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ご主人様

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「英断にございます」

 自身で歩き出したアンバーに対し、老執事はそれ以上彼女に何かを強いる事はなかった。

「旦那様よりお預かりしております。どうぞ」

 老執事はアンバーの肩に毛皮のマントを羽織らせ、やはり毛皮の靴を置く。

「最初の贈り物にございます」

 今まで信じがたい出来事があって忘れかけていたが、やはり薄い絹のストッキング越しに踏む地面は冷たかった。
 冬の終わりという事もあり、アンバーの足の裏はかじかんでジンジンとしている。

「どうも……ありがとうございます……」

 老執事の肩を借りて靴を履けば、不思議な事にサイズがピッタリだった。
 マントの丈もアンバーにあつらえたように思えたけれど、平均的な女性の体つきでもあるので偶然だと思う。

「わたくしはハンスと申します。旦那様にお仕えしております執事にございます」
「……どうもありがとう、ハンス。私はアンバー・グレタ・ドランスフィールド。アルフォード王国の南端にありますドランスフィールド伯爵家の娘です」

「ご丁寧にありがとうございます。旦那様の事やこの土地の事もお教えしたいところでございますが、旦那様につきましては旦那様のお口からお聞きください。またこの裏オークションにつきましては、非公式なものでございますので申し上げる事ができません」
「……ありがとう。ハンスさんのご主人様にお会いして、私が直接お聞きしてみます」

「ご理解をありがとうございます。ではこちらへ。馬車を用意してあります。旦那様とご一緒に城に帰られた後、熱いお湯も用意しておりますので」
「……はい」

 ハンスの対応も貴人に対する丁寧なものだと思えた。

 現状を把握したいと思っても、すべてハンスの言う通りだ。
 使用人は主人の事を気安く口にできない。人身売買をする裏オークションが一般的に知られないのも確かだ。

 この裏オークションを経営している側が絶対悪だとしても、そこに参加して女性を買おうとしている者たちだって同じ穴の狢だ。

 仮に〝ご主人様〟がどこかの貴族だとしても、人を買う目的であの場にいたのは変わりない。事情を話せないのも当たり前だ。

(けれど……。こんな姿をしている私に外套と靴を与えてくれて、屋敷に行ったら身を清めさせてくれるのは……。人の心がある証拠だわ)

 アンバーの記憶の奥には、貧民街の人々の姿がある。ろくに風呂に入る事もできず、着る物も季節を考えずただ体に巻き付けているだけで……。
 何とかしてあげたいと思っても、領主側のケアにも限りがある。

 施していた側のアンバーが、まさか誰かに買われて囲われる立場になるとは――。

 暗い廊下をずっと歩いて行った先、扉がある。ハンスがそれを開くと冷たい風が吹き付けてきた。

「……っ」

 アンバーは思わずギュッとマントを掻き合わせ、少しでも寒さから身を守ろうとする。指に触れた毛皮はとても上質な物で、いつまでも撫でつけていたいと思う手触りだ。
 時刻は夜である事が分かる。しかしここはどこなのかと周囲を見回そうとした時――。

「そのままでは風邪を引くから、中へ」

 目の前に馬車が止まり、御者が馬車のドアを開いた。その奥から低い声がして、こちらに向かって手が差し伸べられる。

 黒い革手袋に包まれた、大きな手。
 まずその手に注視してから、アンバーは馬車の奥に目を向ける。

 そこには黒いマスクに羽根飾りをつけた男性が座っていた。頭にはトップハットを被り、やはり黒い毛皮のマントを羽織っている。服装は分からなかったが、きっといい身なりをしているのだと思う。

(あぁ、私はこの手を取るしかないのだわ)

 差し伸べられた手に手を重ね、アンバーは踏み台に足を掛け馬車に乗った。
 すぐにドアが閉められ、馬車が動き出す。

「寒いだろう。城まで馬車を急がせるから、それまで我慢してほしい」

 マントを掻き合わせ震えているアンバーに、男性――ご主人様は優しい言葉をかけてくれた。

「あの……、私。……アンバーと申します。あなたのお名前は……?」

 おずおずと自己紹介をすれば、男性は僅かに沈黙した。
 やがてゆっくりとマスクを外した彼は、アンバーの目の前で素顔を晒す。

「――――」

 アンバーは静かに息を呑んだ。
 目の前に現れたのは冬の夜空に煌々と光る一等星のような目。
 通った鼻筋に潔癖そうな唇。真っ直ぐな髪の毛は漆黒で、ほんの少し襟に掛かっているほどの長さだ。

「レディに先に名乗らせてしまい、すまなかった。俺は……、ヴォルフ……と名乗っておく。理由があり俺の素性はまだ明かせない」
「まだ、という事はいつかは教えてくださるのですか?」

 正直アンバーは恐ろしいという感情を捨て切れていない。
 紳士的な対応をしてくれたとは言え、このヴォルフなる仮名の男の事を何も知らないのだ。
 なるべく怒らせないようにするのが得策かもしれない。

「……いつか、な。その前に俺は仕事を片付けなければいけない。だからそのあいだ、待っていてほしい」

 マントの上から肩に手を置かれ、アンバーはビクッと体を跳ねさせ後ずさる。
 怯えた目でヴォルフを見れば、どこか傷ついた表情で笑った。

「……買った男に対する警戒は仕方がない。だが俺はお前を傷付ける事はしない。屋根裏や地下のような場所に閉じ込める気もない。お前が実家にいた時のように、相応のドレスやアクセサリーを与え、満足な食事と寝床を約束しよう」
「あ……りがとう、……ございます」

 真面目そうなヴォルフの様子から、きっと冗談ではないのだろう。
 扱いとしてはありがたいが、やはり買われたからには何かしなければならないのでは、と不安は尽きない。

「その……。私は買われたからには……、夜伽など……命じられるのでしょうか?」

 ガタゴトと揺れつつも進む馬車のなか、沈黙が落ちる。
 無言を肯定と取り、アンバーは足元から世界が崩れ落ちる気がした。

「あ……あの、私。まだ嫁入り前なのです。婚約者もいますし、その……」
「俺がお前に求婚をすれば、問題はなくはないか?」

 それまで腕を組み前方を見ていたヴォルフが、ふとアンバーを見た。
 色味の薄い目に見つめられると、やはりドキリとする。

「きゅ、求婚……。ですがヴォルフ様はどこかの良い家柄の方なのでしょう? 買われた女など屋敷に引き込めば、ご家族が良い顔をされません。ヴォルフ様は道楽かもしれませんが、あなたをお慕いしている女性だって……」
「家族はいない。女もいない」

 簡潔ないらえに、アンバーはそれ以上彼に掛ける言葉を見失う。

「俺が当主であり、お前の主人だ。他の使用人も全員、俺の忠実な部下。城での自由は認めるが、外にはしばらく出してやれないと思う」
「……家族と、婚約者が待っています……」

 こんな事を言っても、何の役にも立たないのだろう。
 けれど最後まで足掻こうという気持ちが、アンバーに聞き分けのない言葉を言わせる。

「お前の家族には連絡をしておこう。お前の婚約者にも話をつけておく」
「…………」

 絶対に両親はこの男に歯向かって、自分を助けてくれるはず。
 そう思うが、ヴォルフの自信に満ちた姿や対応を目にすれば、およそこの世に彼の思う通りにいかないものはないのでは? とすら思い始めた。

(いけないわ。雰囲気に呑まれているのよ。抱かれてしまう前に、何か突破口を見つけなければ)

 ギュッとマントの下で両手を組み、アンバーは肩を縮込ませる。

「……寒いのか?」
「え?」

 ふと問いかけられると、まだ何も答えていないのにヴォルフが腕を伸ばしてきた。

「っきゃ……!」

 あっという間に引き寄せられ、逞しい腕の中に閉じ込められた。背中にヴォルフの分厚い胸板を感じ。胸の前に彼の手がまわる。

「っは……離してください!」

 暴れようと試みるも、見た目からがっしりしているヴォルフに力で敵うはずがなかった。

「今はまだ何もしないから、大人しくしていろ」
「今はまだ」

 思わず復唱すれば、背後のヴォルフが気まずく黙る。

 しばらく二人は無言になり、アンバーはヴォルフに大人しく抱き締められていた。
 革手袋や毛皮のマントの匂いもするが、ヴォルフからはほんのりと香水の匂いがした。
 レディたちがプンプンと香らせている類いのものではなく、薄らと鼻を抜けて脳裏に印象づけるようなさりげない香りだ。

「……買った相手にこう言っても現実味がないと思うが、俺はお前だから欲しいと思った。好意的に思っている女を『買う』というのは、人としていけないやり方だと思っている。だがそうでもしなければ、お前はどこかの好色爺に買われてどうなったか分からない。最悪飽きられた後には、どこかの川に浮いていたかもしれない」

 残酷な「もしも」の話をされ、ゾクッと肌が粟立つ。
 不安に駆られ背後のヴォルフを見れば、彼は不器用に笑った。

「……すまない。脅しすぎた。そんな縋るような目で見なくても、俺はお前を捨てたりしない。さっき言った通りちゃんと大切にする。お前さえ頷いてくれれば、結婚したいと思っている」
「…………」

 殺すつもりはないと知って安堵するも、お金で買った男に求婚されアンバーはほとほと困り果てていた。

「今は混乱して、疲れているだろう。何も危害は加えないと約束するから、城に着くまで目を閉じているといい」

 馬車の外はいつの間に天候が崩れたようで、車窓や屋根を大粒の雨が叩いている音がした。時折馬車の車体ごと強風で煽られる感覚すらするが、六頭引きの馬車は素晴らしい速度で夜道を進んでいる。

 まだ冬の気配が去りきっていない大気は、これから訪れる春を前に荒れ狂っている。雷を孕み強風を吹かせ、芽吹こうとする新たな命すら飛ばしてしまいそうだ。

 心細くて堪らず小さく震えるアンバーを、皮肉な事に彼女を買ったヴォルフがしっかりと抱き締めていた。



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