上 下
510 / 1,549
第九部・贖罪 編

心の奥底に潜む狼

しおりを挟む
「札幌に戻って、元住んでいたマンションは引き払ってしまったから実家だけれど。一か月ダラダラ過ごすんじゃなくて、自分一人で何かしてみせる。その間に、〝赤松香澄という人物は、何かがあって情けなく寝込むだけじゃない。一人でもちゃんと立ち上がって、生きていける〟って自分自身に証明したいの」

 静かだがきっぱりと言い切った香澄に、佑は声もなく打ちのめされていた。

 ひどく傷ついてなお、香澄は強い。

 佑の庇護から抜けて、自分の足で立つと言っている。
 彼女にはそういうつもりはなくても、佑の手助けやお節介は不要だと言われている気がした。

 ――そして悲しいかな、佑はこうなったら香澄が頑固なまでに意見を変えないのを知っている。

 彼女の完全な復活のためにも、認めるしかないのだ。

「……いつから?」

 溜め息交じりの佑の問いに、香澄は少し考える。

「明日……、お二人とデートするって約束したから、それはちゃんと果たす。それから美里さんに対して持っておいてほしい心構えとかを伝える。それが私のお二人を許す〝条件〟だから」

「……じゃあ、月曜日から?」

 まるで母の帰りがいつになるのか、必死で尋ねる子供のようだ。
 その必死さが伝わったのか、香澄が微かに笑った。

「佑さんは月曜日、いつも通りお仕事に行って? 私はその間に出掛けるから」
「ご――」

「護衛とか、お目付役的な人はいらないからね?」

 佑が言おうとした事を、香澄が申し訳なさそうな顔で先んじて否定する。

「お休み中なのに、私の行動がすべて佑さんに筒抜けなのとか……落ち着かないの。分かって」

 香澄はごく普通の感覚で言っただけなのに、佑はすべてを否定された気持ちになった。
 それだけ香澄に行かないでほしいと、未練がましく思っているのが窺い知れる。

 香澄だけだ。

 自らを平凡と言う地方都市出身の彼女だけが、佑のすべてを狂わせる。

 それでも、自分は彼女の望みを叶えない訳にいかない。

 傷付いた香澄には心身共に休養が必要だ。
 距離を取りたがっているのに、「愛しているから」を理由にして側にいさせるのはただのエゴだ。

 できるだけ、香澄には物分かりのいい優しい婚約者でいたい。

 だから、本音を押し殺して承諾した。

「……分かった。……その代わり、きっかり一か月後に迎えに行くから。その時は一緒に戻ってほしい」

 感情を凍結させたとても平坦な声が口から出て、その声の無機質さに佑自身が驚いた。

「ありがとう」
 だが香澄は――残酷で愛しい婚約者は、この上なく可愛い顔で礼を言ってくる。

 佑は自分で香澄の手を離してしまった。
 あと一日一緒に過ごしたあとは、地獄のような日々を耐えなければいけない。

 これは――、自分で選んだ道だ。

 パシャ……と水音をたてて香澄の背中を撫で、佑は何度も香澄という存在を確かめた。

 彼女はもう、明後日にはこの家からいなくなってしまうのだ。

「ごめんね。……ありがとう。……好きだよ」

 ――何を今さら。

 香澄が好きすぎて、憎らしくさえ思う。

 ――俺の手からすり抜けていってしまうくせに。

 僅かに残っている理性さえなければ、乱暴に犯して腰が立たなくなるまで攻め、地下室のある別荘に監禁したいとすら思った。

 しかしギリギリのところで――、御劔佑という男は良識人だった。

 自分の心の奥底に、悲しくて寂しくて遠吠えする狼のような獣性を感じた。
 心の中の狼は、一歩間違えれば香澄に唸って噛みつき、彼女を力尽くでねじ伏せようとする獰猛さがある。
 だが佑という狼は、愛しいつがいには決して牙を向ける事ができないのだ。

「……少し、一人で考えたい」

 堪らず、初めて彼女にそんな言葉を向けてしまった。

「……うん、分かった。ごめんね」

 真珠のような肌から水滴を滴らせ、香澄が立ち上がる。
 ぷりんとした白いお尻を佑に見せつけ、彼女は静かにバスルームから出て行った。

 ジェットバスの中で脚を伸ばし、佑はズルズルと体を滑らせる。
 天井を仰いで――、魂も一緒に抜けてしまいそうな溜め息をついた。

 ――これで良かったのか。
 ――まだ、取り返しがつくんじゃないのか?

 ぶくぶくと沸き起こるジェットバスの泡のように、佑の心にさまざまな思いがわき上がる。
しおりを挟む
感想 556

あなたにおすすめの小説

『逃れられない淫らな三角関係』番外編 ヘルプラインを活用せよ!

臣桜
恋愛
『逃れられない淫らな三角関係』の番外編です。 やりとりのある特定の読者さまに向けた番外編(小冊子)です。 他にも色々あるのですが、差し障りのなさそうなものなので公開します。 (他の番外編は、リアルブランド名とかを出してしまっている配慮していないものなので、ここに載せるかは検討中)

地味女で喪女でもよく濡れる。~俺様海運王に開発されました~

あこや(亜胡夜カイ)
恋愛
新米学芸員の工藤貴奈(くどうあてな)は、自他ともに認める地味女で喪女だが、素敵な思い出がある。卒業旅行で訪れたギリシャで出会った美麗な男とのワンナイトラブだ。文字通り「ワンナイト」のつもりだったのに、なぜか貴奈に執着した男は日本へやってきた。貴奈が所属する博物館を含むグループ企業を丸ごと買収、CEOとして乗り込んできたのだ。「お前は俺が開発する」と宣言して、貴奈を学芸員兼秘書として側に置くという。彼氏いない歴=年齢、好きな相手は壁画の住人、「だったはず」の貴奈は、昼も夜も彼の執着に翻弄され、やがて体が応えるように……

ハイスペック上司からのドSな溺愛

鳴宮鶉子
恋愛
ハイスペック上司からのドSな溺愛

【R18】深層のご令嬢は、婚約破棄して愛しのお兄様に花弁を散らされる

奏音 美都
恋愛
バトワール財閥の令嬢であるクリスティーナは血の繋がらない兄、ウィンストンを密かに慕っていた。だが、貴族院議員であり、ノルウェールズ侯爵家の三男であるコンラッドとの婚姻話が持ち上がり、バトワール財閥、ひいては会社の経営に携わる兄のために、お見合いを受ける覚悟をする。 だが、今目の前では兄のウィンストンに迫られていた。 「ノルウェールズ侯爵の御曹司とのお見合いが決まったって聞いたんだが、本当なのか?」」  どう尋ねる兄の真意は……

イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?

すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。 「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」 家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。 「私は母親じゃない・・・!」 そう言って家を飛び出した。 夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。 「何があった?送ってく。」 それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。 「俺と・・・結婚してほしい。」 「!?」 突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。 かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。 そんな彼に、私は想いを返したい。 「俺に・・・全てを見せて。」 苦手意識の強かった『営み』。 彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。 「いあぁぁぁっ・・!!」 「感じやすいんだな・・・。」 ※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。 ※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。 それではお楽しみください。すずなり。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

義兄に甘えまくっていたらいつの間にか執着されまくっていた話

よしゆき
恋愛
乙女ゲームのヒロインに意地悪をする攻略対象者のユリウスの義妹、マリナに転生した。大好きな推しであるユリウスと自分が結ばれることはない。ならば義妹として目一杯甘えまくって楽しもうと考えたのだが、気づけばユリウスにめちゃくちゃ執着されていた話。 「義兄に嫌われようとした行動が裏目に出て逆に執着されることになった話」のifストーリーですが繋がりはなにもありません。

辣腕同期が終業後に淫獣になって襲ってきます

鳴宮鶉子
恋愛
辣腕同期が終業後に淫獣になって襲ってきます

処理中です...