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第十部・ニセコ 編

謝罪

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 キッチンで朝食の準備をしていると、佑がパンを買って戻ってきた。

「おかえりなさい。焼きたて?」

「焼きたてだよ」

 佑が香澄の目の前で袋を開け、匂いを嗅がせてくれる。

「んー、いい匂い。やわらか食パン?」

「そう。香澄が好きな、パンの耳が柔らかい食パン」

 香澄はあまりイギリスパン――上部が丸くなっている食パンが得意ではない。
 好きなのは正方形の食パンで、耳まで柔らかい物だ。

 香澄がサラダやスープ、玉子料理の準備を終えようとしている傍ら、佑はダイニングで食パンを切ってプレートに並べる。
 別荘にはバターやジャム、食べるオリーブオイルなども完備されてあった。

「いただきます」

「いただきます」

 焼きたてなので、食パンは焼かずに食べた。ふんわりと柔らかく、どことなく甘い。
 今までにない穏やかな気持ちでテーブルに向かい、佑と向かい合うのが懐かしい。

 食べ終えると、佑がコーヒーを淹れてくれた。

「私、秋成叔父さんに会ってちゃんと謝らないと」

 そう切り出したが、佑は首を横に振った。

「俺は必要ないと思う」

「でも、お世話になったのに無責任に辞めたくない。最後ぐらいちゃんと挨拶しなきゃ」

「椎野と安野に顔を合わせられる? 解雇を勧めたとはいえ、昨日の今日でいなくなる訳じゃない。秋成さんと聡子さんも気まずい思いをさせてしまった。そんななかペンションに向かうのは幾ら何でも愚策だと思うけど」

 言われて、確かに図太くなければできない事を、やろうとしていたと知る。

「無理に責任を取らなくていい。向こうにも落ち度はあった。もう責めるつもりはないけど、秋成さんはもう少し年頃の男女が同居する事に配慮すべきだった。香澄は予定通り、俺が迎えに来たからペンションをあとにする。それで良くないか?」

「ん……」

 まだ浮かない顔をしていると、佑が「あ」と言って渋い顔をする。

「河野に荷物を取りに行かせようと思っていたが、香澄の下着を触らせるのは嫌だな」

「あっ……」

 ペンションにある荷物について考えておらず、香澄は声を漏らす。

 確かに下着類も服も、万が一の生理用品も、他人に触らせるのは気が引ける。
 リュックにすべて纏めてあるなら、誰かが取りにいってもいいかもしれないが、パッキングは香澄自身でやりたい。

「……じゃあ、荷物を取りに行くの、付き合ってくれる?」

「分かった。じゃあ、朝食後に電話で連絡を入れてからにしよう」

「そうだね。部屋で荷物を纏めてる間、和也くんと真奈美ちゃんはペンションでの仕事をしてもらっていたほうが、鉢合わせなくていいかも」

 そう言うと、佑は微妙な顔をして溜め息をつく。

「どうしたの?」

 尋ねると、彼は何とも言えない表情でコーヒーを飲む。

「本当は地に這いつくばって香澄に詫びてもらいたい気持ちはある。……けどもう、香澄を押し倒したけだもののような男に、香澄を見せたくない。俺が一緒にいると余計に嫉妬も買うだろう」

 それを聞いて、今度は香澄は微妙な顔をした。

「もう、そういうのはいいよ」

 佑は苦い顔をして唇を歪める。

「俺は自分の事は割とどうでもいいが、会社や商品、家族について何か言われた時はプライドを傷つけられる。婚約者である香澄は、最も大切な誇りだ」

 言われて、自分にもそういう面はあると思った。

 自分の事はどう言われてもいいが、佑や友達を悪く言われると腹が立って仕方がない。

 佑の気持ちも分からないでもないので、気持ちが苦しい。

「……でも、もう人のネガティブな感情を向けられたくない。まだ恨まれているとしても、謝られるとしても、顔を合わせるのはしんどい」

 佑は溜め息をついた。

「相手に情けを掛けたくない。……けど香澄が『傷付きたくない』『嫌な思いをしたくない』というなら、折れてもいい。俺もこれ以上、あいつらに香澄を見せたくない。香澄が減る」

「ふふっ、減りはしないけど」

 相変わらず甘やかしてくれる彼に、思わず笑みが漏れる。
 温かいコーヒーを飲み、香澄は息をつく。

「……うん」

(……よし。佑さんがいるなら、勇気を出そう)

 朝食を終えたあと、佑のスマホを借りて聡子の携帯に電話を掛けた。

『もしもし』

「おばさん、おはようございます。香澄です。仕事を放り出してしまってごめんなさい!」

 スマホはハンズフリーにしていて、ソファに座っている佑も会話を聞いている。

 香澄はソファに座ったまま、バッと頭を下げていた。
 聡子は少し沈黙したあと、苦笑いの吐息を漏らす。

『私たちこそ謝らないといけないわ。香澄ちゃんが二人とギクシャクしていたのは感じていたのに、実際裏で何があったのかきちんとヒアリングしなかった。お義姉さんたちに向ける顔がないわ』

「……そんなつもりはなかったとはいえ、トラブルメーカーになってしまってすみません。私が来なければ、皆さんは元のままだったのに」

 つい反省会をしてしまう香澄の背中を、佑がポンと叩く。

『それは違うわ。確かに合う合わないはあるかもしれない。けど、どんな理由があったとしても、気に入らない人を攻撃していい理由はないの。自分たちの生活や職場に新しい人が入るのは当たり前の事。その人がどんな人でも、うまくやっていくのが社会人でしょう? あの二人は今までのメンバーの空気感に甘えて、それ以外の人とはうまくできなかった。今まで誤魔化せていたのが表面に出てしまっただけ』

 香澄は小さく息をつく。

『今まで仕事は十分回っていたけど、お休みの面も考慮してもう一人募集するつもりでいたの。その時、今回と似たようなトラブルになったかもしれない。それが今回分かっただけ。あの二人には辞めてもらって、心機一転また新しいスタッフを募集するつもりよ。それが私たちのけじめ』

 考えるように思案している香澄に、佑が語りかける。

「香澄、もう何も言う必要はない。これはもう〝終わった事〟だ。聡子さん、これから香澄の荷物を取りに行きたいのですが、あの二人と鉢合わせないようにして頂く事は可能ですか?」

 佑の声を聞き、電話の向こうで聡子がハッとする。

『御劔さん、昨日は申し訳ございませんでした。……そうですね。では十時半から二人に客室の清掃をしてもらいます。その間に母屋で荷物を纏めてもらえたらと思います』

「分かりました。香澄、俺も手伝うけどそれで大丈夫か?」

「うん」

『香澄ちゃん、こんな事になってしまってごめんなさい。でももし良かったら、忘れた頃にまた来てちょうだい。その時はスタッフさんも変わっていると思うし、御劔さんと一緒に一番いい客室でゆっくりしてほしいわ。嫌な思い出ができてしまったけど、ニセコを嫌いにならないでほしいの』

「はい、勿論です!」

 叔母の気遣いに香澄は微笑む。

「また親戚で集まる時があったら、宜しくお願いします」

 香澄がそう言うと、聡子は『こちらこそ』と嬉しそうに応えた。



**



 支度を終えて車に乗り、レッドパインに向かう。

 相変わらず、好きな人が運転している車に乗っていると思うと、ソワソワしてしまう。

(健二くんの車に乗っていた時は、こんな気持ちにならなかったな)

 ついそう思ってしまい、「比較するのは駄目だな」と思ったあと「こう思うから『甘い』って言われるのかな?」と首を傾げる。

 やがて見慣れたペンションと母屋を前にして、香澄は少し緊張する。

「大丈夫」

「うん」

 十時半直前に出て、車で五分もかからない距離なので、もう二人は客室清掃の仕事を始めているだろう。

 そう思っていたのだが、ペンションの前に秋成と聡子、秋山と和也、真奈美が並んでいてドキッとした。
 戻る訳にもいかず、佑は駐車場に車を停める。

「大丈夫。俺がいるから」

 車を降りる前にそう言われ、香澄は「うん」と覚悟を決めた。

 砂利を踏みしめて進むなか、ドキドキと高鳴る胸を必死に押さえる。

 秋成と聡子は気まずそうな顔をしていて、秋山は厳しい表情でこちらを見据えていた。
 そして香澄たちが会話ができる距離まで来た時に、秋山が「ほら!」と二人に声を掛けた。

 どうやら秋山が言い出してこうなったらしい。

 和也と真奈美はこちらを見て表情を歪める。
 悔しいとも何とも言えない、微妙な顔だ。

 だが和也は秋山にバンッと背中を叩かれて、絞り出すように声を出す。
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