初恋少年冒険譚

雨塔けい

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両片思い

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 「落としましたよ」
 地下鉄半蔵門駅のホームで声をかけられて振り向くと、そこには黒髪の美女が存在した。彼女は高そうな紺色のジャケットと、クリーム色のワンピースを見に纏い、穏やかに微笑んでいた。その上品でありながら可愛らしさを忘れない雰囲気を、秋桜のようだ、と思った。
 彼女は私に向かいって、ぐい、とハンカチを差し出していた。どう見ても女物のそのハンカチは私の物ではなかったが、いやしかし、これは日頃懸命に生きている私への、神様からのご褒美かもしれぬ。例えばこれをきっかけに彼女と連絡先を交換し、週末に洒落たレストランで愛と勇気と菓子パンについて語らいあう仲になる可能性だってあるのだ。
 この妄想の間に結構な時間が過ぎたと思うが、彼女は上品な笑みを浮かべたまま微動だにしなかったので、私はそのままハンカチを受け取ってしまった。仕方なく駅員に預けた。家に帰ると、自分のハンカチがなくなっていることに気がついた。やはりあれは私のハンカチだったのかもしれないと思った。残念。

 ハンカチの件は残念であったが、神は私を見捨てたわけではなかった。その後、黒髪の美女と再会を果たしたのだ。
 ある仕事帰りの夜、電車を待っていると、彼女はホームの端で、こちらを見ていた。軽く会釈をすると、秋桜が咲いたように可憐な笑顔を見せ、会釈を返してくれた。
 諸君らは私のことを甚だ妄想の激しい男だと思ったかもしれない。私は敢えてそれを否定しないが、現実が妄想に追いつく可能性があることを忘れてはならない。

 次の日、また彼女はホームの端でこちらを見ていた。今度は乗り換え駅の九段下駅で再会した。時刻は帰宅ラッシュと重なっている。押し寄せる人波にもかかわらず、彼女はやはり、上品な笑みを浮かべ、挨拶をしてくれた。偶然にしては出来過ぎだ、と思ってみたが、気分は既に浮ついていた。
 ここまでくると、諸君らの中には「コイツ、目か頭がおかしいのではないか」と思う者もあろう。だか、私は右1.2、左1.2の視力優良児であり、特段頭がおかしいと考えられる理由も持ち合わせていない。万一私が頭がおかしいヤツなら、とうに周囲の人間に距離を置かれていることだろう。あいにく私の周りには数人の友人がいる。

 その次の日には、電車の中で彼女と再会した。満員電車で首から下を動かすことは叶わなかったが、目が合ったようで、彼女は上品に微笑んでいた。
 諸君らに何を言われようとも、これはもう、運命という他ないだろう。

 ところがその次の日は、彼女に会うことは出来なかった。そんな日もあるか、と思ったが、思わずきょろきょろと彼女を探してしまう。そんな風にして歩いていたら、財布を落とした。幸い優しい人が拾って駅に届けてくれたようで、大きな被害はなかったが、財布を取り戻すための諸手続きに大変な労力と時間を要した。本当についてない。

 …そうだ。今日はたまたま運が悪かっただけ。きっとまた、秋桜のようなあの笑顔に会える。

 ところがその後数日間、彼女が私の前に現れることはなかった。神様の力もこれまでだったかと、私は自分がこれまで彼女に大したアクションを起こしていないことを見事に棚に上げ、落胆した。

 ある日、寂しさと絶望感を携えながら自宅マンションのエレベーターを降りると、自室である306号室の前に、人影が見える。階を間違えたかと思って一番近くの表札を見る。302。間違いなく、ここは3階だ。もしかして、と、私はある可能性に胸を高鳴らせた。303号室の前まで歩くと、それは確信に変わった。佇む秋桜のような空気感。見紛うはずもない。
 その人がくるり、とこちらを向く。胸ポケットから、見覚えのある柄のハンカチが覗いている。黒髪の美女は私の部屋の前で、あの可憐な笑みを浮かべていた。
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