4 / 63
帰国、父の死
しおりを挟む
「……っは……」
顔を離し、興奮した目で自分を見つめるのは雇用主だ。
彼は自身の唇を舐め、ブランド物のネクタイの結び目に指を掛ける。
オーダーメイドのスーツのジャケットを脱いでソファの背に掛けると、ワイシャツにベストが現れる。
「『お帰りなさい』は言ってくれないのか?」
「おっ……、お帰り、…………なさい」
芳乃はTシャツにスキニーという、とてもカジュアルな姿をしていた。
その上に赤いカフェエプロンをつけ、料理を作っていた途中だった。
途中でチャイムが鳴り、応対するとこの男性――神楽坂暁人が「ただいま」と言って家に入り込み、そのままソファに押し倒してきたのだ。
「暁人さん、困ります。私、ご飯を作っていた途中だったのに……」
芳乃は二十八歳だが、暁人はまだ二十五歳だ。
それなのに芳乃の雇用主であり、この部屋の主。
そして芳乃は彼のマンションで食事を作っていた。
「今日のメニューは?」
彼女に言われ、ようやく……という様子で暁人がキッチンを見る。
「こないだ、魚が食べたいって言ってたから、鰈の煮付けを作って、あとはきんぴらごぼうにほうれん草のお浸しです」
「ザ・和食だね。好きだよ」
ニコッと笑うと、年相応に見えるので思わず「ずるい」と心の中で思ってしまう。
いつも職場にいる時は、長身で鍛えられた体躯を持ち、洗練された佇まいから年齢よりずっと大人びて見える。
芳乃はホテルに勤務しているが、同僚や他の部署の女性たちも彼を意識しているのが丸わかりだ。
そんな彼女たちを見て、芳乃は何とも言えない気持ちになるのだけれど……。
「とにかく、火がついたままですから、イチャイチャは駄目です」
グッと暁人の肩を押すと、彼が一瞬とても切なげな目をする。
(なんて目をするの……)
じゃれつくのを拒否されただけではない、もっと大きな感情を否定されたかのような顔だ。
(まるで私の事が好きって言ってるみたい)
そんな訳はないけど、と心の中で呟き、芳乃は気持ちを切り替えて立ち上がった。
「ご飯の支度はもう終わりますから、着替えてきてください。お風呂の用意もしてありますが、そちらを先に済ませたいのならどうぞ」
あくまで事務的に伝えると、彼は「分かったよ」と残念そうに言い、立ち上がった。
リビングダイニングを出て自室に向かう彼を見て、寂しい気持ちになる自分を、「何て身勝手なんだろう」と思う。
けれど、暁人は絶対に恋をしてはいけない人だ。
なぜなら彼の左手の薬指には、すでに誰かとの約束の指輪があるのを見てしまったからだ。
**
二十八歳のクリスマスにNYで大失恋をし、芳乃は年明けに帰国した。
あれほど憧れていた〝世界一〟とも呼ばれる〝ゴールデン・ターナー〟だったのに、辞めてしまえば意外なほど未練がなかった。
キラキラとしたマンハッタンも、タイムズスクエアも、もう日常ではなくなった。
電柱の多い日本に戻り、茨城の実家でぼんやりとしていると、畳の上に寝た背中に根が生えそうなほどのくつろぎを覚えた。
次の就職先をどうしようか考えながら、春になると友達と一緒に梅を見に、のんびりと筑波山に登ってみたり、水戸まで梅林を見に行った。
両親も弟も、芳乃が単身渡米する事を心配していたが、同時に応援もしてくれていた。
けれどやはり、夢半ばに戻って来たとはいえ、大事な家族が帰国して日本に落ち着くと知ると、心から喜んでくれたのだった。
ラーメンに寿司、うどんに蕎麦と、あちらでは高価な日本食をカジュアルに食べる。
母の手伝いをして台所に立ち、体に馴染んだ料理を毎日口にした。
そのようにして日本の良さをしみじみ味わっていたのだが、平穏な日々は長く続かなかった。
まるで芳乃の帰国を待っていたかのように、父が倒れ、そのまま急な病で亡くなってしまった。
初夏に、病院で父の最期を看取った。
夢の続きでも見ているかのような心地で、小さな骨壺に収まった父と再会する。
沢山泣いた気がするのに、泣き足りない。
やがて父を想って泣こうとしても、悲しみが底をついたかのように、芳乃の目からは涙が出てこなくなってしまった。
顔を離し、興奮した目で自分を見つめるのは雇用主だ。
彼は自身の唇を舐め、ブランド物のネクタイの結び目に指を掛ける。
オーダーメイドのスーツのジャケットを脱いでソファの背に掛けると、ワイシャツにベストが現れる。
「『お帰りなさい』は言ってくれないのか?」
「おっ……、お帰り、…………なさい」
芳乃はTシャツにスキニーという、とてもカジュアルな姿をしていた。
その上に赤いカフェエプロンをつけ、料理を作っていた途中だった。
途中でチャイムが鳴り、応対するとこの男性――神楽坂暁人が「ただいま」と言って家に入り込み、そのままソファに押し倒してきたのだ。
「暁人さん、困ります。私、ご飯を作っていた途中だったのに……」
芳乃は二十八歳だが、暁人はまだ二十五歳だ。
それなのに芳乃の雇用主であり、この部屋の主。
そして芳乃は彼のマンションで食事を作っていた。
「今日のメニューは?」
彼女に言われ、ようやく……という様子で暁人がキッチンを見る。
「こないだ、魚が食べたいって言ってたから、鰈の煮付けを作って、あとはきんぴらごぼうにほうれん草のお浸しです」
「ザ・和食だね。好きだよ」
ニコッと笑うと、年相応に見えるので思わず「ずるい」と心の中で思ってしまう。
いつも職場にいる時は、長身で鍛えられた体躯を持ち、洗練された佇まいから年齢よりずっと大人びて見える。
芳乃はホテルに勤務しているが、同僚や他の部署の女性たちも彼を意識しているのが丸わかりだ。
そんな彼女たちを見て、芳乃は何とも言えない気持ちになるのだけれど……。
「とにかく、火がついたままですから、イチャイチャは駄目です」
グッと暁人の肩を押すと、彼が一瞬とても切なげな目をする。
(なんて目をするの……)
じゃれつくのを拒否されただけではない、もっと大きな感情を否定されたかのような顔だ。
(まるで私の事が好きって言ってるみたい)
そんな訳はないけど、と心の中で呟き、芳乃は気持ちを切り替えて立ち上がった。
「ご飯の支度はもう終わりますから、着替えてきてください。お風呂の用意もしてありますが、そちらを先に済ませたいのならどうぞ」
あくまで事務的に伝えると、彼は「分かったよ」と残念そうに言い、立ち上がった。
リビングダイニングを出て自室に向かう彼を見て、寂しい気持ちになる自分を、「何て身勝手なんだろう」と思う。
けれど、暁人は絶対に恋をしてはいけない人だ。
なぜなら彼の左手の薬指には、すでに誰かとの約束の指輪があるのを見てしまったからだ。
**
二十八歳のクリスマスにNYで大失恋をし、芳乃は年明けに帰国した。
あれほど憧れていた〝世界一〟とも呼ばれる〝ゴールデン・ターナー〟だったのに、辞めてしまえば意外なほど未練がなかった。
キラキラとしたマンハッタンも、タイムズスクエアも、もう日常ではなくなった。
電柱の多い日本に戻り、茨城の実家でぼんやりとしていると、畳の上に寝た背中に根が生えそうなほどのくつろぎを覚えた。
次の就職先をどうしようか考えながら、春になると友達と一緒に梅を見に、のんびりと筑波山に登ってみたり、水戸まで梅林を見に行った。
両親も弟も、芳乃が単身渡米する事を心配していたが、同時に応援もしてくれていた。
けれどやはり、夢半ばに戻って来たとはいえ、大事な家族が帰国して日本に落ち着くと知ると、心から喜んでくれたのだった。
ラーメンに寿司、うどんに蕎麦と、あちらでは高価な日本食をカジュアルに食べる。
母の手伝いをして台所に立ち、体に馴染んだ料理を毎日口にした。
そのようにして日本の良さをしみじみ味わっていたのだが、平穏な日々は長く続かなかった。
まるで芳乃の帰国を待っていたかのように、父が倒れ、そのまま急な病で亡くなってしまった。
初夏に、病院で父の最期を看取った。
夢の続きでも見ているかのような心地で、小さな骨壺に収まった父と再会する。
沢山泣いた気がするのに、泣き足りない。
やがて父を想って泣こうとしても、悲しみが底をついたかのように、芳乃の目からは涙が出てこなくなってしまった。
22
お気に入りに追加
663
あなたにおすすめの小説

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。
だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。
その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

【完結】皇太子の愛人が懐妊した事を、お妃様は結婚式の一週間後に知りました。皇太子様はお妃様を愛するつもりは無いようです。
五月ふう
恋愛
リックストン国皇太子ポール・リックストンの部屋。
「マティア。僕は一生、君を愛するつもりはない。」
今日は結婚式前夜。婚約者のポールの声が部屋に響き渡る。
「そう……。」
マティアは小さく笑みを浮かべ、ゆっくりとソファーに身を預けた。
明日、ポールの花嫁になるはずの彼女の名前はマティア・ドントール。ドントール国第一王女。21歳。
リッカルド国とドントール国の和平のために、マティアはこの国に嫁いできた。ポールとの結婚は政略的なもの。彼らの意志は一切介入していない。
「どんなことがあっても、僕は君を王妃とは認めない。」
ポールはマティアを憎しみを込めた目でマティアを見つめる。美しい黒髪に青い瞳。ドントール国の宝石と評されるマティア。
「私が……ずっと貴方を好きだったと知っても、妻として認めてくれないの……?」
「ちっ……」
ポールは顔をしかめて舌打ちをした。
「……だからどうした。幼いころのくだらない感情に……今更意味はない。」
ポールは険しい顔でマティアを睨みつける。銀色の髪に赤い瞳のポール。マティアにとってポールは大切な初恋の相手。
だが、ポールにはマティアを愛することはできない理由があった。
二人の結婚式が行われた一週間後、マティアは衝撃の事実を知ることになる。
「サラが懐妊したですって‥‥‥!?」

【R18】深層のご令嬢は、婚約破棄して愛しのお兄様に花弁を散らされる
奏音 美都
恋愛
バトワール財閥の令嬢であるクリスティーナは血の繋がらない兄、ウィンストンを密かに慕っていた。だが、貴族院議員であり、ノルウェールズ侯爵家の三男であるコンラッドとの婚姻話が持ち上がり、バトワール財閥、ひいては会社の経営に携わる兄のために、お見合いを受ける覚悟をする。
だが、今目の前では兄のウィンストンに迫られていた。
「ノルウェールズ侯爵の御曹司とのお見合いが決まったって聞いたんだが、本当なのか?」」
どう尋ねる兄の真意は……
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる