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第八部・イギリス捜索 編
御劔邸への別れ
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香澄はしばらく室内を見つめた。
彼がここで仕事をしている時、廊下からこっそり眺めているのが好きだった。
けれど必ずすぐに見つかってしまい、甘く微笑んで「おいで」と言われる。
仕事の邪魔をしてしまい申し訳ないと思いながらも、彼の膝の上に乗ると安心する。
最初のうちは「ごめんなさい」と言ってすぐに立ち去っていたのだが、「抱き締めないと落ち着かない」と言われ、結局佑は席を立って香澄を抱き締めにきた。
そんな思い出に笑顔になり、もうあのささやかで愛おしい日々は戻らないのだと思い、涙が零れる。
息をつき、チョコレート色のデスクの上に、そっと退職願を置く。
「…………っ、ごめ……っ、なさいっ。役立たずでごめんなさいっ」
自分は佑に、何をしてあげられたのだろう。
札幌で出会った時は秘書にと求められたが、八谷社長を裏切ってまで佑の元へ来て、彼が望んだだけちゃんと働けただろうか。
考えても、考えても、分からない。
自分という存在が佑にとって何であったか考えるほど、答えが見つからなくて闇色の沼にズブズブと嵌まっていく。
書斎のデスクに一礼したあと、寝室へ行って目を閉じる。
佑の香りがほんのり漂い、まるで彼に優しく抱き締められている気がする。
「……少しの間だけ、一緒にいさせて」
棚に置いてあるジョン・アルクールの黒いボトルを手に取り、ツープッシュ、ボディに香らせた。
そのあと、洗面所に行って自分が愛用しているネクタリンを重ねづけする。
――これで、しばらくは一緒。
そう思って安心し、同時に我ながら、なんて未練がましいと呆れてしまう。
個人的な書き置きをしようかと思い、どうしようかと考えた挙げ句、ベッド脇にあるブロックメモに短い伝言を書いた。
『今までお世話になりました 香澄』
距離を取ると言っておきながら、これは実質〝別れ〟だ。
他の男に抱かれ、顔を合わせられなくて会社を辞め、男の元を去る女に〝もう一度〟があるなんて思えない。
恋人としても秘書としても、中途半端で最悪な終わり方だ。
きちんとした彼が、こんな選択しかできない自分を許してくれると思えない。
香澄は彼をまだとても愛しているからこそ、『さようなら』は書かなかった。
自分の心の中では、彼との思い出をまだ大切にさせてほしい。
そんな我が儘を胸に抱き、寝室を出る。
静まりかえった屋敷の中、階段を下りる足音が焼けに大きく響いた気がした。
エミリアのサンダルを紙袋の中に入れ、自分の履き慣れたスニーカーを履く。
そしてまだ一年も住んでいない御劔邸に向かって、香澄は勢いよく頭を下げた。
「お世話になりましたっ」
潔い声を出すと、フェリシアが返事をする。
『いってらっしゃい、カスミさん』
「あははっ」
いつもと変わらないフェリシアに思わず笑い、その後は二度と振り向かず、エミリアが待っている車へ走って戻った。
**
『あら、カイのコロンをつけたの?』
車に乗り込むとエミリアが笑いかけてきた。
『……未練がましいですよね』
『そんな事ないわ。婚約者だもの、少し離れるなら寂しいじゃない。何なら、ジョン・アルクールの本場はイギリスだし、向こうに行ったら二人で本店に行きましょうか』
『きっと高級なお店ばかりある所なんでしょうね』
話をしている間、車は夜の都内を走り違うホテルに向かった。
さほど時間は経たないうちに、車は別のホテルに到着する。
正面玄関前で車から降りると、深夜にも拘わらずホテルスタッフが迎えてくれた。
「お待ちしておりました」と挨拶を受け、フロントで手続きをしたあと二人は部屋に向かった。
しばらく興奮して眠れなかったが、用意してもらったパジャマに着替えてベッドに入ると、ドッと疲れが押し寄せてきた。
キングサイズのベッドに女性と二人で寝るのは初めてだが、この数時間でグッと親密になったエミリアなら安心できる。
気がつけば香澄はウトウトし、浅い眠りの中でグチャグチャとした夢を見た。
彼がここで仕事をしている時、廊下からこっそり眺めているのが好きだった。
けれど必ずすぐに見つかってしまい、甘く微笑んで「おいで」と言われる。
仕事の邪魔をしてしまい申し訳ないと思いながらも、彼の膝の上に乗ると安心する。
最初のうちは「ごめんなさい」と言ってすぐに立ち去っていたのだが、「抱き締めないと落ち着かない」と言われ、結局佑は席を立って香澄を抱き締めにきた。
そんな思い出に笑顔になり、もうあのささやかで愛おしい日々は戻らないのだと思い、涙が零れる。
息をつき、チョコレート色のデスクの上に、そっと退職願を置く。
「…………っ、ごめ……っ、なさいっ。役立たずでごめんなさいっ」
自分は佑に、何をしてあげられたのだろう。
札幌で出会った時は秘書にと求められたが、八谷社長を裏切ってまで佑の元へ来て、彼が望んだだけちゃんと働けただろうか。
考えても、考えても、分からない。
自分という存在が佑にとって何であったか考えるほど、答えが見つからなくて闇色の沼にズブズブと嵌まっていく。
書斎のデスクに一礼したあと、寝室へ行って目を閉じる。
佑の香りがほんのり漂い、まるで彼に優しく抱き締められている気がする。
「……少しの間だけ、一緒にいさせて」
棚に置いてあるジョン・アルクールの黒いボトルを手に取り、ツープッシュ、ボディに香らせた。
そのあと、洗面所に行って自分が愛用しているネクタリンを重ねづけする。
――これで、しばらくは一緒。
そう思って安心し、同時に我ながら、なんて未練がましいと呆れてしまう。
個人的な書き置きをしようかと思い、どうしようかと考えた挙げ句、ベッド脇にあるブロックメモに短い伝言を書いた。
『今までお世話になりました 香澄』
距離を取ると言っておきながら、これは実質〝別れ〟だ。
他の男に抱かれ、顔を合わせられなくて会社を辞め、男の元を去る女に〝もう一度〟があるなんて思えない。
恋人としても秘書としても、中途半端で最悪な終わり方だ。
きちんとした彼が、こんな選択しかできない自分を許してくれると思えない。
香澄は彼をまだとても愛しているからこそ、『さようなら』は書かなかった。
自分の心の中では、彼との思い出をまだ大切にさせてほしい。
そんな我が儘を胸に抱き、寝室を出る。
静まりかえった屋敷の中、階段を下りる足音が焼けに大きく響いた気がした。
エミリアのサンダルを紙袋の中に入れ、自分の履き慣れたスニーカーを履く。
そしてまだ一年も住んでいない御劔邸に向かって、香澄は勢いよく頭を下げた。
「お世話になりましたっ」
潔い声を出すと、フェリシアが返事をする。
『いってらっしゃい、カスミさん』
「あははっ」
いつもと変わらないフェリシアに思わず笑い、その後は二度と振り向かず、エミリアが待っている車へ走って戻った。
**
『あら、カイのコロンをつけたの?』
車に乗り込むとエミリアが笑いかけてきた。
『……未練がましいですよね』
『そんな事ないわ。婚約者だもの、少し離れるなら寂しいじゃない。何なら、ジョン・アルクールの本場はイギリスだし、向こうに行ったら二人で本店に行きましょうか』
『きっと高級なお店ばかりある所なんでしょうね』
話をしている間、車は夜の都内を走り違うホテルに向かった。
さほど時間は経たないうちに、車は別のホテルに到着する。
正面玄関前で車から降りると、深夜にも拘わらずホテルスタッフが迎えてくれた。
「お待ちしておりました」と挨拶を受け、フロントで手続きをしたあと二人は部屋に向かった。
しばらく興奮して眠れなかったが、用意してもらったパジャマに着替えてベッドに入ると、ドッと疲れが押し寄せてきた。
キングサイズのベッドに女性と二人で寝るのは初めてだが、この数時間でグッと親密になったエミリアなら安心できる。
気がつけば香澄はウトウトし、浅い眠りの中でグチャグチャとした夢を見た。
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