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慈雨1

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「可哀想に……。こんなに跡がついてしまって」

 湯気がたつ風呂場で、シャーロットは背後からギルバートに包まれ、手首をさすられていた。

「大丈夫です。見た目ほど痛くありませんから」

「君の肌に縄目を覚えさせるのは、私が最初だと思っていたのに……」

「?」

 よもや緊縛プレイがあると知らないシャーロットは、ギルバートの言うことが分からない。

「怖かっただろう、シャル」

 シャーロットの細い手首にキスをし、妻の頬に口づけする。

「……ギルさまが助けに来てくださると、信じていましたから」

「もう二度とこんなことがないように、次からは夜会があったら君を連れて早めに帰ろう」

「……陛下や殿下が悲しまれます」

 宥めるように笑うと、ギルバートが溜息をつく。

「……君は年齢の割に、物わかりが良すぎだ。もっと我が儘になっていいし、私にももっと甘えなさい」

「ちゃんと甘えていますよ?」

 背中をギルバートの胸板に預け、シャーロットは疲弊した体を休める。

 夜会での気疲れと体力的な疲労加え、誘拐されて極度の緊張でぐったりしてしまった。

 ギルバートにたっぷりと優しく体を洗ってもらったので、もう今日は清潔な寝具に包まれて眠りたい。

 心地いい温度に包まれて、ぼんやりとそう思っていた時だった。

「……ここは、痛むのか?」

 優しくシャーロットの体が反転され、浴槽の縁に押しつけられる。

「……え」

 金色の目が悲しそうに見るのは、胸の谷間につけられた浅い傷。

 引っかかった程度の傷なのでもう血は流れていないが、固まった血がちょんとほくろのようについていた。

「血など見てもなんとも思わないのに……。君の真っ白な肌に血が見えて、取り乱しそうだった」

 眉間にしわを寄せ、小さく呟くギルバートは深く悲しんでいた。

 舌を出し、そのままシャーロットの傷を優しく舐める。

「っあ……」

 チリッとした微かな痛みがあり、同時にギルバートの舌に体が反応した。

 舌の平たい部分を押しつけて、ギルバートは執拗にシャーロットの傷跡を舐める。

 唾液をたっぷりと含ませた柔らかな舌に、シャーロットは湯に浸かっているのとは別の理由で、体温が上がってゆくのを感じた。

「あつい……です」

 は……と息をついてギルバートの頭を抱きしめると、指の間で黒髪がすべる。

「……ギルさまは……。人に憎まれるのも、慣れてしまったのですか?」

 ゴットフリートの憎しみに彩られた顔を思い出し、シャーロットは悲しげに問う。

「…………」

 シャーロットに頭を撫でられつつギルバートは顔を上げ、特になんの感情もない様子で答える。

「人にどう思われるかを気にする感覚など、もうとっくに忘れてしまった。ひと一人殺せば、その者の人生を背負うのだと、むかし父に言われた。この体は無数の屍でできているのだと」

 あまりに壮絶な言葉に、シャーロットはキュッと眉を寄せる。

「その屍も五十ぐらいまでは数えていた。けれどそこから先はすべて等しい存在となった。いくつもの死がこの身にのしかかっているのではない。死は等しく毎日の生活の側にあり、私はそこに人を放り込むだけだ。……人から死神と言われるのも間違いではない」

「…………」

 自分では決して体験しない世界に、シャーロットは何も言えない。

 夫が傷ついているのなら、慰めるのが妻の役目だと思う。けれどギルバートは自分が傷ついているのかを、もう麻痺して気付けていない。

 そう思うたびにシャーロットの胸はズキズキと痛むのだが、ギルバート自身が自分を哀れだと思っていない。だから彼を「可哀想」と思うことさえ許されないのだ。

「……わたしに、何かできますか? ギルさまを癒やして差し上げるために、何かできることはありますか?」

 泣き笑いの表情で問うシャーロットを見て、ギルバートは自分の存在や生き方が彼女を傷つけていると感じた。けれど、今さら過去は変えようがないし、この心のあり方も急には変えられない。

「……私は初めて君を見て、人に対して興味を持ち、好きだと思った。大切にしようと思った。多くの人間を屠った男が今さら愛を欲するなど厚顔無恥かもしれないが、それでも私は君に笑っていてほしい。安全な場所にいて、私だけを見て幸せそうにしていてほしい。……それだけが願いだ」

「……はい」

 その願いは言葉通りにも聞こえたし、暗に「頼むから危ないことに巻き込まれるな」と言っているようにも思えた。

「……つけ加えるのなら」
「はい、なんでもします」

 喜び勇んでシャーロットはギルバートを見つめる。

 まるでその姿は忠犬だ。今にも白いお尻からフサフサの尻尾が生えて、勢いよく左右に振りそうな雰囲気がある。

 目がキラキラとしていて、ギルバートの言うことなら何でもきく。

 そんな様子にギルバートは静かに笑い、優しくシャーロットの頭を撫でた。

「私を愛してくれ。両親の愛情もろくに覚えていないこの男を、どうか聖母のごとき慈愛でもって包み込んでくれ」

「……はい!」

 それが自分にできることなら――。

 そう思ったシャーロットは、ギルバートの頬を包みそっと彼にキスをした。
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