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第二十二部・岐路 編

分かたれた道

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(言ってしまった……)

 香澄は激しく後悔し、別の言い方はなかったのか必死になって考えた。

 だがひっくり返した盆の水は戻らない。

「……君を前にして、いまだ戸惑いを感じている。家族や松井さん、アロクラ、その他の親しい人たちから、『赤松香澄さんは婚約者だ』と聞いて、混乱している。皆、嘘を言う人ではないから事実なんだろう。俺が記憶を取り戻せば、すべて丸く収まるとも分かっている」

 佑は香澄を見ないように、視線を落として続ける。

「いつ思いだすか分からないし、医者だって断言できないだろう。でも君は同じ家で生活し、顔を合わせれば俺の機嫌を窺い、気遣わしげな態度をとる。悲しませていると分かっていても、俺にはどうする事もできない」

「……それは、……理解します」

 香澄は苦しげな声で返事をする。

「君は〝婚約者〟だし、俺の過去をある程度知っているだろう。俺は女性にあまりいい感情を抱いていない。その状態でまったく知らない女性が同じ空間にいて、暮らしている。一緒に過ごした覚えもなく、愛した記憶もない。気遣いたくても方法が分からない。〝普通〟に優しくする事はできるが、君が求めているのは〝その他大勢〟と同じ扱いではないだろう?」

「……ですから、婚約者としては扱わなくていいと……」

 佑に苛立ちを向けられ、香澄は泣きそうになっていた。

「秘書は同じ家に住まない」

 一言でバサッと斬られ、香澄は言葉に詰まる。

「責めている訳じゃない。……どうやら俺が君を札幌から連れ出したらしいしな」

 付け加えられた言葉には、後悔と『なぜ過去の俺はそんな事をしたんだ』とでも言いたげな感情が宿っていた。

「君は俺の婚約者で秘書で、同居している女性。肉体関係もあっただろう。……そんな〝普通〟ではない女性に『自分の事はビジネス相手として見てください』と言われても、そのまま受け取る事もできない」

 耐えきれず、ポロッと涙が零れてしまった。

「っ……、すみま、…………せん」

 香澄は慌てて手で涙を拭い、横を向いてごまかす。

 佑が溜め息をついたのが聞こえ、この場から逃げ出したい気持ちになる。

 彼も腕を組んだまま沈黙し、何かを思案するように黙っていた。

 ――もうやだ。

 絶望を覚えた香澄は、足元がガラガラと崩れ、奈落の底に落ちていく感覚を覚える。

 ――どうしてこうなったの?

 ――佑さんと喧嘩なんてしたくないのに。

 ――ただ、側で支えていたいだけなのに。

 ――それすらも駄目なの?

 泣いたら駄目だと思うのに、涙が次々に零れてくる。

 そんな香澄を見て佑はもう一度溜め息をつき、今度は少し柔らかな声で話しかけてきた。

「こうやって、俺は君を困らせてしまう。今話している俺は、君が覚えている婚約者よりずっと冷たくて嫌な男だろう」

 言われて、香澄はブンブンと首を横に振った。

「仕方がないんです……っ、覚えてないから……っ」

「君の事が憎い訳じゃないし、嫌いでもない。……正直に言えば何とも思っておらず、どう扱えばいいか分からなくて困っている」

「――――…………っ」

 分かっていても、ストレートな言葉にされるとズグンと胸が痛んだ。

「素のままで接すれば君を傷つけてしまう。俺だって女性を泣かせて気まずく思っていない訳じゃない。……こんな事になって、本当に困っているんだ」

 チラリと佑を窺うと、本当に困り果てている表情をしていて、もっと胸が痛くなった。

「……だから、頼む。思いだすまで住居を分けてくれないだろうか? 秘書として働きたいなら、その通りにしていい。だがプライベートな空間で君を見ると、戸惑うし頭痛にも悩まされる。思いだしたら必ず君を迎えに行くと約束する。……だから、……お願いだ」

 絞り出すように言われ、香澄は覚悟を決めた。

 ――佑さんを困らせたくない。

 その想いだけが今の香澄を支配していた。

「……会社では秘書として扱ってくれますか?」

「約束する。仕事に私情は持ち込まない」

 記憶を失う前の佑と同じ台詞を聞き、図らずも香澄は小さく微笑んだ。

「通勤しやすくて、セキュリティのいい、一人暮らしでも十分な広さのある物件を手配しておく」

「……ありがとうございます」

 道は、完全に分かたれてしまった。

 香澄はゆっくり視線を落とし、肩から力を抜く。

 ――戦う事すらできなくなっちゃった。

「……荷物、まとめますね」

 呟くように言ったあと、香澄はフラリと書斎を出た。
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