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第十部・ニセコ 編

危機の裏側で

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 長時間移動と慣れない環境とで、思ったよりも体は疲れたようだ。

 すぐに意識が眠りの淵に落ちてゆく。

(佑さんの夢を見られたらいいな)

 最後にそう思いながら、香澄は意識を手放した。





 すぐに深く寝入ってしまったからか、香澄は小さなノック音に気付かなかった。

 暗い部屋に細長い光が差し込み、それを人影が覆う。

 秋成に部屋の鍵があると言われていたが、疲れ切って頭が回らず、「早く寝たい」に気持ちが支配されていた。
 また、普段部屋に鍵を掛けて眠る習慣がなかったため、失念していたとも言える。
 ホテルではオートロックで、わざわざ手動で鍵を掛ける事といえばトイレの個室ぐらいだ。

 その香澄の危機感のなさが、自分自身へ跳ね返ってくる。

 音もなく香澄の部屋に足を踏み入れたのは――和也だ。

 足音を忍ばせてベッドの香澄に近寄り、しゃがみ込んでその寝顔を覗き込む。

「……有名人に遊ばれてるのも分かってない癖に。一般人と婚約、結婚って言ってもすぐ別れるのがオチなんだ。あとで泣くのはあんたなんだぞ」

 昼間の香澄の反撃に自尊心を傷付けられたのか、和也は苦々しく呟く。

 口調とは裏腹に手は香澄の髪を撫で、その艶やかでしなやかな感触の虜となる。
 無意識に何度も髪を撫でた和也の手が、ふとしっとりとした頬に触れ、襟元から中へ入ってゆく。

「っすげ……」

 無駄毛一本ない陶器のような肌に触れ、和也の体に感じた事のない感覚が走る。

 彼はその時、確かに香澄の肌に触れただけで勃起していた。

 思わず顔を近付けるとフワッと甘い香りがし、和也は夢中になって香澄の匂いを嗅ぎ続ける。

 手がさらに奥にある丘を目指そうとした時――、階下からバスルームのアコーディオンドアが開く音がした。

「っ」

 小さく息を呑んで和也はそっと手を引き、また足音を忍ばせて部屋を出て――音もなくドアを閉めた。

 また一人に戻った部屋で、香澄は深い寝息を立て続けていた。



**



 同時刻、佑はスーツから着替えもせず、自宅の床にうつ伏せになっていた。

(……香澄が、……足りない)

 まだ暖房を入れていない床は、ひんやりとしていて徐々に佑の体温を奪ってゆく。

 今日は二十時には帰宅したというのに、それから三時間以上佑は着替えもせず食事もせず、ただこうして転がっていた。

 冷蔵庫の中には、斎藤が作ってくれた料理が保存容器に入っている。
 分かっているのに、温めて食べようという気力すら沸かない。

 斎藤からもメモで「食べやすい物を作ったので、少しでもいいので口に入れてください」と願われている。
 香澄と知り合う前なら、あまり食欲がなくても機械的に〝栄養を取る〟という行動を取れていた。

 だが今はこの家から一人の気配がなくなってしまっただけで、佑の気力を根こそぎ奪っている。

 冷蔵庫の中身は可能な日数保存され、廃棄されては新しい物が置かれてある。

 自分でも勿体ない事をしているという自覚はある。
 こんな事をしていると香澄に知られれば、怒られるのも分かっている。

 それでも――、食欲がない。

 一緒に食べてくれる香澄がいなくなり、佑の毎日の〝食〟から楽しさというものが奪われた。

(香澄がいないだけで……、こんなに駄目人間になるのか……)

 朝食はブラックコーヒーのみで済まし、松井が買ってきてくれた温かいスープなどもあまり口に入らない。

 昼こそ会食などがあるので、むりやり口に入れている。
 夕食や夜の酒になると、一日の疲れと香澄がいない苛立ちも最高点に達しており、ろくに食べない状態で酒を胃に流し込む毎日が続いていた。

 当然体調を崩し、嘔吐する事も増える。

「こんなの香澄が望む〝御劔佑〟じゃない」と分かっていても、〝今の自分〟を大事にできる心の余裕などなかった。

「……かすみ……」

 唇から求める存在の名を漏らし、乾ききった目からポツッと涙が零れ落ちた。
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