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ノア
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王都の城壁の中にあるとはいえ、外れの方にあるクレハの家はごくごく質素だ。
「太陽の街並み」と呼ばれる白壁にオレンジの屋根という姿を守っていても、その家屋は本当に小さい。
「お母さん……! ただいま!」
ノッカーでドアを叩き帰宅を知らせても、母がいつものように出迎えることはなかった。
「……あれ?」
不思議に思い、傘を差して俯いていた姿勢を正すと、窓からの明かりも見えない。
「おかしいわね。まだレース編みの仕事が終わってないのかしら」
そう呟きながら、クレハは家の前にある花の鉢植えの下から鍵を取り出し、自分でドアを開けて青年ともども、ようやく帰宅することができた。
「あーっ、重たい……! 腰が痛い……!」
悲鳴のような文句をいいながら、クレハは背後から倒れるようにソファに青年を寝かした。
そのまま、青年の上に寝転がるような姿勢で天井を見上げ、一つ大きな息をつく。
「まず濡れた服をどうにかしないと」
それから気持ちを切り替える。
まずは自分の服を着替えてから、青年の服をためらいなく脱がせてゆく。
大学の授業ではあらゆることを学んでいて、医学の勉強では男性の胸板を見ることも珍しくない。
「あら、けっこう筋肉のつきがいいのね」
ジャケットを脱がせて形が崩れないようにハンガーに掛け、シャツとズボン、靴下も遠慮なく脱がせて干しておく。さすがに下着はやめておいた。
乾いた布で青年の顔や髪を拭き、あとは自分の寝室から持ってきた布団を被せて暖炉の火をつける。
「こぶは……。あら、できているわ」
ふと、頭を強く打って脳出血になる可能性もあると思いだしたが、たしかそれはすぐに症状が出るものではない。
「目が覚めたら、彼自身に治療師ヒーラーのところへ行ってもらうしかないわね」
そう呟き、今は患部を冷やすだけにとどめる。
青年の体を横向きにし、その後頭部に濡らした布を当てた。
「いま、温かいスープを作ってあげるわ」
それから、クレハは台所に立って野菜を刻み始めた。
雨は相変わらず容赦なく屋根や窓を打ち、時折り空がまばゆく光ったあとに轟音がする。
「できることなら、雷の研究もしてみたいわ。神話時代の神の槍と言われた閃光が、どんな熱量と破壊力を持っているかは、興味があるもの」
ブツブツと言いながら手際よく料理を作っている間、赤髪の青年は真っ暗になっていた意識の淵からゆっくりと目を覚ました。
ボーッとした意識のなか、頭がガンガンと痛い。けれど、知らない女性の鼻歌がやけに心地よく聞こえる。
トントンと野菜を切る音がして、クツクツと沸騰している音も聞こえる。
「……おかあさま……」
ぼんやりとしたまま母を求めると、野菜を切る音が途切れて、少し冷たい手が額に当てられた。
「目が覚めた? まだ頭は痛む?」
薄く目を開いた中に見えたのは、吸い込まれそうに真っ黒な目。綺麗な形の大きな目を縁取る睫毛も黒くて長い。今まで見たことのない綺麗な目だと思った。
「……誰だ?」
「私はクレハよ。後輩くん。あなた、路地裏でケンカしていたでしょう。あの子たち、卑怯にも背後から武器を持ってあなたを殴ったのよ。まぁ、後ろからなら覚えていないわよね」
女性――クレハの説明に、青年は自分がしていたことを思い出す。
「ここは私の家。もうそろそろ母さんも戻ってくると思うから、ゆっくりしていて。口に合わないかもしれないけれど、温かいスープもいま作っているから」
「……ありがとう。僕はノア。王立学校の……」
そこまで言って、ノアは言葉を途切れさせた。
起き上がろうとして、自分がほぼ何も着ていないことに気付いたからだ。ギョッとして周りを見ると、質素なつくりの家の中にちゃんと自分の服が干されてある。
「……君が脱がせたのか?」
「あぁ、ごめんなさいね。濡れたままで風邪をひいても困るから。私の父はね、仕事の途中で冬の川に落ちて風邪をこじらせて死んだわ。風邪をなめたらいけないの」
台所でテキパキと手を動かしながら、クレハは自分の父が死んだということをサラッとノアに伝える。
「ここには、母君と二人で?」
「そうよ。母さんはレース編みギルドに入っていて、商品を売ることもあるけれど、結構な作り手でもあるの。いつもならこれぐらいの時間には帰っているんだけれど、おかしいわね」
「君は? クレハ。君は何をしている人?」
自分に興味を示していると知ったクレハは、そこで初めてノアを振り向いて返事をする。
「私は王立大学の二年生よ。将来は立派な職について、母さんに楽をさせてあげるの」
長い黒髪を一本の三つ編みにし、その髪と目の色はあまり見ない色だったが、実に美しい女性だと思った。
飾り気のない街娘スタイルの服装でも、彼女の美貌は浮き上がるほどに主張してくる。
主張すると言えば、彼女の胸元を押し上げてパンパンにしている胸元のボリュームにも、ノアは自然と目がいってしまった。
彼が知っている上流階級の女性なら、コルセットで腰を締めて胸を強調しているが、クレハはそんなことをする必要がないほどに胸がある。
彼の視線も知らず、クレハはまた鍋に向かってしまう。
「スープを飲んで、雨がやんだら帰るといいわ。恥ずかしいけれど、私の傘は穴が開いてしまっているけど、使うならどうぞ」
木の匙でトマトベースのスープをかき混ぜながら、クレハもノアのことをずいぶん綺麗な顔の青年だと思っていた。
明かりに照らされて輪郭が金色に光る髪は綺麗な赤毛。今まで閉じていて何色か分からない瞳の色は、高貴な猫のような琥珀色だった。
中性的と言ってしまってもいいぐらいに綺麗な顔をしているが、クレハは彼がしっかりと鍛錬を積んだ体をしているのを知っている。
「父さんのでいいのなら、着替えのシャツとズボンを持ってくるわ。食事をするのに裸のままでいられないでしょ」
釜戸から鍋を下ろし、その残り火にはフライパンの上に厚く切ったベーコンを乗せて焼く。
その間、クレハは階段をのぼって二階へ行き、すぐに戻ってきた。
「はい、どうぞ。私は後ろを向いているから」
「ありがとう、クレハ」
床の上に裸足の足を下ろし、ノアはソファに掛けられた衣服に袖を通す。
クレハの家は質素だが、毛皮類だけはたっぷりとあって、彼が今まで座っていたソファにも毛皮が敷いてあったのでとても温かだった。
「君の父君は、猟師か何かだった? 随分、毛皮があると思って」
「あら、目のつけどころがいいのね。その通りよ。インキュバスだけれど名うての猟師だったの。山男みたいに体つきがよくて、豪快な人だったわ。母さんも何かある度に『いい男だ』って言って、本当に仲のいい夫婦だったの」
「ふぅん……」
昔を懐かしむ顔をしているクレハを、ノアはなんとも言えずに見守る。
彼女はスープを木の器に盛って、小さなテーブルの上に運んだ。
釜戸のもう一つの穴に乗せておいたフライパンでは余熱でパンを温めている。
それを手に取って「あちちっ」と小さく悲鳴をあげながら、クレハは自分とノアの分をバスケットに置いた。
「太陽の街並み」と呼ばれる白壁にオレンジの屋根という姿を守っていても、その家屋は本当に小さい。
「お母さん……! ただいま!」
ノッカーでドアを叩き帰宅を知らせても、母がいつものように出迎えることはなかった。
「……あれ?」
不思議に思い、傘を差して俯いていた姿勢を正すと、窓からの明かりも見えない。
「おかしいわね。まだレース編みの仕事が終わってないのかしら」
そう呟きながら、クレハは家の前にある花の鉢植えの下から鍵を取り出し、自分でドアを開けて青年ともども、ようやく帰宅することができた。
「あーっ、重たい……! 腰が痛い……!」
悲鳴のような文句をいいながら、クレハは背後から倒れるようにソファに青年を寝かした。
そのまま、青年の上に寝転がるような姿勢で天井を見上げ、一つ大きな息をつく。
「まず濡れた服をどうにかしないと」
それから気持ちを切り替える。
まずは自分の服を着替えてから、青年の服をためらいなく脱がせてゆく。
大学の授業ではあらゆることを学んでいて、医学の勉強では男性の胸板を見ることも珍しくない。
「あら、けっこう筋肉のつきがいいのね」
ジャケットを脱がせて形が崩れないようにハンガーに掛け、シャツとズボン、靴下も遠慮なく脱がせて干しておく。さすがに下着はやめておいた。
乾いた布で青年の顔や髪を拭き、あとは自分の寝室から持ってきた布団を被せて暖炉の火をつける。
「こぶは……。あら、できているわ」
ふと、頭を強く打って脳出血になる可能性もあると思いだしたが、たしかそれはすぐに症状が出るものではない。
「目が覚めたら、彼自身に治療師ヒーラーのところへ行ってもらうしかないわね」
そう呟き、今は患部を冷やすだけにとどめる。
青年の体を横向きにし、その後頭部に濡らした布を当てた。
「いま、温かいスープを作ってあげるわ」
それから、クレハは台所に立って野菜を刻み始めた。
雨は相変わらず容赦なく屋根や窓を打ち、時折り空がまばゆく光ったあとに轟音がする。
「できることなら、雷の研究もしてみたいわ。神話時代の神の槍と言われた閃光が、どんな熱量と破壊力を持っているかは、興味があるもの」
ブツブツと言いながら手際よく料理を作っている間、赤髪の青年は真っ暗になっていた意識の淵からゆっくりと目を覚ました。
ボーッとした意識のなか、頭がガンガンと痛い。けれど、知らない女性の鼻歌がやけに心地よく聞こえる。
トントンと野菜を切る音がして、クツクツと沸騰している音も聞こえる。
「……おかあさま……」
ぼんやりとしたまま母を求めると、野菜を切る音が途切れて、少し冷たい手が額に当てられた。
「目が覚めた? まだ頭は痛む?」
薄く目を開いた中に見えたのは、吸い込まれそうに真っ黒な目。綺麗な形の大きな目を縁取る睫毛も黒くて長い。今まで見たことのない綺麗な目だと思った。
「……誰だ?」
「私はクレハよ。後輩くん。あなた、路地裏でケンカしていたでしょう。あの子たち、卑怯にも背後から武器を持ってあなたを殴ったのよ。まぁ、後ろからなら覚えていないわよね」
女性――クレハの説明に、青年は自分がしていたことを思い出す。
「ここは私の家。もうそろそろ母さんも戻ってくると思うから、ゆっくりしていて。口に合わないかもしれないけれど、温かいスープもいま作っているから」
「……ありがとう。僕はノア。王立学校の……」
そこまで言って、ノアは言葉を途切れさせた。
起き上がろうとして、自分がほぼ何も着ていないことに気付いたからだ。ギョッとして周りを見ると、質素なつくりの家の中にちゃんと自分の服が干されてある。
「……君が脱がせたのか?」
「あぁ、ごめんなさいね。濡れたままで風邪をひいても困るから。私の父はね、仕事の途中で冬の川に落ちて風邪をこじらせて死んだわ。風邪をなめたらいけないの」
台所でテキパキと手を動かしながら、クレハは自分の父が死んだということをサラッとノアに伝える。
「ここには、母君と二人で?」
「そうよ。母さんはレース編みギルドに入っていて、商品を売ることもあるけれど、結構な作り手でもあるの。いつもならこれぐらいの時間には帰っているんだけれど、おかしいわね」
「君は? クレハ。君は何をしている人?」
自分に興味を示していると知ったクレハは、そこで初めてノアを振り向いて返事をする。
「私は王立大学の二年生よ。将来は立派な職について、母さんに楽をさせてあげるの」
長い黒髪を一本の三つ編みにし、その髪と目の色はあまり見ない色だったが、実に美しい女性だと思った。
飾り気のない街娘スタイルの服装でも、彼女の美貌は浮き上がるほどに主張してくる。
主張すると言えば、彼女の胸元を押し上げてパンパンにしている胸元のボリュームにも、ノアは自然と目がいってしまった。
彼が知っている上流階級の女性なら、コルセットで腰を締めて胸を強調しているが、クレハはそんなことをする必要がないほどに胸がある。
彼の視線も知らず、クレハはまた鍋に向かってしまう。
「スープを飲んで、雨がやんだら帰るといいわ。恥ずかしいけれど、私の傘は穴が開いてしまっているけど、使うならどうぞ」
木の匙でトマトベースのスープをかき混ぜながら、クレハもノアのことをずいぶん綺麗な顔の青年だと思っていた。
明かりに照らされて輪郭が金色に光る髪は綺麗な赤毛。今まで閉じていて何色か分からない瞳の色は、高貴な猫のような琥珀色だった。
中性的と言ってしまってもいいぐらいに綺麗な顔をしているが、クレハは彼がしっかりと鍛錬を積んだ体をしているのを知っている。
「父さんのでいいのなら、着替えのシャツとズボンを持ってくるわ。食事をするのに裸のままでいられないでしょ」
釜戸から鍋を下ろし、その残り火にはフライパンの上に厚く切ったベーコンを乗せて焼く。
その間、クレハは階段をのぼって二階へ行き、すぐに戻ってきた。
「はい、どうぞ。私は後ろを向いているから」
「ありがとう、クレハ」
床の上に裸足の足を下ろし、ノアはソファに掛けられた衣服に袖を通す。
クレハの家は質素だが、毛皮類だけはたっぷりとあって、彼が今まで座っていたソファにも毛皮が敷いてあったのでとても温かだった。
「君の父君は、猟師か何かだった? 随分、毛皮があると思って」
「あら、目のつけどころがいいのね。その通りよ。インキュバスだけれど名うての猟師だったの。山男みたいに体つきがよくて、豪快な人だったわ。母さんも何かある度に『いい男だ』って言って、本当に仲のいい夫婦だったの」
「ふぅん……」
昔を懐かしむ顔をしているクレハを、ノアはなんとも言えずに見守る。
彼女はスープを木の器に盛って、小さなテーブルの上に運んだ。
釜戸のもう一つの穴に乗せておいたフライパンでは余熱でパンを温めている。
それを手に取って「あちちっ」と小さく悲鳴をあげながら、クレハは自分とノアの分をバスケットに置いた。
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