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第十一部・スペイン 編

生きて笑っている以上に大切な事はない

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 これほど人を憎んだのは、生まれて初めてだ。

 佑の心の奥底で煮えたぎったマグマがあり、エミリアを思うだけでボコボコと泡立って心を乱す。

 一度はアドラーや双子、マティアスにも同じ感情を向けたが、香澄が許すと言ってしまったので、なるべく自制している。

 香澄の意思は最大限尊重したい。

 マティアスは己の拳で殴った。
 香澄の前で土下座する姿も見たし、金もきちんと払った。

 だからかろうじて「許してやろう」という気持ちになれている。

 だがエミリアやフランクは、弁護士に動いてもらっても謝罪の言葉はなく、ただ示談金の提示があっただけだった。

 スペインで仕事をしたあとパリに寄るのは、エミリア関係の後始末だ。

 香澄には絶対に感づかせず、「友人に会う」とだけ伝えてホテルで待っていてもらうつもりだ。
 河野は何度かパリを訪れた事があるらしいので、彼に香澄を任せて観光や買い物をさせてもいい。

 今度こそ護衛にしっかりと守らせ、香澄には何の不安も抱かせないようにする。

 自分の用事を終えたら、すみやかにパリを離れてマルコやルカが待つローマへ行くつもりだ。

(本当にあの時、マルコと河野がいなければどん詰まりだった)

 思い出したくない八月が脳裏に蘇り、佑は眉間に皺を寄せる。

 あれから悪夢を見る事が多くなったし、気が付けばストレスで奥歯を食い縛っている。
 イギリスで奥歯を割って以来、歯科医に「意識して奥歯を合わせないようにしてください」と言われて、鋭意努力中だ。

 イギリスという国にもエミリアが関わった土地にも、何の罪はない。
 素晴らしい国だし、美しい土地だ。

 それでもあの景色を見れば、きっとぐったりとした香澄を思い出し、我を失ってしまいそうな気がする。

 香澄がイギリスに行きたいと言ったのも、正直まだ早いと思っている。

 だが彼には香澄の希望をすべて叶えたいという、何とも情けない男の見栄がある。
 香澄が望むなら、旅行、食事、買い物、あらゆるものを与えたい。

 彼女が喜ぶなら、別れる以外なんだってできる。

(生きて笑ってくれること以上に、大切な事はない)

 自分のつらさと香澄の望みを天秤にかければ、たやすく香澄に天秤が傾ぐ。

(香澄が側にいてくれれば、イギリスに行っても平静を保てるのか……?)

 いや――、と思う。

(お決まりの観光コースを案内すれば満足するだろう。あの時はロンドン市内をそれほど歩いていないはずだ。旅行会社で目玉に挙げるような所も、恐らく行っていない)

 佑は香澄の意識の裏を掻き、安全にイギリス観光を楽しめる案をひねりだす。

(リスクを冒す事に注視しなくていい。香澄の要望を上手に聞いて、あとは誤魔化せばいいんだ。馬鹿正直に記憶の蓋を開けなくていい)

 決めてしまうと一つ頷き、満足して微笑んだ。

「香澄……」

 佑はもう迷わず、微笑んで彼女の香りを吸い込んだ。

 滑らかな背中からお尻を撫でて額にキスをする。
 あどけない寝顔を見て、自分でも気持ち悪いぐらいニヤつく。

(可愛い……。可愛くて堪らない。俺のものだ)

 佑はスゥッと息を吸い、フルーティーな甘さを堪能したあと幸せそうに目を閉じた。



**



「んー……」

 覚醒した香澄は、隣に佑が寝ているのに気づいて幸せに微笑む。
 まだ眠たくてトロトロしているが、珍しく佑の寝顔を見られるので楽しむ事にした。

(かっこいい……)

 セットしていない前髪はサラリとしていて、その下からキリリとした眉毛が覗いている。
 伏せられた睫毛は長く、その睫毛の色も焦げ茶色だ。
 鼻筋はドイツ系のそれではないが、日本人よりスッと通っていて高い。

 肌の色もどちらかというとアンネの血が強く出ていて、西洋人的な白さがある。
 身長が高く鍛えた体つきをしているのに、モデルのように頭が小さい。

 時には双子と一緒にキックボクシングもするようで、体にはアスリートのような筋肉がしっかりとついている。
 経営者をしているには惜しいほど、スタイルがいいのだ。

(何でこんな人が私の婚約者なんだろう。……かっこいい……。かっこいいしか言葉が出てこない……)

 己の語彙力のなさを恨み、もう少し本を読もうか悩む。
 気が付くと電子で手軽に読める漫画を購入していて、紙の本は夜寝る前にじっくり読んでそれほど進まないのだ。
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