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第九部・贖罪 編

彼女のためにお粥を

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「今日って何日?」
「九月七日の土曜日の夜。明日は日曜日だから、ゆっくりできるよ」

「ふぅーん……。ふふ。じゃあイチャイチャできるね」

 ゴロゴロしつつ言った香澄の言葉に、キッチンで佑が笑った。

「俺もイチャイチャしたいよ」

 それから香澄は目を閉じ、住み慣れた御劔邸の気配に耳を澄ます。

 最新式のアイランドキッチンでファンが回る音がし、クツクツとお湯が沸騰する音や、出汁のいい香りが漂ってくる。
 タイマーをセットする電子音に、パカッと玉子を割る音。

(幸せだなぁ……)

 目を閉じていると、また眠気が襲ってきた。

「佑さん……」
「ん?」

「眠たいから……。できるまで寝てていい?」
「いいよ」

「できたら……起こしてね……」

 ふぅ……っと力が抜けていき、香澄はあっけなく眠ってしまった。



**



 帰国してすぐ、佑のかかりつけ医である高村(たかむら)という老医師が駆けつけた。

 ぐっすり眠っている香澄を前に、佑は高村に何度目かになる状況説明をした。
 処置を仰いだが、とりあえず自宅療養という事になる。

 予想通り佑はすぐ仕事に戻らなければならず、高村の紹介で熊谷(くまがい)という公認心理師の女性が香澄についてくれた。

 眠りっぱなしでトイレなども自分の意思で行けないかもしれず、一時香澄は大人用のおむつを着けていた。

 四日ほどしてぼんやりと目を開いたり、自分でモソモソと動き回る事も多くなる。
 だが佑と意思の疎通ができるレベルではなく、話しかけても生返事をする程度だ。

 十日ぐらい経って、この夜がやって来た。

 階上からトイレの流水音が聞こえ、佑は香澄が起きたのだと知った。
 歩き回っているうちに転倒したら困るからと二階に向かおうとすると、香澄がこちらに向かって下りてくる。

 今までに比べて随分ハッキリとした目つきをしていて、自分の名前を呼んでくれた。

 その時、自分の心がフワッと明るく温かくなったのを感じた。

 香澄の部屋でページをめくった少女漫画に、ヒロインの心情とともに光が差す表現や、花畑にいるでもないのに花が咲く表現があり、不思議に思った事があった。
 当時は香澄に「少女漫画はそういうものなの」と言われたが、今なら何となく分かる気がする。

 世の中すべてが暗く見え、香澄以外の何にも興味を持てないような状況に陥っていた。

 そんな佑の心が、香澄の一声にして一瞬でパァッと明るくなったのだ。

 家の照明は何も変わらないのに、今まで以上に明るく感じた気がする。
 耳に入る音も、ずっとクリアになった。
 深海の底からグイッと引っ張り上げられた気分だ。

 長い眠りから覚めて「カップ麺が食べたい」と言う香澄に思わず笑ってしまい、彼女はこういう、平和な事を言う女性(ひと)だったと痛感する。

 今まで一人暮らしをしてきて、自分用にお粥を作る機会なんてなかった。
 風邪を引いて体調を崩しても、せいぜいうどんを茹でるぐらいだ。

 だが香澄が起きた時のために……と思い、あらかじめお粥の作り方を斎藤に習っておいた。実習済みなので、味も保証できると思っている。

 事件後、本当は自暴自棄な気分にもなっていた。
 叫んで、なりふり構わず周りの物に当たり散らしそうになった事もある。

 それでも耐えて、耐え忍んで、〝今〟がある。

 ――諦めないで良かった。

 食い縛りすぎた奥歯は、割れてしまっていた。

 今までずっと奥歯の痛みを感じていたので、帰国して歯医者に行き、割れた奥歯の欠片を取ってもらった。今後の治療で義歯を入れ、落ち着く予定だ。

 今こうして、香澄のためにお粥を作っていられる。
 そのささやかな行動の、なんと幸せな事か。

 東京に戻って、やっと普通に呼吸ができた気がする。

 目の前の鍋から立ち上る匂いも、「美味しそうだ」と普通に思えている。

 斎藤がやって来て腕を振るってくれた食事も、今日までは機械的に胃に押し込んでいたに過ぎなかった。
 どれだけ美味しくても香澄がいないと味気ない。斎藤に申し訳なく思いつつ、無駄にしてしまった料理もある。

 ――けれどこれからは。

 ふ……と顔を上げ、ソファの上で寝ている香澄を見て目を細めた。

「お帰り。香澄」

 そう呟いて微笑んだだけで、愛しさと喜びが胸から溢れてしまいそうで、また鼻の奥がツンとした。

「三十超えて、涙脆くなったかな。また香澄に〝お父さん〟って言われたらかなわない」

 楽しそうに独り言を言い、佑は作った出汁の味見をした。
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