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第十九部・マティアスと麻衣 編

チェロに嫉妬

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「もー! そういう事言ってたら、セクハラで訴えられるんだからね」

「今のは冗談だけど、お茶関係ならオーマに相談したら、きっと助言をくれるんじゃないかな」

「う……うん……」

 節子の名前を出され、ぷんすか怒っていた香澄はスンッと大人しくなる。

 そして〝約束〟を思いだして溜め息をついた。

「……あぁ、そうだ。ピアノの練習しないと」

「楽しみにしてる。なんなら、見られながら弾く練習をしないか?」

「うー……。わ、笑わない?」

「笑わないよ。緊張するなら、後ろを向いても構わない」

 今までは、拙い演奏を佑に聴かれるのが恥ずかしくて、彼が不在の時にポロポロ弾いていた。

 しかし二月に発表会をすると言ってしまった手前、人前で弾くのに慣れなければいけない。

「じゃあ、少しだけ……」

 お茶を飲んだあと、二人でピアノがある部屋に行く。

 御劔邸にあるのは、〝ピアノのロリアス・ロイス〟の異名を持つ、バーゼンドルフのモデル290インペリアルだ。

 世界最大数の、九十七の鍵盤を持つと言われている。

 追加されている低音の分、演奏に深みが加わると評判だ。

 以前に美鈴から聞いた話では、佑に依頼されて御劔邸で演奏するピアニストは「とても光栄」と言っているようだ。

 音楽室は風通しが良く、湿度を五十パーセント、室温を二十四度に保っている。

 ピアノは広々とした部屋の奥に置かれ、日差しが当たらないようになっていた。

 室内にはソファセットがあり、座って演奏を楽しめるようになっている。

 部屋の壁際には棚があって、ぎっしりと楽譜が詰まっていた。

 楽器庫には他の楽器も保管され、定期的に専門の人が手入れをしているらしい。

 もちろん防音処理は完璧で、近所迷惑にならないよう配慮している。

 香澄はピアノの椅子に座り、蓋を開けた。

 チラッと佑を見ると、ニコニコしてこちらを見ている。

「うぅ……うー……」

 香澄は何となくド、レ、ミ……と指で鍵盤を押し、演奏するのを躊躇う。

「恥ずかしい?」

「佑さんは、プロによる最高の演奏を知ってるもん。お抱えオケだってあるんでしょ?」

 佑は音楽好きで、オーケストラの運営もしていた。

 若手の音楽家を育成するためにコンテストを開き、賞金や留学補助もしている。

 その姿勢には出雲も賛同していて、二人で協賛する事もあるのだとか。

「耳は少し肥えているかもだけど、俺自身、演奏は素人だから安心していいよ。香澄の演奏にケチをつけるつもりはない」

 そう言って佑は楽器庫のドアを開けて、中からチェロを出した。

「えっ? ひ、弾いてくれるの?」

 驚く香澄の前で、佑は椅子をピアノの側まで移動させて座った。

「特別だよ」

 佑はそう言ってから弦や弓の状態を確かめ、音を確認したあと、目を閉じて呼吸を整える。

 そしていつにない穏やかで真剣な表情になると、スッと息を吸い弓を滑らせた。

(あ……)

 最初の一音を聴いて、香澄はすぐに佑が何の曲を弾き始めたのか理解した。

 佑は正確なリズムで弦を動かす。

『無伴奏チェロ組曲 第一番プレリュード』。

 バッハの名曲を聴き、緊張していた気持ちがほぐされていく。

 佑は左手で弦を押さえ、弓を持った右手で細やかに正確に音色を紡いでいく。

 音色は厚みがあり艶やかで、しっかりとした力強さがあった。

(すご……)

 佑の音を聴いて、香澄の背筋にゾアッと鳥肌が立った。

 聴いているのはクラシック音楽という〝きちんとしたもの〟なのに、香澄は発情してしまっていた。

 目を伏せた佑の目元は色っぽい。

 それに自分以外の何かを、こんなに大切そうに扱うのを見た事がなかった。

 佑が手を動かし、チェロが応えて美しく啼く。

 その美しい対話を目にして、香澄は音色に魅せられると同時にチェロに嫉妬すらしていた。

 好きな人が奏でる音楽を聴いて、下着を濡らしているなんて知られたら、何と言われるだろう。

 香澄は顔を真っ赤にして目を潤ませ、チェロを奏でる佑の姿に見入った。

 やがて佑は最後の音を奏で上げ、ふぅ……と息をついて弓を下ろす。

「どうだっ……た……」

 佑は微笑んで香澄のほうを見、言葉を途切れさせた。

 彼は呆けた顔をしている香澄の表情を見て、「仕方がないな」と笑ってチェロをスタンドに置く。
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