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第三部・元彼 編
開いた記憶の箱
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「デートって、私たち付き合ってないじゃない。友達……っていうのも微妙だし、再会したから同窓会的に……って思ってたんだけど」
そう言うが、健二も引かない。
「男と女が一緒に出かけるって言ったらデートだろ」
さらに何か言い返そうとしたが、飲み物が運ばれてきたので一旦言葉を引っ込めた。
「乾杯」
「……お疲れ様」
近付けられたグラスに、香澄は仕事の飲み会のように言って自分のグラスをつける。
こんな味気ない乾杯も随分久しぶりだと思いつつ、溜め息交じりにカシスオレンジを飲んだ。
「俺もさ、昔の事は悪いって思ってた訳。昔、映画館で喧嘩したあと、かなりムカついてたから、クリスマスの時もちょっと困らせてやろうって思ってた」
「〝ちょっと〟って……」
あれは「ちょっと困らせてやろう」の範疇を超えている。
「だから、あの時はそういうのの〝いい、悪い〟も曖昧だった訳。今は社会人になったし、先輩や上司から色々教えてもらった。今日だって、特に香澄を困らせる事をしてなかっただろ?」
「それは……そうだけど……」
確かに、好きな人とのデートでの対応なら「アリ」だと思った。
「でも私は、今日の外出をデートだなんて思ってない」
「俺さ、こないだのコーヒーショップで香澄を見た時、『いいな』って思ったんだ」
「ありがとう」とも言えず、香澄は黙ってカシスオレンジを飲む。
「香澄って今の彼氏といつから付き合ってるんだ?」
「……同棲したのは今年の一月から」
「俺より全然短いじゃん。俺たち付き合ってたの、二年だよな?」
健二は満足気に眉を上げ、笑う。
「……そういう問題じゃないでしょ」
香澄は大きな溜め息をつく。
先ほどから、この個室に入ってずっと気持ちが落ち着かない。
心の奥がザワザワして、閉じていた記憶の蓋が開いて何かとんでもないものが出てきそうな感覚に陥る。
「なぁ、香澄。怒るなよ」
健二が椅子の背もたれに背中を預け、トン、と足をつけてくる。
「怒ってない」
そう、怒ってはいない。
この感情に何と言う名前をつけたらいいのか、香澄にすら分かっていない。
それから料理が順番に運ばれてきて、美味しいと思うものの、向かいにいるのが健二なので心の底から味わえない。
(お店は雰囲気いいし、料理も美味しいのにな。……佑さんと来たい)
皮肉な事に、佑以外の男と二人きりになって、どんどん佑への想いが浮き上がってくる。
(やっぱり佑さんが好きだ。健二くんは今日、失敗っていう失敗をしていないけど、佑さんならもっと素敵なデートにしてくれる。つれて行ってくれる所が今日と同じコースでも、佑さんと一緒ならもっと楽しいし、幸せな気持ちになれる。もっとドキドキしたし、デートの〝あと〟の事も想像しちゃう)
人を誰かと比べるなど、本来ならしてはいけないし、失礼な事だ。
だが良くない付き合い方をした健二がよりを戻したがっているのを見ると、「何を今さら……」と思ってしまう。
「香澄だって嫌いなら付き合わなかっただろ」
「それは……」
あの時は、初めての彼氏で、健二と付き合ったらどうなるのかも分かっていなかった。
「誰だって初めて告白されたら『付き合ってみよう』って思わない?」
「その『付き合ってみよう』の判断材料にはさ、外見的要素とか優しそうとか、色々自分にとって得になりそうな感情があったんだろ?」
「…………」
否定できず、香澄は黙り込む。
確かに初対面の時、健二の事を格好いいと思った。
いわゆる〝いけてる系〟にも思えたし、付き合ったら華やかな世界を味わえるのでは、と一瞬期待してしまった。
本来の香澄は落ち着いた付き合いを望む性格なのに、あの時ばかりは舞い上がってしまって、後先の事を考えられなかった。
(私に落ち度がある)
そこに帰結してしまった香澄は、口の中の物の味すら分からなくなり、必死に嚥下する。
「俺たちがどうやって別れたか、覚えてる?」
「……ううん。あんまり覚えてない。分かってる限り、進級して違うゼミになって、自然消滅……だと思うけど」
「マジ?」
健二が目を丸くして素の声で言う。
(……違うんだ)
自分の記憶が間違えていたと知り、香澄の中でざり、と何かが擦れる。
「お前から『別れたい』って言ったの、覚えてない?」
「え……」
どちらかと言えば健二から振られたようなものと思っていたので、香澄は自分の記憶が信じられなくなり混乱する。
「ど……して……。私……覚えてない……」
そう言った途端、健二にはぁ……、と大きな溜め息をつかれ、香澄は付き合っていた当時のようにビクッと肩を跳ねさせた。
――あの時も、「健二くんをガッカリさせたら駄目だ」と必死に思っていた。
今は違うのに。
佑と付き合っているから、健二などどうでもいいのに、なぜここまで心が騒ぐのか分からない。
「都合のいいところは覚えてないって、便利だよなぁ……」
呆れたように言われ、胸の奥に穴が空いたような虚脱感を覚える。
「……そんなつもりじゃ……」
ドキン、ドキン……と心臓が嫌な音を立てる。
「喰わないの?」
食べる手がすっかり止まってしまった香澄に、健二が問いかけてくる。
「……うん、お腹一杯になっちゃった。ごめん」
「じゃあ、俺喰うわ。もったいねーし」
健二は皿に残っていた香澄の分の食事を箸で取り、口に運ぶ。
〝残りがもったいないから食べる〟と言われたら、いつもの香澄なら何も感じず「食べてくれてありがとう」と思っていただろう。
だが今は、健二は何も言っていないのに「せっかく俺がこの店に連れて来てやったのに、残しやがって」という声が聞こえるような気がしている。
ガンガンと頭が痛み、過去にも似たような思いを抱いて苦しんでいたのをフッと思いだした。
麻衣には「考えすぎだよ」と笑い飛ばされ、時に心配もされたが、あの時の香澄は健二の言葉、行動にいちいち振り回されていた。
「嫌われたらどうしよう」「怒らせたくない」そんな感情ばかりに支配されていたと思う。
太腿の上でギュッと両手を握り、香澄は俯いて固まる。
そんな彼女の前で健二はマイペースに食を進め、残っていたビールも飲みきってから息をついた。
「……かーすみ」
「わっ」
放心していたところ、健二がソファ席の隣に座ってきた。
「や……っ、めて。近い……っ」
とっさに壁際に逃げたが、そちらは勿論逃げ場がない。
「何だよ、付き合ってた仲なのに」
「いっ……今は、付き合ってない! 他人でしょ!」
(まずい!)
完全個室のこの店に入った時から嫌な予感はしていたが、今日一日の健二が紳士的だったのと、もう予約してしまったのでは断れないと思い入店してしまった。
(久住さんと佐野さんに知らせないと!)
彼らもこの店に入っているのなら、どこかの個室にいるに違いない。
「わ、私、お手洗い行ってくる!」
「えぇ?」
健二が体を押しつけ、無遠慮に香澄の胸を揉んできた。
「!」
ぐぅっと例えようのない嫌悪感が襲い、気分が悪くなる。
(駄目……。もうちょっと、我慢しなきゃ)
香澄は無理に立ち上がり、健二の体を跨いで個室を出ようとした。
「待てよ!」
思いきり腕を引っ張られ、健二に抱き締められる。
顔の近くでアルコールの入った荒い息が吐かれ、酒の匂いを感じてグワッと忘れていた過去を思いだした。
「…………ぁ…………」
――叫んだ。
つもりだった。
あの時、車の天井を見上げながら、香澄は体を無遠慮にまさぐる手をただ我慢するしかできなかった。
叫ぼうとして、叫んだら怒られると思って必死に何もかもを呑み込んだ。
〝そんなつもり〟はなかった。
あの時はただ、呼ばれたから彼の車に乗っただけで――。
そう言うが、健二も引かない。
「男と女が一緒に出かけるって言ったらデートだろ」
さらに何か言い返そうとしたが、飲み物が運ばれてきたので一旦言葉を引っ込めた。
「乾杯」
「……お疲れ様」
近付けられたグラスに、香澄は仕事の飲み会のように言って自分のグラスをつける。
こんな味気ない乾杯も随分久しぶりだと思いつつ、溜め息交じりにカシスオレンジを飲んだ。
「俺もさ、昔の事は悪いって思ってた訳。昔、映画館で喧嘩したあと、かなりムカついてたから、クリスマスの時もちょっと困らせてやろうって思ってた」
「〝ちょっと〟って……」
あれは「ちょっと困らせてやろう」の範疇を超えている。
「だから、あの時はそういうのの〝いい、悪い〟も曖昧だった訳。今は社会人になったし、先輩や上司から色々教えてもらった。今日だって、特に香澄を困らせる事をしてなかっただろ?」
「それは……そうだけど……」
確かに、好きな人とのデートでの対応なら「アリ」だと思った。
「でも私は、今日の外出をデートだなんて思ってない」
「俺さ、こないだのコーヒーショップで香澄を見た時、『いいな』って思ったんだ」
「ありがとう」とも言えず、香澄は黙ってカシスオレンジを飲む。
「香澄って今の彼氏といつから付き合ってるんだ?」
「……同棲したのは今年の一月から」
「俺より全然短いじゃん。俺たち付き合ってたの、二年だよな?」
健二は満足気に眉を上げ、笑う。
「……そういう問題じゃないでしょ」
香澄は大きな溜め息をつく。
先ほどから、この個室に入ってずっと気持ちが落ち着かない。
心の奥がザワザワして、閉じていた記憶の蓋が開いて何かとんでもないものが出てきそうな感覚に陥る。
「なぁ、香澄。怒るなよ」
健二が椅子の背もたれに背中を預け、トン、と足をつけてくる。
「怒ってない」
そう、怒ってはいない。
この感情に何と言う名前をつけたらいいのか、香澄にすら分かっていない。
それから料理が順番に運ばれてきて、美味しいと思うものの、向かいにいるのが健二なので心の底から味わえない。
(お店は雰囲気いいし、料理も美味しいのにな。……佑さんと来たい)
皮肉な事に、佑以外の男と二人きりになって、どんどん佑への想いが浮き上がってくる。
(やっぱり佑さんが好きだ。健二くんは今日、失敗っていう失敗をしていないけど、佑さんならもっと素敵なデートにしてくれる。つれて行ってくれる所が今日と同じコースでも、佑さんと一緒ならもっと楽しいし、幸せな気持ちになれる。もっとドキドキしたし、デートの〝あと〟の事も想像しちゃう)
人を誰かと比べるなど、本来ならしてはいけないし、失礼な事だ。
だが良くない付き合い方をした健二がよりを戻したがっているのを見ると、「何を今さら……」と思ってしまう。
「香澄だって嫌いなら付き合わなかっただろ」
「それは……」
あの時は、初めての彼氏で、健二と付き合ったらどうなるのかも分かっていなかった。
「誰だって初めて告白されたら『付き合ってみよう』って思わない?」
「その『付き合ってみよう』の判断材料にはさ、外見的要素とか優しそうとか、色々自分にとって得になりそうな感情があったんだろ?」
「…………」
否定できず、香澄は黙り込む。
確かに初対面の時、健二の事を格好いいと思った。
いわゆる〝いけてる系〟にも思えたし、付き合ったら華やかな世界を味わえるのでは、と一瞬期待してしまった。
本来の香澄は落ち着いた付き合いを望む性格なのに、あの時ばかりは舞い上がってしまって、後先の事を考えられなかった。
(私に落ち度がある)
そこに帰結してしまった香澄は、口の中の物の味すら分からなくなり、必死に嚥下する。
「俺たちがどうやって別れたか、覚えてる?」
「……ううん。あんまり覚えてない。分かってる限り、進級して違うゼミになって、自然消滅……だと思うけど」
「マジ?」
健二が目を丸くして素の声で言う。
(……違うんだ)
自分の記憶が間違えていたと知り、香澄の中でざり、と何かが擦れる。
「お前から『別れたい』って言ったの、覚えてない?」
「え……」
どちらかと言えば健二から振られたようなものと思っていたので、香澄は自分の記憶が信じられなくなり混乱する。
「ど……して……。私……覚えてない……」
そう言った途端、健二にはぁ……、と大きな溜め息をつかれ、香澄は付き合っていた当時のようにビクッと肩を跳ねさせた。
――あの時も、「健二くんをガッカリさせたら駄目だ」と必死に思っていた。
今は違うのに。
佑と付き合っているから、健二などどうでもいいのに、なぜここまで心が騒ぐのか分からない。
「都合のいいところは覚えてないって、便利だよなぁ……」
呆れたように言われ、胸の奥に穴が空いたような虚脱感を覚える。
「……そんなつもりじゃ……」
ドキン、ドキン……と心臓が嫌な音を立てる。
「喰わないの?」
食べる手がすっかり止まってしまった香澄に、健二が問いかけてくる。
「……うん、お腹一杯になっちゃった。ごめん」
「じゃあ、俺喰うわ。もったいねーし」
健二は皿に残っていた香澄の分の食事を箸で取り、口に運ぶ。
〝残りがもったいないから食べる〟と言われたら、いつもの香澄なら何も感じず「食べてくれてありがとう」と思っていただろう。
だが今は、健二は何も言っていないのに「せっかく俺がこの店に連れて来てやったのに、残しやがって」という声が聞こえるような気がしている。
ガンガンと頭が痛み、過去にも似たような思いを抱いて苦しんでいたのをフッと思いだした。
麻衣には「考えすぎだよ」と笑い飛ばされ、時に心配もされたが、あの時の香澄は健二の言葉、行動にいちいち振り回されていた。
「嫌われたらどうしよう」「怒らせたくない」そんな感情ばかりに支配されていたと思う。
太腿の上でギュッと両手を握り、香澄は俯いて固まる。
そんな彼女の前で健二はマイペースに食を進め、残っていたビールも飲みきってから息をついた。
「……かーすみ」
「わっ」
放心していたところ、健二がソファ席の隣に座ってきた。
「や……っ、めて。近い……っ」
とっさに壁際に逃げたが、そちらは勿論逃げ場がない。
「何だよ、付き合ってた仲なのに」
「いっ……今は、付き合ってない! 他人でしょ!」
(まずい!)
完全個室のこの店に入った時から嫌な予感はしていたが、今日一日の健二が紳士的だったのと、もう予約してしまったのでは断れないと思い入店してしまった。
(久住さんと佐野さんに知らせないと!)
彼らもこの店に入っているのなら、どこかの個室にいるに違いない。
「わ、私、お手洗い行ってくる!」
「えぇ?」
健二が体を押しつけ、無遠慮に香澄の胸を揉んできた。
「!」
ぐぅっと例えようのない嫌悪感が襲い、気分が悪くなる。
(駄目……。もうちょっと、我慢しなきゃ)
香澄は無理に立ち上がり、健二の体を跨いで個室を出ようとした。
「待てよ!」
思いきり腕を引っ張られ、健二に抱き締められる。
顔の近くでアルコールの入った荒い息が吐かれ、酒の匂いを感じてグワッと忘れていた過去を思いだした。
「…………ぁ…………」
――叫んだ。
つもりだった。
あの時、車の天井を見上げながら、香澄は体を無遠慮にまさぐる手をただ我慢するしかできなかった。
叫ぼうとして、叫んだら怒られると思って必死に何もかもを呑み込んだ。
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