【R-18】八年執着されましたが、幸せです

臣桜

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帰国、父の死

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「……っは……」

 顔を離し、興奮した目で自分を見つめるのは雇用主だ。

 彼は自身の唇を舐め、ブランド物のネクタイの結び目に指を掛ける。
 オーダーメイドのスーツのジャケットを脱いでソファの背に掛けると、ワイシャツにベストが現れる。

「『お帰りなさい』は言ってくれないのか?」

「おっ……、お帰り、…………なさい」

 芳乃はTシャツにスキニーという、とてもカジュアルな姿をしていた。
 その上に赤いカフェエプロンをつけ、料理を作っていた途中だった。

 途中でチャイムが鳴り、応対するとこの男性――神楽坂暁人かぐらざかあきとが「ただいま」と言って家に入り込み、そのままソファに押し倒してきたのだ。

「暁人さん、困ります。私、ご飯を作っていた途中だったのに……」

 芳乃は二十八歳だが、暁人はまだ二十五歳だ。

 それなのに芳乃の雇用主であり、この部屋の主。
 そして芳乃は彼のマンションで食事を作っていた。

「今日のメニューは?」

 彼女に言われ、ようやく……という様子で暁人がキッチンを見る。

「こないだ、魚が食べたいって言ってたから、鰈の煮付けを作って、あとはきんぴらごぼうにほうれん草のお浸しです」

「ザ・和食だね。好きだよ」

 ニコッと笑うと、年相応に見えるので思わず「ずるい」と心の中で思ってしまう。

 いつも職場にいる時は、長身で鍛えられた体躯を持ち、洗練された佇まいから年齢よりずっと大人びて見える。

 芳乃はホテルに勤務しているが、同僚や他の部署の女性たちも彼を意識しているのが丸わかりだ。

 そんな彼女たちを見て、芳乃は何とも言えない気持ちになるのだけれど……。

「とにかく、火がついたままですから、イチャイチャは駄目です」

 グッと暁人の肩を押すと、彼が一瞬とても切なげな目をする。

(なんて目をするの……)

 じゃれつくのを拒否されただけではない、もっと大きな感情を否定されたかのような顔だ。

(まるで私の事が好きって言ってるみたい)

 そんな訳はないけど、と心の中で呟き、芳乃は気持ちを切り替えて立ち上がった。

「ご飯の支度はもう終わりますから、着替えてきてください。お風呂の用意もしてありますが、そちらを先に済ませたいのならどうぞ」

 あくまで事務的に伝えると、彼は「分かったよ」と残念そうに言い、立ち上がった。

 リビングダイニングを出て自室に向かう彼を見て、寂しい気持ちになる自分を、「何て身勝手なんだろう」と思う。

 けれど、暁人は絶対に恋をしてはいけない人だ。


 なぜなら彼の左手の薬指には、すでに誰かとの約束の指輪があるのを見てしまったからだ。



**



 二十八歳のクリスマスにNYで大失恋をし、芳乃は年明けに帰国した。

 あれほど憧れていた〝世界一〟とも呼ばれる〝ゴールデン・ターナー〟だったのに、辞めてしまえば意外なほど未練がなかった。

 キラキラとしたマンハッタンも、タイムズスクエアも、もう日常ではなくなった。

 電柱の多い日本に戻り、茨城の実家でぼんやりとしていると、畳の上に寝た背中に根が生えそうなほどのくつろぎを覚えた。

 次の就職先をどうしようか考えながら、春になると友達と一緒に梅を見に、のんびりと筑波山に登ってみたり、水戸まで梅林を見に行った。
 両親も弟も、芳乃が単身渡米する事を心配していたが、同時に応援もしてくれていた。

 けれどやはり、夢半ばに戻って来たとはいえ、大事な家族が帰国して日本に落ち着くと知ると、心から喜んでくれたのだった。

 ラーメンに寿司、うどんに蕎麦と、あちらでは高価な日本食をカジュアルに食べる。
 母の手伝いをして台所に立ち、体に馴染んだ料理を毎日口にした。

 そのようにして日本の良さをしみじみ味わっていたのだが、平穏な日々は長く続かなかった。





 まるで芳乃の帰国を待っていたかのように、父が倒れ、そのまま急な病で亡くなってしまった。

 初夏に、病院で父の最期を看取った。

 夢の続きでも見ているかのような心地で、小さな骨壺に収まった父と再会する。

 沢山泣いた気がするのに、泣き足りない。

 やがて父を想って泣こうとしても、悲しみが底をついたかのように、芳乃の目からは涙が出てこなくなってしまった。
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