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第十一部・スペイン 編
第十一部・終章 パリへ
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『もしもし、お世話になっています。御劔佑です』
『ああ、ムッシュか。明日、パリ入りする予定だって?』
『ええ。マドリードから飛行機でパリへ。それからランスまで向かうので、多少時間がかかります』
『構わないよ。私は自宅で仕事をしているようなものだし』
『何かとお忙しいですよね。そんな中お時間をありがとうございます』
『いいや。……けど君が話したいのは、そんな事じゃないだろう?』
『…………ええ』
言い当てられ、佑は世間話をするのをやめた。
『〝あれ〟はどうしていますか?』
『ハハ! 〝あれ〟とは私の妻も嫌われたものだな』
電話の相手が軽やかに笑う。
佑はカーテンが開いた向こう、夜のマドリードを見る。
その表情からはいっさいの感情が抜けていた。
『大人しくしていますか?』
淡々とした佑の声を聞き、相手も彼の気持ちを慮ったのだろうか。
相手は安心させるような声音で返事をする。
『しっかり〝監視〟しているとも。彼女が一人で外出する事はないから、安心してくれ』
『……なら良かったです』
佑は微かに安堵する。
だが胸の奥にザワザワとしたものがあるのは、ずっと変わっていない。
香澄を取り戻したあの夜から、恐怖は根付き、今もその根を伸ばしている。
(マドリードからパリまで飛行機で約二時間。ホテルに香澄を送ってランチをとって、パリからランスまで車で約一時間半……。夕方前になるか)
『明日、夕方前にそちらに着きます』
『分かった。迎える用意をしておこう』
少し沈黙が落ち、佑は相手に向かって何と言うべきか言葉を選ぶ。
〝彼〟はとても複雑な人で、複雑な立場にいる。
佑はそれを利用して、〝彼〟の人生を変えてしまったかもしれない。
『……明日、色々お話したいと思います』
『分かった。待っているよ』
すべてを言うでもなく察してくれた〝彼〟に感謝し、佑は『では明日』と言って電話を切った。
佑はスマホをテーブルに置き、手で目元を覆う。
スペインに来てから香澄をひどく求めているのは、一か月会えなかった反動もあるが、パリに向かう前に不安になっているのを宥めるためでもあった。
愛しい人なのに、感情を宥めるために抱くなんていけない。
そもそも、佑が望むセックスは、愛し合いお互いの快楽を求めるためのものだ。
それが今はあの女の影に怯えて、すべてがおかしくなってしまっている。
「……ケリをつけて、……絶対に『日常』を取り戻すんだ」
佑はソファの背もたれに身を預け、深く重たい溜息をついた。
**
翌朝起きてもまだ腰がだるく、歩いてもフラフラしている。
観光の予定があったなら行動を考えたかもしれないが、今日は移動日だ。
座っていれば事足りるので、ありがたい。
佑と一緒に朝食ビュッフェに行っても、バルセロナではないのでフェルナンドに怯える必要もない。
ゆっくりと朝食をとったあと、荷物をまとめて車に乗り、そのまま空港に向かった。
燃料を補給し整備も完璧に終えた佑のプライベートジェットに乗り、何となく〝いつもの席〟になっているシートに座ると、空の旅が始まった。
(こんなホテルみたいな飛行機に、自分がいつも座る席があるなんて、本当に夢みたいだなぁ……)
客室乗務員にオレンジジュースをもらい、香澄はのんびり空の彼方を見る。
向かいの席に座っている佑を見ると、珍しく目を閉じていた。
いつもなら話題を振って飽きないようにしてくれるのに、スペインの仕事で疲れたのだろうか。
(そっとしておいてあげよう。……睫毛長いなぁ。格好いい……)
いつまで見ても飽きない佑の顔を見たあと、香澄はスマホを取りだす。
そしてシャッター音が鳴らないカメラアプリを立ち上げ、そっと佑の寝顔を写真に撮った。
麗しく優しい、完璧な婚約者の寝顔を見てから、香澄は窓の外を見る。
眼下に広がる土地はヨーロッパなのに、空だけはどこを飛んでも同じだ。
(遠い場所に来ちゃったな……)
距離的にも、去年の十一月に佑と出会う前の心理的にも。
これからどうなるんだろう、という不安はあれど、佑が側にいてくれるなら何だって乗り越えられる気がした。
(もう普通に歩けるし、この冬を乗り越えて春になったら脚のボトルを取って。それで六月に結婚できたらいいな……)
まだ佑と付き合って一年も経っていないのに、色々ありすぎた。
これからどうなるか分からないし、有名人である佑の隣にいれば、様々な人から色々な感情を抱かれるのだろう。
(覚悟しないと)
佑への揺るぎない愛が心の底にある。
それを守るためなら、何だって耐える覚悟もあるつもりだ。
目を閉じて、自分の身に降りかかった様々な事を思いだし――、目を開けて溜め息をつくと同時にニコッと微笑んだ。
(ま、いっか。いま考えて不安になっても、どうにもならないもの)
気持ちを切り替えた香澄は、映画を見る事にした。
シャルル・ド・ゴール空港までは、あと一時間半――。
第八部・完
『ああ、ムッシュか。明日、パリ入りする予定だって?』
『ええ。マドリードから飛行機でパリへ。それからランスまで向かうので、多少時間がかかります』
『構わないよ。私は自宅で仕事をしているようなものだし』
『何かとお忙しいですよね。そんな中お時間をありがとうございます』
『いいや。……けど君が話したいのは、そんな事じゃないだろう?』
『…………ええ』
言い当てられ、佑は世間話をするのをやめた。
『〝あれ〟はどうしていますか?』
『ハハ! 〝あれ〟とは私の妻も嫌われたものだな』
電話の相手が軽やかに笑う。
佑はカーテンが開いた向こう、夜のマドリードを見る。
その表情からはいっさいの感情が抜けていた。
『大人しくしていますか?』
淡々とした佑の声を聞き、相手も彼の気持ちを慮ったのだろうか。
相手は安心させるような声音で返事をする。
『しっかり〝監視〟しているとも。彼女が一人で外出する事はないから、安心してくれ』
『……なら良かったです』
佑は微かに安堵する。
だが胸の奥にザワザワとしたものがあるのは、ずっと変わっていない。
香澄を取り戻したあの夜から、恐怖は根付き、今もその根を伸ばしている。
(マドリードからパリまで飛行機で約二時間。ホテルに香澄を送ってランチをとって、パリからランスまで車で約一時間半……。夕方前になるか)
『明日、夕方前にそちらに着きます』
『分かった。迎える用意をしておこう』
少し沈黙が落ち、佑は相手に向かって何と言うべきか言葉を選ぶ。
〝彼〟はとても複雑な人で、複雑な立場にいる。
佑はそれを利用して、〝彼〟の人生を変えてしまったかもしれない。
『……明日、色々お話したいと思います』
『分かった。待っているよ』
すべてを言うでもなく察してくれた〝彼〟に感謝し、佑は『では明日』と言って電話を切った。
佑はスマホをテーブルに置き、手で目元を覆う。
スペインに来てから香澄をひどく求めているのは、一か月会えなかった反動もあるが、パリに向かう前に不安になっているのを宥めるためでもあった。
愛しい人なのに、感情を宥めるために抱くなんていけない。
そもそも、佑が望むセックスは、愛し合いお互いの快楽を求めるためのものだ。
それが今はあの女の影に怯えて、すべてがおかしくなってしまっている。
「……ケリをつけて、……絶対に『日常』を取り戻すんだ」
佑はソファの背もたれに身を預け、深く重たい溜息をついた。
**
翌朝起きてもまだ腰がだるく、歩いてもフラフラしている。
観光の予定があったなら行動を考えたかもしれないが、今日は移動日だ。
座っていれば事足りるので、ありがたい。
佑と一緒に朝食ビュッフェに行っても、バルセロナではないのでフェルナンドに怯える必要もない。
ゆっくりと朝食をとったあと、荷物をまとめて車に乗り、そのまま空港に向かった。
燃料を補給し整備も完璧に終えた佑のプライベートジェットに乗り、何となく〝いつもの席〟になっているシートに座ると、空の旅が始まった。
(こんなホテルみたいな飛行機に、自分がいつも座る席があるなんて、本当に夢みたいだなぁ……)
客室乗務員にオレンジジュースをもらい、香澄はのんびり空の彼方を見る。
向かいの席に座っている佑を見ると、珍しく目を閉じていた。
いつもなら話題を振って飽きないようにしてくれるのに、スペインの仕事で疲れたのだろうか。
(そっとしておいてあげよう。……睫毛長いなぁ。格好いい……)
いつまで見ても飽きない佑の顔を見たあと、香澄はスマホを取りだす。
そしてシャッター音が鳴らないカメラアプリを立ち上げ、そっと佑の寝顔を写真に撮った。
麗しく優しい、完璧な婚約者の寝顔を見てから、香澄は窓の外を見る。
眼下に広がる土地はヨーロッパなのに、空だけはどこを飛んでも同じだ。
(遠い場所に来ちゃったな……)
距離的にも、去年の十一月に佑と出会う前の心理的にも。
これからどうなるんだろう、という不安はあれど、佑が側にいてくれるなら何だって乗り越えられる気がした。
(もう普通に歩けるし、この冬を乗り越えて春になったら脚のボトルを取って。それで六月に結婚できたらいいな……)
まだ佑と付き合って一年も経っていないのに、色々ありすぎた。
これからどうなるか分からないし、有名人である佑の隣にいれば、様々な人から色々な感情を抱かれるのだろう。
(覚悟しないと)
佑への揺るぎない愛が心の底にある。
それを守るためなら、何だって耐える覚悟もあるつもりだ。
目を閉じて、自分の身に降りかかった様々な事を思いだし――、目を開けて溜め息をつくと同時にニコッと微笑んだ。
(ま、いっか。いま考えて不安になっても、どうにもならないもの)
気持ちを切り替えた香澄は、映画を見る事にした。
シャルル・ド・ゴール空港までは、あと一時間半――。
第八部・完
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