時戻りのカノン

臣桜

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でも、何もなかった

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「『花音の事が好きだから、付き合っています。見守っていてください』って」

「……もぉ……」

 まさか梨理に対してそんな事を伝えると思わず、花音は照れる。

「俺はとても真剣に気持ちを込めて弾いたよ。……でも、何もなかった」

 告白の話はさておき、花音は頷く。

「……私は、弾くのが怖いです。……〝今〟に不満はないから、もし弾いてどこかに跳んでしまう事があったら……怖い」

「分かるよ。だからここで花音に『弾いてみて』とは言わない」

 秀真はえんじ色のキーカバーを鍵盤の上に置き、静かにピアノの蓋を閉める。

「昔はここで心霊的な体験もしたんだっけ?」

 以前に宮の森の彼の家で話していた時、洋子や梨理にまつわる事はあらかた話した。

 だから秀真も花音の不思議体験を分かってくれている。

「そうなんです。小さい頃にこの部屋で練習していたら、誰かがいる気配や、笑い声、歌声も聞こえた気がしました。不思議と当時は『怖い』と思わなくて、〝何か〟が私のピアノを一緒に楽しんでくれているのが嬉しかったです」

 花音は小さなソファに腰掛け、昔を思い出す。

 秀真ももう一度ピアノの椅子に座り、話を聞いてくれた。

「他の子も〝オバケ〟の気配を感じたと言って中には『怖い』という子もいましたが、悪さはしなかったと思います。事実、この家に住んでいる祖母にも何も悪い事は起こっていません」

 秀真は頷く。

「だからこそ……、〝今〟のこれは何なのかな……って」

 花音は小さく息をつき、「分かんないや」と困ったように笑った。

「〝未知〟についてどれだけ考えても、解決はしないよな。第三者的に見ると、今後花音が幸せに生きられて、洋子さんも体調を悪くしないのなら、すべて忘れてこのまま生きてもいいと思うんだ」

「……そうですね」

 あれこれ考えても、現状の何かが大きく変わる事はないだろう。

〝タイムリミット〟があり、元の世界に戻るというのも考えにくい。

「都合良く、後悔していた花音に梨理さんが『やり直しさせてあげたい』と考えた……と思ってみないか? 花音は洋子さんを救えたし、あとは普通に生きればいい」

「そう思いたいです。……梨理さんにお礼は、何かできないでしょうか?」

 尋ねられ、秀真は黒いアップライトピアノを見た。

「お墓参りとか、ちょくちょく洋子さんに顔を見せるとか、……そういう事でいいんじゃないかな? 実に基本的な事だけど」

「ですね」

 見つめ合って笑い合い、二人はこれから来る生徒のために練習室Cをあとにする事にした。

 一度二階のリビングまで戻ると、洋子と安野に挨拶をする。

 それからハイヤーを呼んで、宮の森の家に向かった。




「花音の恋愛歴について聞いていい?」

 宮の森の家で秀真が淹れた美味しいコーヒーを飲んでいた時、彼がそんな事を尋ねてきた。

  花音はとっさに、口の中にあったカフェオレを噴いてしまうところだった。

「ど……っ、どうして、いきなり……っ」

「いや、だって……。気になるだろ?」

 彼は照れくさそうに笑い、それでも花音への興味を隠さない。

「……そんな……。本当にお付き合いって言えるものはほぼ経験していないんです。告白された事はあっても子供でしたし、知らない人からだと怖かったです。あとは音楽、音楽で……」

「……確かに、大事な時期だったもんな」

 そう言うものの、秀真はどこか嬉しそうな顔をしているので、花音は内心むくれる。

「社会人になってから一人だけ付き合った事があります。合コンで出会いました。優しくて話しやすい人でしたが、……決定的に『合わない』って思った事があって」

「……というと?」

 秀真に尋ねられ、花音は息をついた。

「私が音楽を避けていたからか、彼は私の事をクラシック嫌いと思ったみたいです。それで目の前で延々とクラシックを馬鹿にされて……。私がショパンコンクールに出た事のある元音大生だって言っていなかったのはこちらに非があります。避けていたのも事実ですが、あそこまで悪く言われると腹が立ってしまって……」

 愚痴っぽく言ったあと、花音は長い溜め息をつく。

「っはは……! 花音らしいな」

 ひとしきり笑ったあと、秀真は花音の手を握ってくる。

「何はともあれ、花音みたいに素敵な女性がフリーで良かった」

「……え、と」

 大きく温かな手に包まれて、鼓動がどんどん速まっていく。

「……キスをしていいかな?」

 尋ねられ、花音は言葉では何も言えず、真っ赤になったまま一つ頷いた。
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