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第十一部・スペイン 編

もうその話はしないでくれ

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 香澄だって嫉妬する。

 佑に出会う前も、それなりにしていた。

 相手は健二だったけれど、自分という彼女が目の前にいるのに、他の女性を「可愛い」と言われた時はムッとした。
 待ち合わせをして香澄がずっと待っていたのに、他の女性とラブホテルに行っていた話を聞いた時も、嫉妬と怒り、悲しみで心が真っ黒になった。

 聖人ではないから、「健二くんにバチが当たればいいのに」と思ってしまった事だってあった。

 だが、思うだけと実際に行動に移すのとでは、天地の差がある。

 香澄は「した事は返ってくる」を信じている。

 悪事を働いたり、誰かの悪口を言えば、巡り巡って自分に返ってくる。

 逆に、いい事をしていれば、いつかいい事があると信じている。

 何もしていなくても嫌な目に遭う事はあるが、そういう時は節子が言っていた〝ビスケットの缶理論〟だと思うようにしていた。

 どんなにつらい事があっても、ずっとは続かないし、いつかいい事があると信じている。

 その〝いつか〟が訪れた時、「誠実に生きていたら、いい事があるんだよ」と言えるように、苦しくても地道に努力していきたいと思っていた。

 ふてくされて他人に当たり散らすようになったら、おしまいだ。

 それは香澄の〝理想の姿〟からかけ離れている。

 けれど世の中には、タガが外れてしまう人がいる。

 有名な人でも事件を起こすし、一般人でも嫉妬からネットで中傷をして、訴えられたという話はゴロゴロ転がっている。

 自分に降りかかる不幸に耐えきれず、他人で憂さ晴らししてしまう人は、結局自分の行いを自ら償う事になる。

 エミリアは世界レベルの富裕層なのに、香澄のような一般女性に本気で嫉妬した。

 どんな生活を送っていても、人は嫉妬する。

 エミリアの場合、金で解決できないものだったからこそ、手に入らない佑を想って道を踏み外してしまったのかもしれない。

「それだけ好きだったのかな。幼馴染みだったのに、私が横取りしたように感じたのかな。マティアスさんだって――」

 言いかけた時、佑がとても苦しそうな声をだした。

「香澄、頼む。もうその話はしないでくれ。この事は、もう取り返しのつかない状況まで発展してしまった。マティアスだって謝罪して、香澄に金を払った。契約書にもサインした。それをもう覆さなくていいように、香澄ももう何も心配しなくていい」

 ひどく不安定な声に、香澄は顔を上げて佑の顔を見る。
 佑は眉間に皺を寄せ、まるで何かの発作でも起こしているように表情を歪めていた。

「すべて終わったんだ。悪夢は終わった。終わらせた。――だから、……頼む。自ら傷をえぐって見つめ返さなくていい。俺にも思いださせないでくれ。――お願いだ。二人で幸せな現実を見て、ただイチャイチャしていたい。…………それじゃ、駄目か?」

 佑の瞳の奥に、へたをしたら理性を失ってしまいそうな危うさがある。
 彼が言っているように、幸せな現実でかろうじて繋ぎ止めているものを、香澄が自ら台無しにしかけていた。

 確かにマティアスの事で被害を受けたのは香澄だ。

 それでも、佑が傷ついていない訳がない。

 佑とならどんな話題でも冷静に分析できるのでは、と思ったが、佑だって一人の人間だ。

 話したくない事の一つや二つはある。

 ――恥ずかしい。

 ――自分だけが傷ついたと思って、我が儘を言って一か月北海道で羽を伸ばしたのに。

 ――もしかしたら、佑さんは傷ついたまま、まだ回復できていないのかもしれない。

 佑の事を考えられなかった自分を恥じ、香澄は彼を抱き締め返して謝る。

「…………ごめんなさい」

 具格反省して謝ると、「いいよ」と優しくキスをされる。

「……パリって美味しい物なんだっけ? クレープってパリだっけ? 私、クレープ大好き」

 話題を変えたのはあからさまだったが、佑はそれに応じてくれる。

「クレープもガレットも、フランスだよ。用事が終わったら一緒に食べに行こうか」

「うん」

 その後も少し会話をしたが、佑はふつりと言葉を切らして黙ってしまった。

「佑さん?」と呼びかけても、何も反応せず香澄を抱き締めるだけ。

 眠ってしまった訳ではないが、香澄と会話をする気持ちにもならないらしい。

(……私が思っているより、ずっと傷ついているんだ)

 猛省して彼の胸板に額を押しつけると、彼は香澄の香りを吸い、抱き締め返してくれた。





 佑は頭の中の一部がショートして焼き切れそうになるのを、必死に堪えていた。

 頭の中で、イギリスで味わった悪夢が蘇りそうになる。

 あの八月、彼はロンドン中を駆け回って毎日絶望と悲嘆に暮れていた。

 姿を消した香澄は今頃……と思うだけで酷く手が震え、まともな思考回路を保てなくなる。

 今はもう大丈夫なのだと、何度も自分に言い聞かせたはずだった。

 抱き締めて、彼女が回復するのを待って、側にいて、混乱した香澄を宥めた。

 離別はあったものの、周囲の力を借りつつ、香澄と二人三脚でなんとか現状まで回復したつもりだ。

 ――けれど気が付けば、あの女が暗い影を落としている。
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