450 / 1,559
第九部・贖罪 編
彼女のためにお粥を
しおりを挟む
「今日って何日?」
「九月七日の土曜日の夜。明日は日曜日だから、ゆっくりできるよ」
「ふぅーん……。ふふ。じゃあイチャイチャできるね」
ゴロゴロしつつ言った香澄の言葉に、キッチンで佑が笑った。
「俺もイチャイチャしたいよ」
それから香澄は目を閉じ、住み慣れた御劔邸の気配に耳を澄ます。
最新式のアイランドキッチンでファンが回る音がし、クツクツとお湯が沸騰する音や、出汁のいい香りが漂ってくる。
タイマーをセットする電子音に、パカッと玉子を割る音。
(幸せだなぁ……)
目を閉じていると、また眠気が襲ってきた。
「佑さん……」
「ん?」
「眠たいから……。できるまで寝てていい?」
「いいよ」
「できたら……起こしてね……」
ふぅ……っと力が抜けていき、香澄はあっけなく眠ってしまった。
**
帰国してすぐ、佑のかかりつけ医である高村(たかむら)という老医師が駆けつけた。
ぐっすり眠っている香澄を前に、佑は高村に何度目かになる状況説明をした。
処置を仰いだが、とりあえず自宅療養という事になる。
予想通り佑はすぐ仕事に戻らなければならず、高村の紹介で熊谷(くまがい)という公認心理師の女性が香澄についてくれた。
眠りっぱなしでトイレなども自分の意思で行けないかもしれず、一時香澄は大人用のおむつを着けていた。
四日ほどしてぼんやりと目を開いたり、自分でモソモソと動き回る事も多くなる。
だが佑と意思の疎通ができるレベルではなく、話しかけても生返事をする程度だ。
十日ぐらい経って、この夜がやって来た。
階上からトイレの流水音が聞こえ、佑は香澄が起きたのだと知った。
歩き回っているうちに転倒したら困るからと二階に向かおうとすると、香澄がこちらに向かって下りてくる。
今までに比べて随分ハッキリとした目つきをしていて、自分の名前を呼んでくれた。
その時、自分の心がフワッと明るく温かくなったのを感じた。
香澄の部屋でページをめくった少女漫画に、ヒロインの心情とともに光が差す表現や、花畑にいるでもないのに花が咲く表現があり、不思議に思った事があった。
当時は香澄に「少女漫画はそういうものなの」と言われたが、今なら何となく分かる気がする。
世の中すべてが暗く見え、香澄以外の何にも興味を持てないような状況に陥っていた。
そんな佑の心が、香澄の一声にして一瞬でパァッと明るくなったのだ。
家の照明は何も変わらないのに、今まで以上に明るく感じた気がする。
耳に入る音も、ずっとクリアになった。
深海の底からグイッと引っ張り上げられた気分だ。
長い眠りから覚めて「カップ麺が食べたい」と言う香澄に思わず笑ってしまい、彼女はこういう、平和な事を言う女性(ひと)だったと痛感する。
今まで一人暮らしをしてきて、自分用にお粥を作る機会なんてなかった。
風邪を引いて体調を崩しても、せいぜいうどんを茹でるぐらいだ。
だが香澄が起きた時のために……と思い、あらかじめお粥の作り方を斎藤に習っておいた。実習済みなので、味も保証できると思っている。
事件後、本当は自暴自棄な気分にもなっていた。
叫んで、なりふり構わず周りの物に当たり散らしそうになった事もある。
それでも耐えて、耐え忍んで、〝今〟がある。
――諦めないで良かった。
食い縛りすぎた奥歯は、割れてしまっていた。
今までずっと奥歯の痛みを感じていたので、帰国して歯医者に行き、割れた奥歯の欠片を取ってもらった。今後の治療で義歯を入れ、落ち着く予定だ。
今こうして、香澄のためにお粥を作っていられる。
そのささやかな行動の、なんと幸せな事か。
東京に戻って、やっと普通に呼吸ができた気がする。
目の前の鍋から立ち上る匂いも、「美味しそうだ」と普通に思えている。
斎藤がやって来て腕を振るってくれた食事も、今日までは機械的に胃に押し込んでいたに過ぎなかった。
どれだけ美味しくても香澄がいないと味気ない。斎藤に申し訳なく思いつつ、無駄にしてしまった料理もある。
――けれどこれからは。
ふ……と顔を上げ、ソファの上で寝ている香澄を見て目を細めた。
「お帰り。香澄」
そう呟いて微笑んだだけで、愛しさと喜びが胸から溢れてしまいそうで、また鼻の奥がツンとした。
「三十超えて、涙脆くなったかな。また香澄に〝お父さん〟って言われたらかなわない」
楽しそうに独り言を言い、佑は作った出汁の味見をした。
「九月七日の土曜日の夜。明日は日曜日だから、ゆっくりできるよ」
「ふぅーん……。ふふ。じゃあイチャイチャできるね」
ゴロゴロしつつ言った香澄の言葉に、キッチンで佑が笑った。
「俺もイチャイチャしたいよ」
それから香澄は目を閉じ、住み慣れた御劔邸の気配に耳を澄ます。
最新式のアイランドキッチンでファンが回る音がし、クツクツとお湯が沸騰する音や、出汁のいい香りが漂ってくる。
タイマーをセットする電子音に、パカッと玉子を割る音。
(幸せだなぁ……)
目を閉じていると、また眠気が襲ってきた。
「佑さん……」
「ん?」
「眠たいから……。できるまで寝てていい?」
「いいよ」
「できたら……起こしてね……」
ふぅ……っと力が抜けていき、香澄はあっけなく眠ってしまった。
**
帰国してすぐ、佑のかかりつけ医である高村(たかむら)という老医師が駆けつけた。
ぐっすり眠っている香澄を前に、佑は高村に何度目かになる状況説明をした。
処置を仰いだが、とりあえず自宅療養という事になる。
予想通り佑はすぐ仕事に戻らなければならず、高村の紹介で熊谷(くまがい)という公認心理師の女性が香澄についてくれた。
眠りっぱなしでトイレなども自分の意思で行けないかもしれず、一時香澄は大人用のおむつを着けていた。
四日ほどしてぼんやりと目を開いたり、自分でモソモソと動き回る事も多くなる。
だが佑と意思の疎通ができるレベルではなく、話しかけても生返事をする程度だ。
十日ぐらい経って、この夜がやって来た。
階上からトイレの流水音が聞こえ、佑は香澄が起きたのだと知った。
歩き回っているうちに転倒したら困るからと二階に向かおうとすると、香澄がこちらに向かって下りてくる。
今までに比べて随分ハッキリとした目つきをしていて、自分の名前を呼んでくれた。
その時、自分の心がフワッと明るく温かくなったのを感じた。
香澄の部屋でページをめくった少女漫画に、ヒロインの心情とともに光が差す表現や、花畑にいるでもないのに花が咲く表現があり、不思議に思った事があった。
当時は香澄に「少女漫画はそういうものなの」と言われたが、今なら何となく分かる気がする。
世の中すべてが暗く見え、香澄以外の何にも興味を持てないような状況に陥っていた。
そんな佑の心が、香澄の一声にして一瞬でパァッと明るくなったのだ。
家の照明は何も変わらないのに、今まで以上に明るく感じた気がする。
耳に入る音も、ずっとクリアになった。
深海の底からグイッと引っ張り上げられた気分だ。
長い眠りから覚めて「カップ麺が食べたい」と言う香澄に思わず笑ってしまい、彼女はこういう、平和な事を言う女性(ひと)だったと痛感する。
今まで一人暮らしをしてきて、自分用にお粥を作る機会なんてなかった。
風邪を引いて体調を崩しても、せいぜいうどんを茹でるぐらいだ。
だが香澄が起きた時のために……と思い、あらかじめお粥の作り方を斎藤に習っておいた。実習済みなので、味も保証できると思っている。
事件後、本当は自暴自棄な気分にもなっていた。
叫んで、なりふり構わず周りの物に当たり散らしそうになった事もある。
それでも耐えて、耐え忍んで、〝今〟がある。
――諦めないで良かった。
食い縛りすぎた奥歯は、割れてしまっていた。
今までずっと奥歯の痛みを感じていたので、帰国して歯医者に行き、割れた奥歯の欠片を取ってもらった。今後の治療で義歯を入れ、落ち着く予定だ。
今こうして、香澄のためにお粥を作っていられる。
そのささやかな行動の、なんと幸せな事か。
東京に戻って、やっと普通に呼吸ができた気がする。
目の前の鍋から立ち上る匂いも、「美味しそうだ」と普通に思えている。
斎藤がやって来て腕を振るってくれた食事も、今日までは機械的に胃に押し込んでいたに過ぎなかった。
どれだけ美味しくても香澄がいないと味気ない。斎藤に申し訳なく思いつつ、無駄にしてしまった料理もある。
――けれどこれからは。
ふ……と顔を上げ、ソファの上で寝ている香澄を見て目を細めた。
「お帰り。香澄」
そう呟いて微笑んだだけで、愛しさと喜びが胸から溢れてしまいそうで、また鼻の奥がツンとした。
「三十超えて、涙脆くなったかな。また香澄に〝お父さん〟って言われたらかなわない」
楽しそうに独り言を言い、佑は作った出汁の味見をした。
34
お気に入りに追加
2,572
あなたにおすすめの小説
ヤンデレエリートの執愛婚で懐妊させられます
沖田弥子
恋愛
職場の後輩に恋人を略奪された澪。終業後に堪えきれず泣いていたところを、営業部のエリート社員、天王寺明夜に見つかってしまう。彼に優しく慰められながら居酒屋で事の顛末を話していたが、なぜか明夜と一夜を過ごすことに――!? 明夜は傷心した自分を慰めてくれただけだ、と考える澪だったが、翌朝「責任をとってほしい」と明夜に迫られ、婚姻届にサインしてしまった。突如始まった新婚生活。明夜は澪の心と身体を幸せで満たしてくれていたが、徐々に明夜のヤンデレな一面が見えてきて――執着強めな旦那様との極上溺愛ラブストーリー!
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。

【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される
奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。
けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。
そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。
2人の出会いを描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630
2人の誓約の儀を描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041

忘れたとは言わせない。〜エリートドクターと再会したら、溺愛が始まりました〜
青花美来
恋愛
「……三年前、一緒に寝た間柄だろ?」
三年前のあの一夜のことは、もう過去のことのはずなのに。
一夜の過ちとして、もう忘れたはずなのに。
「忘れたとは言わせねぇぞ?」
偶然再会したら、心も身体も翻弄されてしまって。
「……今度こそ、逃がすつもりも離すつもりもねぇから」
その溺愛からは、もう逃れられない。
*第16回恋愛小説大賞奨励賞受賞しました*

一夜の過ちで懐妊したら、溺愛が始まりました。
青花美来
恋愛
あの日、バーで出会ったのは勤務先の会社の副社長だった。
その肩書きに恐れをなして逃げた朝。
もう関わらない。そう決めたのに。
それから一ヶ月後。
「鮎原さん、ですよね?」
「……鮎原さん。お腹の赤ちゃん、産んでくれませんか」
「僕と、結婚してくれませんか」
あの一夜から、溺愛が始まりました。
ウブな政略妻は、ケダモノ御曹司の執愛に堕とされる
Adria
恋愛
旧題:紳士だと思っていた初恋の人は私への恋心を拗らせた執着系ドSなケダモノでした
ある日、父から持ちかけられた政略結婚の相手は、学生時代からずっと好きだった初恋の人だった。
でも彼は来る縁談の全てを断っている。初恋を実らせたい私は副社長である彼の秘書として働くことを決めた。けれど、何の進展もない日々が過ぎていく。だが、ある日会社に忘れ物をして、それを取りに会社に戻ったことから私たちの関係は急速に変わっていった。
彼を知れば知るほどに、彼が私への恋心を拗らせていることを知って戸惑う反面嬉しさもあり、私への執着を隠さない彼のペースに翻弄されていく……。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

今夜は帰さない~憧れの騎士団長と濃厚な一夜を
澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ラウニは騎士団で働く事務官である。
そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。
だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。
そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる