時戻りのカノン

臣桜

文字の大きさ
上 下
29 / 71

華麗なる大円舞曲

しおりを挟む
「ピアノの椅子の調節、慣れてますね」

「ああ。これでも昔少し弾いていたんだ。祖父母がアレだろ? だからピアノにヴァイオリンに……って子供の頃は習い事が多かった」

「今は弾いてないんですか?」

「そうだな。実家に戻ると立派なピアノがあるんだけど、今ではほぼ置物みたいになっている。たまに祖父母の道楽で演奏家を呼んで、弾いてもらう事はあるみたいだけど」

「凄いですね……」

 秀真の家がどれだけの資産家か分からないが、一般家庭ではプロを呼んで自宅のピアノを弾いてもらうなどしないだろう。

 秀真は白鍵に指を置き、ポーンと鳴らしてみる。

 澄んだ音は、オーケストラのチューニングにも使われる音程だ。

「っ…………」

 秀真が何の躊躇いもなくピアノの鍵盤を押したので、花音は思わずビクッとして彼の腕に縋り付いていた。

 不安げな顔をする花音の行動に秀真は一瞬驚いたものの、「大丈夫だよ」と笑った。

「ここでは他の生徒さんもピアノを弾いている。何も関係ない俺が奏でても、梨理さんは何も反応しないよ。それに、花音が時を超えた時から、この練習室では色んな生徒さんがピアノを弾いていたはずだろ?」

 そう言って秀真は黒鍵――シのフラットに指を置き、ショパンの『華麗なる大円舞曲』を弾き始めた。

 練習室内に軽やかなワルツ音楽が流れ、黒鍵と白鍵の上で秀真の大きな手がまるで踊るように動いてゆく。

 この曲特有の、同じ鍵盤の上で違う指を使って連打する奏法もしっかりと弾け、楽譜通りだと単調になりがちな曲の中に、上手く自分の味を出している。

 ――好きだな。

 秀真の演奏を聴いたのはこれが初めてだが、直感でそう思った。

 彼を男性として好きだと思う気持ちに、ピアノ奏者としての部分も加算され、もっと秀真が好きになる。
 音色を聴いていると、まるで彼の人柄が表れているようだ。

 音の一つ一つを丁寧に弾き、けれど曲そのものは軽やかできらきらしく、華がある。

 けれど歌わせるところはしっとりと歌い、絶妙な溜めと引きとで花音を夢中にさせた。

 約六分近くの演奏が終わったあと、花音は夢中になって秀真に拍手を送った。

「凄い! ずっと弾いていないって言っていたのに、暗譜してこれだけ完璧に弾けるなんて凄いです!」

 掌が痛くなるほど拍手する花音を、秀真が照れくさそうに見る。

「ありがとう。でもこれは子供の頃に発表会用に死ぬほど練習したやつだから、体が覚えているだけなんだ」

「それでもブランクがあるのに弾けるのは凄いですよ」

「ありがとう」

 一通りはしゃいでから、花音はハッと気付いた。

「……私、具合悪くなってない」

 コンクールの事故から、クラシック、特にピアノ曲だけはずっと聴かないように心がけていた。

 クラシックは色んな場所で使いやすいので、どうしても街中にいる時やテレビなどで耳にしてしまう事がある。

 街中ではヘッドフォンをして歩いていて、家ではすぐにチャンネルを変えた。
 以前は頻繁に行っていたクラシックの演奏会にも行っていないし、毎日音が溢れていた音大にも身を置いていない。

 守られた環境で、クラシックを聴かない生活に慣れていたはずなのに、うっかり秀真の演奏を聴いてしまった。

「……大丈夫だった?」

 彼も花音から話しを聴いていて分かってはいたのだろう。

 けれど、好意を寄せている自分が演奏するのなら……と思って、一か八かで演奏してみたのもあるのかもしれない。

 微笑んで尋ねてくるその顔からは、多少の申し訳なさと、「大丈夫だろう?」という確認が窺われた。

「……だい、……じょうぶだった。秀真さんの演奏が素晴らしくて、スッと頭に入ってきたの。過去にあった事故やコンクールに出られなかった苦しみを思い出すより、『私の好きな人はこんな素晴らしい音色を生み出せるんだ』っていう喜びの方が強かった」

「『好きな人』って言ってくれた」

 彼が嬉しそうに笑い、花音は「あっ」と赤面する。

「荒療治をしてごめん。……でも、花音はせっかく音楽に愛されて生まれたんだから、勿体ないよ。もっと世界に心を開いて」

 その言葉が、ストンと心に落ちた。

(そうか、私ずっと世界に対して心を閉ざしていたんだ)

 ヘッドフォンを被り、音を遮断して、家族すらも顔を合わさないように、言葉を躱さないようにしていた。

 思えばこのピアノを弾いて時戻りをして、祖母と和解し秀真と出会ってから様々な事が好転してきたように思える。

 まるで、梨理の祝福だ。

 花音を見て微笑んでから、秀真はトン、とピアノの譜面台に触れた。

「この通り、俺が気持ちを込めて弾いても、何ともなかった」

「気持ちを込めて……。何か梨理さんに伝えていたんですか?」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

隠れオタクの女子社員は若社長に溺愛される

永久保セツナ
恋愛
【最終話まで毎日20時更新】 「少女趣味」ならぬ「少年趣味」(プラモデルやカードゲームなど男性的な趣味)を隠して暮らしていた女子社員・能登原こずえは、ある日勤めている会社のイケメン若社長・藤井スバルに趣味がバレてしまう。 しかしそこから二人は意気投合し、やがて恋愛関係に発展する――? 肝心のターゲット層である女性に理解できるか分からない異色の女性向け恋愛小説!

偽装夫婦

詩織
恋愛
付き合って5年になる彼は後輩に横取りされた。 会社も一緒だし行く気がない。 けど、横取りされたからって会社辞めるってアホすぎません?

【完結】もう一度やり直したいんです〜すれ違い契約夫婦は異国で再スタートする〜

四片霞彩
恋愛
「貴女の残りの命を私に下さい。貴女の命を有益に使います」 度重なる上司からのパワーハラスメントに耐え切れなくなった日向小春(ひなたこはる)が橋の上から身投げしようとした時、止めてくれたのは弁護士の若佐楓(わかさかえで)だった。 事情を知った楓に会社を訴えるように勧められるが、裁判費用が無い事を理由に小春は裁判を断り、再び身を投げようとする。 しかし追いかけてきた楓に再度止められると、裁判を無償で引き受ける条件として、契約結婚を提案されたのだった。 楓は所属している事務所の所長から、孫娘との結婚を勧められて困っており、 それを断る為にも、一時的に結婚してくれる相手が必要であった。 その代わり、もし小春が相手役を引き受けてくれるなら、裁判に必要な費用を貰わずに、無償で引き受けるとも。 ただ死ぬくらいなら、最後くらい、誰かの役に立ってから死のうと考えた小春は、楓と契約結婚をする事になったのだった。 その後、楓の結婚は回避するが、小春が会社を訴えた裁判は敗訴し、退職を余儀なくされた。 敗訴した事をきっかけに、裁判を引き受けてくれた楓との仲がすれ違うようになり、やがて国際弁護士になる為、楓は一人でニューヨークに旅立ったのだった。 それから、3年が経ったある日。 日本にいた小春の元に、突然楓から離婚届が送られてくる。 「私は若佐先生の事を何も知らない」 このまま離婚していいのか悩んだ小春は、荷物をまとめると、ニューヨーク行きの飛行機に乗る。 目的を果たした後も、契約結婚を解消しなかった楓の真意を知る為にもーー。 ❄︎ ※他サイトにも掲載しています。

【完結】育てた後輩を送り出したらハイスペになって戻ってきました

藤浪保
恋愛
大手IT会社に勤める早苗は会社の歓迎会でかつての後輩の桜木と再会した。酔っ払った桜木を家に送った早苗は押し倒され、キスに翻弄されてそのまま関係を持ってしまう。 次の朝目覚めた早苗は前夜の記憶をなくし、関係を持った事しか覚えていなかった。

白い初夜

NIWA
恋愛
ある日、子爵令嬢のアリシアは婚約者であるファレン・セレ・キルシュタイン伯爵令息から『白い結婚』を告げられてしまう。 しかし話を聞いてみればどうやら話が込み入っているようで──

私にモテ期とか冗談でしょ? アラサーオタ喪女に突然の逆ハーレム

ブラックウォーター
恋愛
アラサー、独身、彼氏なし、趣味サブカル全般。 28歳の会社員、秋島瞳は単調な毎日を過ごしていた。 休日はDVDやネット動画を観て過ごす。 食事は外食かズボラ飯。 昨日までは…。 同期でやり手の上司、克己。 エリートで期待のルーキー、勇人。 会社創業者一族で貴公子、龍太郎。 イケメンたちになぜか付き合ってくれと言われて…。 なんの冗談?私にモテ期っておかしいって!

エリート警察官の溺愛は甘く切ない

日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。 両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

処理中です...