それをさだめと呼ぶのなら

あきら

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2 コーヒー

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 少しばかり仕事が立て込んでしまったのは、拾ったミストと同居を始めてひと月ほど経った時だ。

「明日は朝飯いいから」
「なんで?」

 告げた俺に、ソファーの上で首を傾げる。

「ちょっと忙しくて。寝るのも遅くなるし、朝はそのまま寝かしといてくれ」
「……うん、わかった。夜食とかなんかいるものある?」
「そうだな、おにぎりとかあると嬉しい」

 俺の答えに、お前は嬉しそうに笑った。いつもより手間が増えるのに、本当に嬉しそうに。
 そんなミストを不思議に思いながらも、何を言うでもなく、夕飯と風呂を済ませたあと、俺は自室にこもる。

 しばらく時間が経って、確認のために時計を見た。もうすぐ深夜の三時になろうかというところだ。
 一区切りついたのを確認し、まだ終わらなそうだと思いながら一旦部屋を出るため扉を開けた。

 廊下の足元に置かれた皿を見て、小さく笑いが零れる。
 控えめな大きさのおにぎりが三つ鎮座しているそれを手に取って、リビングへと向かった。間接照明だけが薄ぼんやりとついているそのテーブルに皿を置こうとして気づく。
 ソファーに寝転んで、静かに寝息を立てているミストの姿に、また小さく笑った。

「まったく。寝るならちゃんと布団で寝ろ」
「……ん、ぅ」

 俺の独り言に返事でもするように、もにもにと口元が動く。
 かわいい、なんて。そんな思いが浮いて、軽く首を振った。
 作ってくれたおにぎりを口に運ぶ。塩気のバランスがちょうどいい。そんなことにも口元は緩んだ。
 簡単に三つ胃に収め、皿を流しに入れる。それから冷蔵庫を開け、冷たい茶を取り出し一気に飲み干した。

「あお、ぃ……?」
「ごめん起こしたか?」
「う、ううん……俺が、ここでうとうとしちゃったから……」

 カウンターの向こうでもぞりと動くシルエット。軽く伸びをして、目を擦って。
 飲んどけよ、と新しく冷たい茶を取り出し渡してやる。ありがと、と言いながら蓋を開け、こくこくと上下する喉を見つめた。
 俺の視線には気づいていないようで、半分ほどを飲んで蓋を閉める。

「こんなとこで寝ると風邪ひくぞ。布団行けって」
「ん……仕事は?」
「もう半分ってとこだな。朝までには終わらせないと」
「……あんま、無理、すんなよ」

 心配そうな声に、馬鹿みたいに嬉しくなってしまう。それを隠して、お前もなと返した。
 ソファーから立ち上がり、寝る部屋としているゲストルームへ向かうミストを見送る。
 扉の閉まる音を確認してから、自分用にコーヒーを淹れて。いつもの青いマグカップを手に、再び自室へと戻った。
 ぎし、と音を立てる椅子に背を預けコーヒーを口にする。

「……ん?」

 なんだかそのコーヒーは、いつもと味が違う気がして、ひとり首を傾げた。



 僅かに開いたままの扉から何か聞こえた気がして、意識が浮上していく。
 完全に部屋の扉を閉めないのは癖のようなものだ。それはこの家の住人が、俺一人から二人に変わっても変わらない。
 閉じた瞼の向こうが明るいのがわかる。とはいえ、眠った時間もすでに明るかったので、どのぐらい時間が経ったのかはわからなかった。

 部屋の外からは、相変わらず何か聞こえている。それが歌だと気づくまでには、少しの間が必要だった。
 それほど大きくはない声だろうに、やけにはっきり聞こえる。けれど不快感などはまったくなく、むしろ心地よさに身を委ねた。
 ああ、ミストの歌声だ。またどこかで聞きかじった曲を、適当に口ずさんでいるのだろう。
 不意にその歌が止まって、遠慮がちに扉が開けられる。同時に葵、と小さな声が言った。

「……もうすぐ夕方になっちゃうよ?」

 心配そうな声音が近づいてくる。もうそんな時間か、と思いながらも目を開けるのがもったいなく思えた。
 仰向けの俺の額に指が触れる。人に触れられるのなんて、いつぶりだろうか。
 ミストの体温がそこから移るような気がして、その感触がひどく温かく思えた。

「ほっといていいって言うけど、さぁ。さすがにちょっと、心配」

 言いながら、指先が手のひらに変わって。俺の熱を確かめるように乗せられたそれが、優しく頭を撫でていく。
 俺の柔らかくはない髪の感触を楽しむように撫でてくれる手が、ただ嬉しい。

「……ミスト?」
「おきた?ごめん、さすがにそろそろ起きないかと思って」
「いや、サンキュ……今何時……?」
「もうすぐ四時。夕方の」
「マジか」

 思ったより時間は過ぎていて、ミストが遠慮がちにではあるが様子を見に来てくれたことにも納得した。
 あまり寝すぎてもと起きる決意をし、仰向けのまま伸びをする。そのタイミングで離れた手を、反射的に掴んだ。

「え?」
「あ」

 きゅ、と握りしめた手は俺のそれよりも少し冷たく感じる。
 さっきはあんなにも温かく感じたのに、と不思議な気分になりながら、掴んだそれをどうしたものかと迷った。

「葵?なんかある?」
「……いや……」

 別に何か引き止めてまで言わなければならないことがあるわけでもない。そもそも、ミストが戻るのはリビングで、追いかければ済む話だし。
 けれど捕まえた手を離したくなくて、かといって言葉もうまいこと出てきてはくれなくて。
 不思議そうに首を傾げるミストの顔を、下から覗き込むような状態で固まってしまう。
 そんな俺に助け船を出すように、腹の虫が空腹を告げた。

「っ、でっかい音だなぁ」
「……腹減ったわ。何かある?」
「あるよ。昼は食うかと思って作っちゃったから」

 笑うミストと、腹の虫に感謝する。
 ごく自然に掴んだ手を離し、体を起こした。用意しておくねとリビングへ行くのを見送って、息を吐く。
 ベッドに腰掛け、右手をじっと見つめた。そこにまだ、彼の体温が残っているような、そんな気がして。
 
 


 飯を腹の中に入れて少し落ち着いて。
 今日は洗い物もやるよ、というミストの言葉に甘えて皿を渡す。
 そうだ、と思い出し、自室からマグカップを持ってきた。夜中に飲んでそのままだったそれも渡すと、さっと洗ってくれる。

「びっくりした。こんな寝てたんだな俺」
「何回か様子見はしたんだけどさぁ。気持ちよさそうに寝てたから、起こすのも悪くて。でもさすがに」
「助かったわ。昼夜完全に逆転するとこだった」
「え、逆転してねぇの?夜寝れんの?」
「いけるいけるまだ眠い」

 カウンター越しに笑いながら話をして、ミストの手が止まるのを待った。
 たまには自分が、と。コーヒーいるかと問いかければ、うんと頷いて白いマグカップを渡してくる。

「俺さぁ、たぶんなんだけど」
「なにが?」
「たぶん、コーヒーあんま好きじゃなかったみたいなんだけど」

 記憶が戻ったのかと驚いてミストを見る。けれどどうやらそうではないらしく、少しだけ眉を寄せて首を横に振った。

「思い出せたわけじゃないんだけどさ。たぶん、俺はコーヒーがそんな好きじゃなくて。でも、その、ここで淹れるコーヒーは……なんか、好き」

 寄せた眉のまま、照れたように、恥ずかしそうに。小さく笑う姿に、心臓を鷲掴みにされたような気がする。
 息を飲んで、ぞくりとして。口から零れそうになった何かの言葉を、喉の奥へと無理矢理飲み込んだ。
 言っては駄目だと本能が警告する。俺の逡巡はおそらく一瞬で、ミストには気づかれていないはずだ。

「――そうか。そりゃよかった」
「うん。この機械?なんていうの」
「これか?バリスタってやつで――」

 話の矛先をコーヒーマシンに移して、安堵の気持ちを押し込めた。
 カウンターを回ってきたミストの肩が、俺の体に触れる。ピリ、と静電気のようなものが走って、だけどそれにすら気づかないふりをした。

「あ、風呂洗ってない」
「いいよシャワーで」
「なんでだよ勿体ないだろ。あんなでかくて綺麗な風呂なんだから入れよ」

 それに、とミストは続ける。

「ちゃんと風呂に浸かった方が、疲れも取れるし眠れるってテレビで言ってた」
「テレビかよ」
「俺も入りたいの!洗って沸かしてくる!」

 冗談めかした怒り口調で言って、今度は浴室のほうへ向かっていった。

 本当に、ミストはいろいろよくやってくれている。俺のことを気遣ってくれるのもそうだし、そこに俺が負い目を感じないようわざと茶化してみたり怒ったふりをするのが上手い。
 そういう、素の性格が垣間見えるたびに、あいつは何者でどこからきたのだろうという疑問は大きくなっていった。
 そして同時に、いつまでここにいてくれるのだろうか、と。

 記憶が戻ってしまえば、記憶のなかったときのことを忘れるなんて話はよくあることだ。そうじゃなくたって、ミストが何かを思い出したらきっと、ここから消えてしまう気がする。

「……嫌、だな」

 小さな声は、意識の範疇外で落ちた。




 空が茜色に染まっている。
 昨晩、ほぼ徹夜だったせいもあり、本当に夕方近くまで眠りこけていたことを改めて実感した。
 気分転換に少し外を歩いてくると言った俺に、だったら一緒に買い物に行こうとミストが提案して、結局近くのスーパーまで二人でいくことにする。

「久しぶりだな、こんだけ寝てたの」
「徹夜自体は?」
「それも久しぶり。お前来てからは初めてじゃね?」
「確かに」

 規則正しい生活してるもんな、とミストが笑って。

「お前だってそうだろ?」
「俺はお前に合わせてるだけ。寝ようと思えばいくらでも寝れるし、起きてようと思えばずっと起きてられるよ」
「……え、じゃあ、なんでソファーで」
「あれはお前が寝てていいって言ったから。葵が起きててくれって言ったら起きてた」

 なんでもないことのように言うから、それに疑問を抱いた。

「別に、そんな……俺に合わせなくてもいいんだぞ?」
「うん、ありがと。でも、何もないから」
「ミスト?」
「俺は今、葵のためにすることしかないから」

 ずきりと心臓が痛む。
 本当はもっと、ミストの好きにして欲しいのに。ただ俺の世話を焼くだけでなく、彼は彼で自分の好きなことをしていて欲しいのに。
 俺の顔を覗き込んで、ミストが笑った。ごめんな、という一言つきで。

「言っとくけど、嫌々やってるわけじゃねぇからな。俺がそうしたくてやってんだから気にすんなよ」
「……いや、俺のほうこそ悪い」
「何も謝ることないって。俺は葵に感謝してんだから」

 感謝。それはそうだろう。だけど、俺はその一言がまた、痛んだ心臓に針を刺す。

「――俺は」

 脳内はまとまらないまま口を開いて、だけど当然のように言葉は出てきやしない。
 感謝して欲しいわけじゃない。負い目を感じて欲しいわけでもない。ただ俺の側で、好きなように過ごして欲しい。
 そこまで考えて、ばちりとミストと目が合う。

「葵?」
「……俺は」

 喉の奥の方で、何かが詰まっているような感覚に襲われて、拳を握りしめた。
 意味もなく口を開いた俺を、不思議そうな両目が見ている。

「――見つけた!」

 そんな俺たちの空気を切り裂いたのは、聞いたことのない声だった。
 弾かれたように振り返る。その顔を目にしても、覚えはない。

「よかった、無事で」

 呆然とする俺の横を通り過ぎ、そいつはミストの両手を取った。

「ずっと探してたんだよ。本当によかった見つかって」

 その声音には、本当に心から心配していたという感情がこめられているのがわかる。
 けれどミストのほうは戸惑った表情で俺を見た。その瞬間に、背筋がぞわりとする。

「誰だあんた」
「っ、え」

 気づいたときには知らない男の手を引きはがしていた。
 何もわからないという顔をするミストを腕の中に収め、睨み付ける。
 すると彼は、軽く息を吐き告げた。

「誰だ、はこっちの台詞だよね」
「どういうことだ」
「言っただろ?探してた、って」

 視線がミストを見る。びくりと身を竦ませた、腕の中の体にあるのは明らかな怯えだった。


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