上 下
400 / 1,549
第八部・イギリス捜索 編

退職願

しおりを挟む
『そう? ありがとう。私はまだ結婚とかに縛られず、自由に仕事をしていたいわ。いつか両親のために、孫を見せなきゃいけないのも分かっている。それでも今はまだ……』

 エミリアは香澄と同い年だ。
 今なら香澄は佑との結婚を強く望んでいるが、彼と出会う前は似たような事を考えていた。

 だから彼女の気持ちはよく分かる。

 マティアスの話題は避け、二人は同じ年齢だからこそ共通する話をした。





 車は白金にある御劔邸に着き、車が停止する。

『用事を終わらせてすぐ戻って来るので、ここで待っていてください』
『分かったわ。なるべく早くね』

『はい』

 香澄は大きな門の脇にあるインターフォンを押した。
 少しして、円山の声がする。

「はい? ……赤松さん?」
「夜分すみません。忘れ物があるので、急遽取りに来ました」

「いま開けます。御劔さんは?」

「佑さんはホテルにいます。私だけ車で戻ってきました。用事を終えたらすぐ戻りますので、鍵をお願いできますか?」

「はい」

 すぐに離れの方から走ってくる足音が聞こえ、円山が通用門を開けてくれた。

「いやぁ、びっくりしました。御劔さんからは何も伺っていなかったので」
「遅い時間なので、佑さんも気を遣ったのだと思います。すみません、私が我が儘を言ったばかりに」

 不思議な事に、スルスルと口から嘘が出てくる。
 いつもならすぐ顔に出る香澄が、呼吸をするかのごとく嘘をついていた。

 母屋の鍵を開けてもらい、香澄はまっさきに二階に上がる。

(この家に入るのも、これが最後かもしれない)

 そんな事を思いつつ、手頃な大きさのショルダーバッグにパスポートを入れた。
 それからタオルハンカチにポケットティッシュを入れる。

 年が明けるタイミングで替えようと思っていた新品の財布に、デスクの中に万が一を考えて忍ばせておいた三万円を入れる。
 普段使いの財布もスマホもホテルにあるので、カードや電子決済は諦めた。

 佑からもらったカードは、もっと使えない。
 少し調べたら自分がどこにいるかすぐにバレるし、距離を取る意味がなくなってしまう。

 メモ帳とペンも入れ、お気に入りの色つきリップも入れる。通帳と印鑑も入れた。

「……コスメはいいか。お化粧している余裕なんてないし」

 それでも基礎化粧品は必要だと思い、サンプルをまとめてポーチに入れる。

 エミリアは必要な物があればすべて用意すると言ってくれたが、ボストンバッグに衣類や下着、万が一のサニタリー用品を詰め込んだ。

 ついでにエミリアから貸してもらった服と下着を脱いで紙袋に入れ、動きやすい服に着替えた。
 お気に入りのTシャツも、Chief Everyの物なので泣けてくる。

 そしていよいよ、デスクについて退職願を書く。

 ノートパソコンを立ち上げ、ネットで「退職願の書き方」と調べる。
 テンプレートのダウンロードがあったので、そこにそのまま必要な事柄を打ち込んだ。

 何も考えないようにしているのに、涙がこみ上げて頬を熱く濡らす。

「私……、ろくな秘書じゃなかった……。大して働いてもいないのに、社長にも皆さんにも迷惑を掛けて……っ」

 責任を取ろうと思えば、ここに留まって仕事を続け、佑に誠意的に接したらいい。

 分かっているが、レイプされたという事実は香澄を重たく包み込み、自分が人間以下の価値のない存在になったと思い込ませていた。

 佑を愛しているからこそ「側にいられない」と思い、彼から受けた優しさも愛も、すべてを裏切ってしまった気持ちになる。

「ごめんなさい……っ」

 呟くと、声が震え涙がさらに零れた。
 木製のティッシュボックスからティッシュを一枚引き抜き、鼻を噛む。

 カタカタとキーボードを鳴らして必要な事をすべて打ち込んだあと、印刷ボタンをクリックした。
 脇に置いてあるプリンタが動き出し、A4の紙を吐き出してゆく。

 小さく鼻を啜りながらそれを三つ折りにし、事務用の封筒に入れて表に大きく『退職願』と書いた。
 裏面には、『秘書課 赤松香澄』と自分の名前を書く。

 僅かな間、感傷と共にそれを眺めていたが、立ち上がると佑の書斎に向かった。

「これ以上ここにいてはいけない。自分にはその価値がない」という思いが香澄をせき立てる。

 廊下を歩き佑の書斎に入ると、フワッと彼の匂いがしてまた泣いてしまった。
しおりを挟む
感想 556

あなたにおすすめの小説

『逃れられない淫らな三角関係』番外編 ヘルプラインを活用せよ!

臣桜
恋愛
『逃れられない淫らな三角関係』の番外編です。 やりとりのある特定の読者さまに向けた番外編(小冊子)です。 他にも色々あるのですが、差し障りのなさそうなものなので公開します。 (他の番外編は、リアルブランド名とかを出してしまっている配慮していないものなので、ここに載せるかは検討中)

イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?

すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。 「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」 家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。 「私は母親じゃない・・・!」 そう言って家を飛び出した。 夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。 「何があった?送ってく。」 それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。 「俺と・・・結婚してほしい。」 「!?」 突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。 かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。 そんな彼に、私は想いを返したい。 「俺に・・・全てを見せて。」 苦手意識の強かった『営み』。 彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。 「いあぁぁぁっ・・!!」 「感じやすいんだな・・・。」 ※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。 ※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。 それではお楽しみください。すずなり。

【R18】深層のご令嬢は、婚約破棄して愛しのお兄様に花弁を散らされる

奏音 美都
恋愛
バトワール財閥の令嬢であるクリスティーナは血の繋がらない兄、ウィンストンを密かに慕っていた。だが、貴族院議員であり、ノルウェールズ侯爵家の三男であるコンラッドとの婚姻話が持ち上がり、バトワール財閥、ひいては会社の経営に携わる兄のために、お見合いを受ける覚悟をする。 だが、今目の前では兄のウィンストンに迫られていた。 「ノルウェールズ侯爵の御曹司とのお見合いが決まったって聞いたんだが、本当なのか?」」  どう尋ねる兄の真意は……

地味女で喪女でもよく濡れる。~俺様海運王に開発されました~

あこや(亜胡夜カイ)
恋愛
新米学芸員の工藤貴奈(くどうあてな)は、自他ともに認める地味女で喪女だが、素敵な思い出がある。卒業旅行で訪れたギリシャで出会った美麗な男とのワンナイトラブだ。文字通り「ワンナイト」のつもりだったのに、なぜか貴奈に執着した男は日本へやってきた。貴奈が所属する博物館を含むグループ企業を丸ごと買収、CEOとして乗り込んできたのだ。「お前は俺が開発する」と宣言して、貴奈を学芸員兼秘書として側に置くという。彼氏いない歴=年齢、好きな相手は壁画の住人、「だったはず」の貴奈は、昼も夜も彼の執着に翻弄され、やがて体が応えるように……

ハイスペック上司からのドSな溺愛

鳴宮鶉子
恋愛
ハイスペック上司からのドSな溺愛

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

義兄に甘えまくっていたらいつの間にか執着されまくっていた話

よしゆき
恋愛
乙女ゲームのヒロインに意地悪をする攻略対象者のユリウスの義妹、マリナに転生した。大好きな推しであるユリウスと自分が結ばれることはない。ならば義妹として目一杯甘えまくって楽しもうと考えたのだが、気づけばユリウスにめちゃくちゃ執着されていた話。 「義兄に嫌われようとした行動が裏目に出て逆に執着されることになった話」のifストーリーですが繋がりはなにもありません。

辣腕同期が終業後に淫獣になって襲ってきます

鳴宮鶉子
恋愛
辣腕同期が終業後に淫獣になって襲ってきます

処理中です...