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第三部・元彼 編

吐き出す2

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「……忘れてた、……んだけど、…………私の、初めては、…………良くないもの、だった」

 っはぁ……、と息を吐き、吸って、震えた息を吐く。

『……香澄、落ち着いて。ゆっくり息を吸って……、そう』

 佑に言われる通り、香澄は深呼吸を繰り返す。

「健二くんと初めてしたのは、大学二年生の秋だった。……多分もう、我慢しすぎて健二くんは、やけっぱちになっていたんだと思う。……夜に、寝ようとした時間に、健二くんから連絡があった。『どうしても会いたい』って言われて、家の近くまで車で来てるって言われたの」
『うん』

「健二くんと私の家、離れてるから、せっかく来たのに追い返すのも忍びなくて……、私、適当に服を着てコートを羽織って、彼の車に乗った」
『……うん、それで……?』
「『海に行こう』って言って、健二くんは車を走らせたの。私は家の近くで話して、すぐ帰るつもりだった。でも車に乗ったら降りれなくて、そのまま海まで連れて行かれた」

 佑の相槌はない。
 香澄の馬鹿さ加減に呆れたのかも分からないけれど、今は自分の事しか考えられず、口が動く。

「帰りたかったの……。でも、帰れなかった。……健二くんの醸し出す空気が怖くて、一生懸命お喋りをして誤魔化そうとしたけど……っ。助手席を倒されて、……私……」

 ギュッと目を閉じて、香澄は大きく口を開けた。
 スマホを耳元から離し、懸命に呼吸を整える。

 ――私は、レイプされた。
 ――相手が付き合っていた当時の恋人でも、意に沿わないあれはレイプだった。

 目を閉じると、まな裏にくっきりと当時の光景が蘇る。
 晩秋の冷たい月の光。
 押し寄せては引く、波の音。
 シルエットになりながらも、ギラギラとした目をした健二の顔はよく覚えている。
 車の中に香澄の小さな悲鳴が響く。
 服をむりやり脱がされ、脚を開かれた時に感じた空気の冷たさ。
 応えようとしない体にねじ込まれた指、無理に動かされて違和感しかなく、それでも濡れた音を立てた自分の体に絶望した。
『好いだろ?』と尋ねてきた健二を、ひっぱたいてやりたい気持ちになった。
 恋人なのに、されているのは彼氏彼女がするセックスなのに、香澄の気持ちも体も何一つついていっていない。

「待って!」と何度言ったか分からない。
 何に対しての「待って」なのか、自分でも理解していない。
 急に行為に及んだ事について、拉致されるようにして車で海まで連れ去られた事について、自分の気持ちも、望んで応じている訳ではない事も、すべてにおいて健二は〝待って〟くれなかった。

 ――もういいや。

 抵抗するのを諦めた香澄は、心を殺した。
 ここで下手に抵抗して、怒った健二に置いてけぼりにされては困る。
 家の近くで話してすぐ戻るつもりだったので、財布も、スマホすら持って来ていなかった。

 ――多少痛くても、大人しくしていたら終わるんだ。

 そうして、香澄は何も考えないよう努めた。

 揺れる車。
 呼気で曇っていく窓。
 健二の喘ぎ声。
 体内に出入りする異物。

 感情を殺した香澄は、人形のようにされるがままになり、涙を流していた。

 その日は茫然自失となったまま、健二の行為が終わったあと家まで返された。
〝こんな自分〟が健二と一緒にいるところを、家族に見られたら困る。
 そう思って、香澄は家の前でなく、少し離れた場所で下ろしてもらった。
 時刻は何時だったか分からない。
 けれど深夜過ぎなのは確かで、香澄が部屋にいない事に気付いた家族が、香澄の名前を呼んで近所を探し回っていた。
 歩いて帰った香澄を見て、母は泣いていたようだった。
 弟にがっつりと怒られ、父は疲れた表情をしていた。

 ――何もかも、私が悪いんだ。

 冷え切った体でベッドに潜り込み、必死に眠ろうと努力した。
 その辺りから、香澄の世界は曖昧になっていった気がする。
 一度「もういいや」と諦めた香澄は、その後健二に誘われても断らなかった。

 ――もう戻れない。

 処女を大切にしていた訳ではない。
 初めてをそんなに重要視していた訳でもない。

 けれどもう二度と、自分が〝元〟に戻れないと分かっていた。
 表向き、何事もなかったように振る舞い、大学にもきちんと通った。
 麻衣には「最近やけに明るくない?」と言われたが「普通だよ」と嘘をついた。
 嘘ではない。
「普通だよ」と自分にも言い聞かせ、〝本当〟にする必要があったのだ。

 自分は傷ついていない。
 レイプされていないし、あれは恋人同士の合意の行為だった。
 自分は可哀想ではないし、いつも通り過ごせる。

 自分も周囲も欺き続けた代償は、ストレスによる拒食と過食だった。
 食べて、吐いて、食べず、食べて、吐いて。

「……ふ……っ、う、――――ぅっ、……うっ」

 いつの間にか、スマホは香澄の手から滑り落ちていた。
 うずくまったまま嗚咽する香澄の耳に、砂地を踏みしめる足音が聞こえる。
 涙に濡れた目で顔を上げると、少し息を荒げた佑がこちらにやってくるところだ。

「――――っ……」

 両手を広げると、佑は息をついて泣きそうに顔を歪めてから、優しく抱き締めてきた。

「もう、一人じゃないよ」
「う……っ、――――うぅ……っ」

 思いきり佑を抱き締めた香澄の目から、次から次に涙が溢れてくる。
 地面に膝をついた佑を抱き締め、彼の匂いを思いきり吸い込み、肩口に顔を埋める。
 顔を伏せる直前、公園の入り口近くに久住と佐野が立っているのが見えた。
 恐らく香澄が気付いていなかっただけで、かなり前から公園に着いて見守っていてくれたのかもしれない。

「今日、行かせたのが間違いだった。心の広い彼氏を演じたかったけど、本音のまま『会わないでほしい』と言えば良かった」
「ううん……っ、佑さんのせいじゃない……っ」
「冷えるから、帰ろう」

 ――「帰ろう」って言ってくれるんだ。

 佑の優しさが胸に染み、香澄はまた新しい涙を流す。

「……うん。……帰ろう」

 立ち上がった香澄の体はすっかり冷えていた。
 けれど佑の温かい手に手を握られると、そこから全身がポカポカしてくる。
 昔の事をドッと思いだしたからか、香澄はほぼ何も話さず、ボーッとしたまま歩いた。

 途中にあったコンビニで、佑は温かいカフェオレを買ってくれた。
 それを飲んでお腹の奥を温かくすると、気持ちが一気にリラックスした気がする。
 御劔邸までの残る距離は、先ほどまでよりもしっかりとした足取りで歩けた。





「お風呂、沸かしてあるから一緒に入ろう」
「うん……」

 一緒に二階に上がり、一度私室に向かう余裕もなく、香澄は佑の寝室で服を脱いでバスルームに向かった。
 ぼんやりとしたままメイクオフし、歯磨きをしたあと、佑に促されてバスルームに入る。
 体を流してからバスタブに浸かると、目を閉じてもう開けたくない気持ちにかられた。

「……少しは落ち着いた?」

 後ろから香澄を抱き締めている佑に話し掛けられ、彼女は小さく頷く。

「今、何がしたい?」

 尋ねられ、香澄は振り向いて佑に抱きついた。
 そして濡れた――けれどとても乾いた目で佑を見つめ、自ら唇を重ねる。

「は…………」

 柔らかい唇をついばんで、息をつく。

 ――違う。
 ――健二くんと全然違う。
 ――好き。
 ――この唇は好き。
 ――もっと。

 張り詰めた表情をしていた香澄は、フッ……と微笑み、また佑に口づける。
 ちゅ、ちゅ、と何度も唇をついばみ、この世の誰よりも美しいと思える彼を愛した。
 いつもならすぐに応えて情熱的なキスをしてくる佑だが、今日は香澄がしたいように受け身になっていた。
 愛しさが溢れてキスをしているのに、香澄の眦からは涙が溢れる。

「もう大丈夫だよ」
「……うん、大丈夫。すぐ治るから」

 心配させてはいけない。
 そう思って微笑んだ香澄に、佑がちゅっと強めにキスをしてきた。

「そうじゃない。俺の腕の中でなら、どれだけでも泣いていい。感情を解放していい。そういう意味の〝大丈夫〟だよ」

 佑の言葉を聞き、ツ……ッと涙が零れる。
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