緒に出掛けないかって言うんだけど」

 まただ。
 樹の口からその名前を聞くたびに、少しずつ少しずつ、嫌な俺になっていく気がした。

「いいよ俺は。二人で行って来ればいいじゃん」
「でも、さぁ。せっかくだからって」

 珍しく食い下がろうとする樹に、苛立ちが募る。

「こないだ楓が言ってた――」
「いいって言ってんだろ?!」

 思わず大きな声が出てしまって。びくりと身を竦ませた樹の顔を見ることもできなくて、どいて、とその体を押しのけ部屋を飛び出してしまう。

「っ、楓!」
「……ごめん、でかい声出して。頭冷やしてくる」
「ま、待てって」

 引き止められるけれど、振り向く勇気なんかない。逃げるように靴を履いて、玄関から外へ飛び出した。



 どうぞ、と差し出されたコップを受け取り、口元へ運ぶ。

「……怒らねぇの」
「だって僕は何も聞いてないもん」

 いつもと同じ、にこやかな口調で言うから。ぼろ、と勝手に涙が落ちた。

「おれ、こんな……こんなに、自分が嫌なやつだと、おもわなかった」
「うん」
「樹に、っ、わらって、て、ほしい、のにっ」
「そうだね」

 俺の言葉にひとつひとつ相槌を打ちながら、優しい手は頭を撫でてくれる。

「楓は樹が大好きなだけだもんね」
「っ、で、でも、っ、俺、おれっ」
「うん」
「ど、しよ……とも、にぃ、も、いつき、おれのこと、きらい、かなぁ……おれ、もう、いらない、のかなぁ」
「そんなわけないでしょ」

 もう、と言う声は呆れていて。
 貸してと手に持っていたコップを取っていったかと思うと、次の瞬間にはぎゅう、と抱きしめられていた。
 その温もりが、また俺の涙腺を崩壊させていく。

 小さな子供のときみたいに、智にぃの腕の中でひとしきり泣きじゃくって。顔面から出るもの全部出てるんじゃないかっていうぐらい、智にぃの服が濡れていた。
 しゃくりあげる俺の背中を、とんとんと一定のリズムで叩いて。ゆっくりゆっくり、涙が止まるのを待ってくれる。
 智にぃはこんなに優しいのに。なんで樹は、ずっと一緒だった智にぃじゃなくて、圭人なんだろうなんて頭の片隅で考えた。

 どのぐらいの時間が経ったかわからないけれど、ようやく俺の涙が止まったのを見計らったように、智にぃは言う。

「楓はさぁ、たとえ楓に好きな人ができたとして、樹のこといらなくなっちゃう?」
「そ、んな、わけ、ない」
「だったら樹だってそうだと思うよ。楓と樹は、この世でたった二人の兄弟なんだからさ」

 ぴく、と俺の手が震えた。
 そうだ。俺より、智にぃの方がよっぽど辛いはずなのに。俺はなんて自分勝手な奴なんだろうと、また落ち込んでくる。

「ほら、拭いてあげる。せっかくのかわいくてかっこいい顔が台無しだよ」
「智にぃのほうが、かっこいい、し……」

 無意識に出た言葉に、思わず顔が熱くなった。何言ってんだ俺、と目の前のタオルに手を伸ばす。

「だめ、楓に渡すと乱暴に拭くから。僕がやってあげる」
「……うう」

 ちょっとだけ不思議な間を置いて、智にぃが優しく俺の顔を拭うのを待った。

「……ごめん、智にぃ」
「僕になんにも謝ることなんてないって。むしろ楓に頼られるのは嬉しいんだから」
「またそーやって俺ら甘やかす」
「僕がそうしたいんだからいいの。ちゃんと仲直りできる?」

 うん、と小さく頷く。
 どれだけ拗ねてみたって、俺が樹に幸せでいて欲しいのは変わらないから。

「だって、樹」
「え?」

 驚いて顔を上げた。智にぃの視線を追えば、部屋の入り口に樹がいる。

「な、んで?!」
「なんでもなにも、わかるに決まってるだろ。どれだけ一緒にいると思ってんだよ」
「僕は連絡してないからね」

 苦笑した二人に口々に言われて、なんだかやたら恥ずかしくなった。

「なぁ、楓。お前が嫌ならやめるよ?」
「ばか、何言ってんだよ」
「だって、お前が苦しんでたら、俺だって楽しくない」
「け、圭人は、どーすんの」
「あ、それなんだけど」

 俺の頭を飛び越えて、智にぃが樹に言う。

「僕も行っていい?」
「え?」
「紹介してよ、樹の好きな子」
「す、すす、好き、って、そそ、んな」
「ね、楓も。僕も行くなら大丈夫じゃない?」

 何が何やら。
 にこ、といつもの笑顔で言われては、俺も樹も、智にぃの申し出を了承するしかない。
 その場で樹が圭人に連絡し、あれよあれよという間に、智にぃ曰く『ダブルデート』が決定したのだった。

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