1,500 / 1,508
第二十二部・岐路 編
マティアスさんを頼ってもいい?
しおりを挟む
「シェンゲン協定というものがあって、ヨーロッパ内であれば国境を越える時に検査なしに自由に行き来できる国同士の約束を言う。最初にドイツに入国したとすると、入国手続きはドイツでして、色々回ってイギリスから帰るなら、イギリスで出国手続きをすればOKだ。ただし観光目的なら九十日以内になるから、長くて三か月の新婚旅行だな」
「いやいや、三か月も新婚旅行はいいよ」
麻衣は笑いながらパタパタと手を振るが、マティアスが急に立ち止まったのでつられて足を止めた。
「……な、何?」
彼の顔を覗き込むと、両手で手を握られた。
「いいか、マイ。今は人生九十年と言われている。その中で、俺たちの新婚旅行は長くても、たったの三か月だ」
「そう言われると、短く感じるかもだけど……」
理解すると、マティアスは彼女の目をまっすぐ見て言う。
「マイは自分でも『まじめに勤務してきた』と言っただろう? 有給休暇が一か月近く余るぐらいには、仕事に打ち込んできた」
「うん」
それは本当なので、素直に頷く。
「結婚したあとは、東京での暮らしやChief Everyに入社して、何かと忙しくなると思う。その前に、じっくりと人生の休暇を味わってもいいと思うんだ。子供が生まれたらさらに忙しくなるし、二人の時間を設けるのも難しくなるだろう」
「……確かに」
既婚者の友人は、顔を合わせると『独身時代にもっと遊んでおけば良かった』と言っている。
結婚したあとでも家族で旅行には行けるが、子供が小さいうちは、夫と二人で旅行や、ぶらりと気ままに一人旅は、なかなか難しいのだそうだ。
「仕事を辞めて結婚して、たっぷり三か月自由気ままにヨーロッパ諸国を回り、経験を積むのはいい事だと思うんだ。帰国すれば仕事する日々に戻り、休日にはカスミと遊んで東京での生活を満喫できる。そうしているうちに子供を授かり、忙しくなっていくと思う」
マティアスの言葉を聞いていると、三か月間旅行をするのも悪くないように思えてきた。
「……旅費は大丈夫? いや、こぢんまりとした宿とかでも全然平気だけど」
「心配ないと分かっているだろう?」
逆にキョトンとした顔で尋ねられ、麻衣は「……そうでした……」と彼の資産を失念していたのを知る。
「さっき自分で言っていたように、今まで沢山の我慢をした自分に盛大な褒美をあげるといい。たった一日有給を使って『申し訳ない』と感じる気持ちを、リセットしよう。俺は基本的に、自分が人間として豊かに過ごすための時間を得るのに、周囲に『申し訳ない』という感情は抱かない。人として当たり前の事だからだ。周囲の人もまた、誰かが休んだからといって責める者はいない」
確かに、マティアスの感覚ならそう思うのだろう。
「俺はバカンス時期に店が閉店していても当然だと思っている。日本の店はいつも開店していて便利だが、働いている人々は人間らしく生きられているのだろうか、と心配になってしまう」
彼の言葉を聞いているうちに、今まで自分を縛っていた鎖が、ボロボロと風化して崩れていくのを感じる。
確かに今までずっと『人間関係がつらいけど、仕事だから』『休んだら何か言われるから、多少体調が悪くても我慢しないと』と思っていた。
(我慢するの、当たり前になってたな)
一人カラオケに行ったり、ゲームセンターでパンチングマシーンをぶん殴ったりして、ストレス発散はしていた。
盆休みに正月休み、連休があっても、一日ゆっくり寝たり、香澄と遊んでいるとあっという間に休みが終わってしまった。
「勿論、これは俺の考えだし、日本でドイツの考えを押し通そうとしてもまかり通らないのは分かっている。それにドイツの考え方、環境が良くて日本が悪いという意味でもない。日本は平和だし治安がいいし、飯は美味いし人々は親切でとてもいい国だ。……だが他の国はどうなのか、三か月じっくり知ってみるのもいいと思うんだ。人生は働くだけではない」
「……そうだね。機会を逃したら、次に三か月もゆっくり旅行するなんて、老後になりそう」
冗談めかして言うと、マティアスは優しく微笑み、手を差し伸べてくる。
「その気になったか?」
「……うん、いいんじゃないかな」
ニコッと笑って彼の手を握ると、マティアスが抱き締めてきた。
「わっ……、と……。だから……」
周囲を気にしたけれど、冬場の夜だからか歩いていく人たちの顔はあまりよく見えない。
「幸せになろう。今までできなかった事を、二人で経験していくんだ」
そう言われると、『私がマティアスさんを幸せにする』と言い切った事を思い出す。
「……そうだね」
頷いた麻衣は、そっとマティアスの胸板を押し、彼の目を見つめた。
「私も勿論、東京で一生懸命働くけど、生活していくのにマティアスさんを頼ってもいい? 幸せになるために、思い出を作るために、あなたのお金を当てにしてもいい?」
「勿論だ」
ようやく麻衣が自分を頼る事を受け入れたと知ったマティアスは、嬉しそうに微笑んだ。
「……うん、よし! じゃあお肉食べよう! 美味しいお店行っちゃおう!」
「高い肉をどんどん頼んでくれ」
「冷麺も食べる!」
再び歩き始めた二人は、自然と手を繋いでいた。
**
「いやいや、三か月も新婚旅行はいいよ」
麻衣は笑いながらパタパタと手を振るが、マティアスが急に立ち止まったのでつられて足を止めた。
「……な、何?」
彼の顔を覗き込むと、両手で手を握られた。
「いいか、マイ。今は人生九十年と言われている。その中で、俺たちの新婚旅行は長くても、たったの三か月だ」
「そう言われると、短く感じるかもだけど……」
理解すると、マティアスは彼女の目をまっすぐ見て言う。
「マイは自分でも『まじめに勤務してきた』と言っただろう? 有給休暇が一か月近く余るぐらいには、仕事に打ち込んできた」
「うん」
それは本当なので、素直に頷く。
「結婚したあとは、東京での暮らしやChief Everyに入社して、何かと忙しくなると思う。その前に、じっくりと人生の休暇を味わってもいいと思うんだ。子供が生まれたらさらに忙しくなるし、二人の時間を設けるのも難しくなるだろう」
「……確かに」
既婚者の友人は、顔を合わせると『独身時代にもっと遊んでおけば良かった』と言っている。
結婚したあとでも家族で旅行には行けるが、子供が小さいうちは、夫と二人で旅行や、ぶらりと気ままに一人旅は、なかなか難しいのだそうだ。
「仕事を辞めて結婚して、たっぷり三か月自由気ままにヨーロッパ諸国を回り、経験を積むのはいい事だと思うんだ。帰国すれば仕事する日々に戻り、休日にはカスミと遊んで東京での生活を満喫できる。そうしているうちに子供を授かり、忙しくなっていくと思う」
マティアスの言葉を聞いていると、三か月間旅行をするのも悪くないように思えてきた。
「……旅費は大丈夫? いや、こぢんまりとした宿とかでも全然平気だけど」
「心配ないと分かっているだろう?」
逆にキョトンとした顔で尋ねられ、麻衣は「……そうでした……」と彼の資産を失念していたのを知る。
「さっき自分で言っていたように、今まで沢山の我慢をした自分に盛大な褒美をあげるといい。たった一日有給を使って『申し訳ない』と感じる気持ちを、リセットしよう。俺は基本的に、自分が人間として豊かに過ごすための時間を得るのに、周囲に『申し訳ない』という感情は抱かない。人として当たり前の事だからだ。周囲の人もまた、誰かが休んだからといって責める者はいない」
確かに、マティアスの感覚ならそう思うのだろう。
「俺はバカンス時期に店が閉店していても当然だと思っている。日本の店はいつも開店していて便利だが、働いている人々は人間らしく生きられているのだろうか、と心配になってしまう」
彼の言葉を聞いているうちに、今まで自分を縛っていた鎖が、ボロボロと風化して崩れていくのを感じる。
確かに今までずっと『人間関係がつらいけど、仕事だから』『休んだら何か言われるから、多少体調が悪くても我慢しないと』と思っていた。
(我慢するの、当たり前になってたな)
一人カラオケに行ったり、ゲームセンターでパンチングマシーンをぶん殴ったりして、ストレス発散はしていた。
盆休みに正月休み、連休があっても、一日ゆっくり寝たり、香澄と遊んでいるとあっという間に休みが終わってしまった。
「勿論、これは俺の考えだし、日本でドイツの考えを押し通そうとしてもまかり通らないのは分かっている。それにドイツの考え方、環境が良くて日本が悪いという意味でもない。日本は平和だし治安がいいし、飯は美味いし人々は親切でとてもいい国だ。……だが他の国はどうなのか、三か月じっくり知ってみるのもいいと思うんだ。人生は働くだけではない」
「……そうだね。機会を逃したら、次に三か月もゆっくり旅行するなんて、老後になりそう」
冗談めかして言うと、マティアスは優しく微笑み、手を差し伸べてくる。
「その気になったか?」
「……うん、いいんじゃないかな」
ニコッと笑って彼の手を握ると、マティアスが抱き締めてきた。
「わっ……、と……。だから……」
周囲を気にしたけれど、冬場の夜だからか歩いていく人たちの顔はあまりよく見えない。
「幸せになろう。今までできなかった事を、二人で経験していくんだ」
そう言われると、『私がマティアスさんを幸せにする』と言い切った事を思い出す。
「……そうだね」
頷いた麻衣は、そっとマティアスの胸板を押し、彼の目を見つめた。
「私も勿論、東京で一生懸命働くけど、生活していくのにマティアスさんを頼ってもいい? 幸せになるために、思い出を作るために、あなたのお金を当てにしてもいい?」
「勿論だ」
ようやく麻衣が自分を頼る事を受け入れたと知ったマティアスは、嬉しそうに微笑んだ。
「……うん、よし! じゃあお肉食べよう! 美味しいお店行っちゃおう!」
「高い肉をどんどん頼んでくれ」
「冷麺も食べる!」
再び歩き始めた二人は、自然と手を繋いでいた。
**
応援ありがとうございます!
179
お気に入りに追加
2,461
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる