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第二十二部・岐路 編

私の心は、あなたの愛で満たされている

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「今までお世話になりました! またご縁がありましたら、どうぞ宜しくお願い致します」

 最後の言葉が、こんなビジネス的な言い方になると思わなかった。

 ――それでもいい。この言葉はすべて、心の底からの想いだから。

 言い切ったあと、香澄は佑と松井に向けて再び深くお辞儀をした。

 そして頭を上げると、即行動と言わんばかりに伝える。

「差し支えなければ、今日から行動させていただいても宜しいでしょうか? 昨日のうちに荷物は纏めましたので、すぐこの家から出ていきたいと思います」

 そう提案して佑と松井を見ると、二人とも呆気にとられた顔をしていた。

 佑はあれだけ「自分を思いだして」と言っていた香澄が、こんなにあっさり諦めると思わなかったのか、意外そうな顔をしている。

 松井は――、軽く瞠目したまま固まっていた。

 見開いた目の奥には悲しみと、微かな失望が宿っている。

 いつも私的な感情を表さない彼にしては、珍しい顔だった。

(そんな顔をしないでください、松井さん。何も死ぬ訳じゃないですから)

 香澄は彼に笑いかけ、わざとらしく声を上げた。

「もうこんな時間ですけど、大丈夫ですか?」

 言われて松井はハッとして腕時計を確認し、「社長」と佑を促す。

「……支度してきますね」

 すると佑は自分の腕時計を見てから立ち上がり、洗面所に向かった。

「……赤松さん、いいんですか?」

 松井と二人きりになったあと、彼が静かに尋ねてくる。

「仕方のない事ですし、これ以上一緒にいて佑さんを苦しめたくないんです」

 切なげな表情で笑うと、彼はつらそうに視線を落とした。

「……赤松さんを見ていると、自己犠牲の塊のように感じます」

「そんな事ないですよ。私、結構わがままですから」

 香澄は冗談めかして言ったあと、改めて松井に礼と侘びを言った。

「今までありがとうございました。秘書として働いた事がなくて、最初は足手まといだったと思います。なのに松井さんは嫌な顔一つせず、色々教えてくださいました。松井さんからは、プロとしての生き方を学びました。……それをすべて無駄にする私を、どうかお許しください」

 ペコリと頭を下げると、松井が肩に静かに手を置いてきた。

「赤松さんがとても頑張ってきた事を、私が一番よく分かっています。私はこれからも、公私共にお二人の一番の味方のつもりでいます。もし社長が記憶を取り戻されたあかつきには、すぐお知らせします」

「ありがとうございます」

 香澄は感謝を込めて微笑み、もう一度頭を下げる。

「佑さんがいつ私を思いだすかは、本当に運次第だと思っています。それまで彼の側を離れるのは、お互いのためです。私を愛してくれる佑さんが望むのは、私が幸せで、悲しまず、前を向いて進む事」

 香澄は〝婚約者の佑〟を思い出した。

 いつも側にいて、何があっても香澄を支え、何度でも立ちあがらせてくれた人だ。

 健二と再会して忘れていたトラウマを思い出した時は、電話をしながら歩いて迎えに来てくれた。

 飯山たちに酷い事を言われた時は、自分の事のように怒ってくれた。

 マティアスに犯されたと思い込んで精神的にズタボロになった時も、彼はしっかり抱き締めて側にいてくれた。

 イギリスでも、彼自身、酷く傷付きながら香澄を探し出してくれた。

 フェルナンドに誘拐されても、罠に掛けられても、社長としての責務を果たした上で香澄を助けにきてくれた。

 ――ありがとう。

 ――あなたの優しさと愛があったから、私は歩いていけます。

 ――〝佑さん〟の気持ちが私になくても、私の心には沢山の思い出があるの。

 ――私の心は、あなたの愛で満たされている。

 香澄は一年と少し、大好きな人と一緒に過ごした御劔邸を見回し、微笑んだ。

 泣かないと決めたのに、涙が零れてしまう。

 それをグイッと手で拭い、松井に笑いかけた。

「行ってきます」

「さようなら」は言わない。

 またいつか巡り会い、幸せな道の続きを歩き続けるために、今は一度離れるだけ。

「行ってらっしゃいませ」

 香澄の覚悟を尊重した松井は、微笑むと恭しく頭を下げた。

 ――ここから先は、〝御劔社長の秘書〟を一旦お休みします。

 言いたい事、やり残した事は沢山ある。

 けれど同じ場所に留まっていれば、前に進む事はできない。

 胸の奥に沢山言葉が詰まっていても、言わずに去ったほうがいい時もある。

 香澄はニコッと笑うと、最後にもう一度松井に頭を下げ、踵を返して自室へ向かった。
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