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第十九部・マティアスと麻衣 編
マティアスのトラウマ
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「俺は小さい頃からアロクラと一緒にエミリアの相手をしていた。彼女のボディガードになり、エミリアが癇癪を起こした時は罵倒され、殴られ、蹴られ、道具で叩かれた。『氷の入った冷水を被れ』と命令された事もあったし、あいつの前で全裸になった事もあった」
「っ…………。……し、した……の?」
麻衣は最後の一言を聞いて息を呑み、こわごわと尋ねる。
「性行為ならしていない。あいつは俺を犬か馬ぐらいにしか思っていない。あいつは全裸になった俺を鞭で打ち、ペニスを踏んだ。俺は一時、勃起障害にもなった。あの女は勃起できない俺に『目の前で自慰してみろ』と言い、できない俺をあざ笑った」
「っ……。…………っ、――――」
麻衣は興味本位で聞いた事を深く後悔した。
マティアスは今、深く傷付けられた傷を麻衣に見せてくれている。
彼がこんなに深いトラウマを抱いていると知らず、「エミリアという人の事を、もしかして好きだったのかな?」と、くだらない嫉妬心から聞いてしまった。
だが――、違う。
彼は麻衣が考えるような、甘っちょろい世界を生きていなかった。
「俺は復讐するために長い間耐え続けた。そのうち、あいつに何を言われようが『今日も元気に喚いてるな』程度にしか思わなくなった。叩かれても痛みに慣れていった。何かに期待を持っても、あいつがいる限り叶わないと早いうちに理解した。だから未来の事を考えず、ただ目の前の出来事を受け入れる性格になったのだと思う」
今のマティアスを形成する残酷な過去が、淡々と語られる。
「あいつがあそこまで歪んだのは、好きな男に受け入れられないからだ。そう思うと『哀れだな』『ざまみろ』と慰めになった。手には入らない物はない富豪の娘だが、唯一手に入らないものに苦しみ続ければいい。そう思っている俺はロクな男じゃない。今は落ち着いているが、この胸の奥にはマイには見せられないドロドロとした感情が渦巻いている」
「っ、――――、…………っもう、……いい……」
麻衣は震える手で、ソファの上に置かれてあるマティアスの手を握った。
「ごめんなさい……っ。本当に、ごめんなさい。……嫌な事を思い出させたかった訳じゃなかったの。ただ、純粋に二人の関係が気になっただけで……っ」
涙を流し、唇を震わせる麻衣の顔を見て、マティアスは目を細めた。
「マイは優しいな。今まで誰一人として、俺のために泣いてくれる人はいなかった。事情をすべて知っているアロクラも、エミリアの呪縛に掛かっていた。被害者同士で復讐の協力はできても、誰かに慰められたり、同情され、泣かれる事はなかった。祖父も父もメイヤー家のいいなりだったし、母は何も知らないまま入退院を繰り返し、――亡くなってしまった」
そう言ってマティアスは、ギュッと麻衣を抱き締めてくる。
「母は人質だったと言っていい。本当は不治の病だったのに、メイヤー家の担当医が診てくれると言ったのを信じた俺たちが馬鹿だった。俺たちは母が医者の〝治療〟を受け、治ると信じていた。だが母は回復せず、死に至った。別の病院に行けばきちんとした治療が受けられたのに、『担当医を疑う事はメイヤー家を疑う事だ』という洗脳があった。……結局、母を殺したのは無知な俺たちなんだ」
マティアスの体ごしに、彼の淡々とした声が伝わってくる。
こんな過酷な話をしているのに、彼は決して感情の揺れを見せない。
それが酷い仕打ちに耐え続けた結果なのだと思うと、悲しくて、悔しくてやりきれなかった。
「俺は水面下でアドラーさん達とやり取りをし、自由になった時のためにせっせと金を作った。……他は基本的に人に興味を持てなかったな。人を愛する心の余裕もなかった。多分、人を信頼できなかったんだと思う。金だけは俺を裏切らず、努力しただけ数字が増えた。だから金を増やす事に没頭した。釣りやドライブ、キャンプも趣味だが、一緒に楽しむ友人はほぼいなかったな」
言ったあと、マティアスは僅かに笑った。
「だから、カスミのために怒ったマイを見て、『この人は他人のために、ここまで感情的になれるのか』と感動した。マイの事を、情に厚い優しい人だと思った」
「そんな……」
とても凄い人のように言われ、麻衣は緩く首を振る。
そして、小さく溜め息をついた。
香澄から話を聞いた時、顔も知らない〝マティアスという男〟を憎んでいた。
普通なら関わらないはずの人と会う事になり、気持ちの清算のためにビンタで帳消しにすると決めた。
そのあとは「少しでもいいところを見つけられたら、香澄のように許せるかもしれない」と思っていたが、予想以上に関わる事になってしまった。
最初は勝手に、彼の事を「女を道具扱いする男」と思っていた。
なのに蓋を開けてみれば、マティアスは天然ボケで憎めない人だった。
その上女性として興味を持たれて戸惑い、ボーッとしている間にグイグイ迫られて彼のペースに呑まれた。
香澄は何事もなかったかのように応援してくるし、今まで自分が怒っていたのがおかしな事なのかと思い始めた。
結局は、義憤に駆られて目を曇らせていたのだ。
〝香澄の仇〟というフィルターを取れば、彼は気の毒な事情がある哀れな男性だった。
「っ…………。……し、した……の?」
麻衣は最後の一言を聞いて息を呑み、こわごわと尋ねる。
「性行為ならしていない。あいつは俺を犬か馬ぐらいにしか思っていない。あいつは全裸になった俺を鞭で打ち、ペニスを踏んだ。俺は一時、勃起障害にもなった。あの女は勃起できない俺に『目の前で自慰してみろ』と言い、できない俺をあざ笑った」
「っ……。…………っ、――――」
麻衣は興味本位で聞いた事を深く後悔した。
マティアスは今、深く傷付けられた傷を麻衣に見せてくれている。
彼がこんなに深いトラウマを抱いていると知らず、「エミリアという人の事を、もしかして好きだったのかな?」と、くだらない嫉妬心から聞いてしまった。
だが――、違う。
彼は麻衣が考えるような、甘っちょろい世界を生きていなかった。
「俺は復讐するために長い間耐え続けた。そのうち、あいつに何を言われようが『今日も元気に喚いてるな』程度にしか思わなくなった。叩かれても痛みに慣れていった。何かに期待を持っても、あいつがいる限り叶わないと早いうちに理解した。だから未来の事を考えず、ただ目の前の出来事を受け入れる性格になったのだと思う」
今のマティアスを形成する残酷な過去が、淡々と語られる。
「あいつがあそこまで歪んだのは、好きな男に受け入れられないからだ。そう思うと『哀れだな』『ざまみろ』と慰めになった。手には入らない物はない富豪の娘だが、唯一手に入らないものに苦しみ続ければいい。そう思っている俺はロクな男じゃない。今は落ち着いているが、この胸の奥にはマイには見せられないドロドロとした感情が渦巻いている」
「っ、――――、…………っもう、……いい……」
麻衣は震える手で、ソファの上に置かれてあるマティアスの手を握った。
「ごめんなさい……っ。本当に、ごめんなさい。……嫌な事を思い出させたかった訳じゃなかったの。ただ、純粋に二人の関係が気になっただけで……っ」
涙を流し、唇を震わせる麻衣の顔を見て、マティアスは目を細めた。
「マイは優しいな。今まで誰一人として、俺のために泣いてくれる人はいなかった。事情をすべて知っているアロクラも、エミリアの呪縛に掛かっていた。被害者同士で復讐の協力はできても、誰かに慰められたり、同情され、泣かれる事はなかった。祖父も父もメイヤー家のいいなりだったし、母は何も知らないまま入退院を繰り返し、――亡くなってしまった」
そう言ってマティアスは、ギュッと麻衣を抱き締めてくる。
「母は人質だったと言っていい。本当は不治の病だったのに、メイヤー家の担当医が診てくれると言ったのを信じた俺たちが馬鹿だった。俺たちは母が医者の〝治療〟を受け、治ると信じていた。だが母は回復せず、死に至った。別の病院に行けばきちんとした治療が受けられたのに、『担当医を疑う事はメイヤー家を疑う事だ』という洗脳があった。……結局、母を殺したのは無知な俺たちなんだ」
マティアスの体ごしに、彼の淡々とした声が伝わってくる。
こんな過酷な話をしているのに、彼は決して感情の揺れを見せない。
それが酷い仕打ちに耐え続けた結果なのだと思うと、悲しくて、悔しくてやりきれなかった。
「俺は水面下でアドラーさん達とやり取りをし、自由になった時のためにせっせと金を作った。……他は基本的に人に興味を持てなかったな。人を愛する心の余裕もなかった。多分、人を信頼できなかったんだと思う。金だけは俺を裏切らず、努力しただけ数字が増えた。だから金を増やす事に没頭した。釣りやドライブ、キャンプも趣味だが、一緒に楽しむ友人はほぼいなかったな」
言ったあと、マティアスは僅かに笑った。
「だから、カスミのために怒ったマイを見て、『この人は他人のために、ここまで感情的になれるのか』と感動した。マイの事を、情に厚い優しい人だと思った」
「そんな……」
とても凄い人のように言われ、麻衣は緩く首を振る。
そして、小さく溜め息をついた。
香澄から話を聞いた時、顔も知らない〝マティアスという男〟を憎んでいた。
普通なら関わらないはずの人と会う事になり、気持ちの清算のためにビンタで帳消しにすると決めた。
そのあとは「少しでもいいところを見つけられたら、香澄のように許せるかもしれない」と思っていたが、予想以上に関わる事になってしまった。
最初は勝手に、彼の事を「女を道具扱いする男」と思っていた。
なのに蓋を開けてみれば、マティアスは天然ボケで憎めない人だった。
その上女性として興味を持たれて戸惑い、ボーッとしている間にグイグイ迫られて彼のペースに呑まれた。
香澄は何事もなかったかのように応援してくるし、今まで自分が怒っていたのがおかしな事なのかと思い始めた。
結局は、義憤に駆られて目を曇らせていたのだ。
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