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思い出せない記憶
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――が。
「姫さま、ケイシーでございます。温かいスープを持って参りました」
耳慣れた声は、ずっと側にいてくれた侍女のものだった。
「あぁ……。ケイシー。あなた、いてくれたのね」
クライヴではなく、若干ガッカリした自分がいた。けれど、この見知らぬ場所でケイシーがいるというのは、非常に心強い。
「顔を見せず、申し訳ございません。ですが、クライヴ殿下がいらっしゃいましたので……」
天蓋が開き、ケイシーが姿を現す。ずっと側にいてくれた侍女を見て、ホ……とモニカは安堵する。
「ケイシー。あなたも……クライヴさまを知っているの?」
「えっ?」
ポットから湯気を立てるスープを注ごうとして、ケイシーは動きを止めた。レードルからスープの雫が落ち、陶器の深皿に水玉を作る。
ケイシーの顔は笑みを作り――けれど、どこか引き攣っていた。
「姫さま? クライヴ殿下は、姫さまの……」
「……婚約者、みたいね?」
緑色の目は冗談を言っておらず、困ったように微笑みながら侍女を見る。
「え……。本当……です、か?」
知らずと深皿を持ったケイシーの左手はワゴンの上に落ち、レードルを持った右手もスープポットの中に戻ってしまっていた。
「あなたは無事なようで良かったわ。ほんの少しだけ思い出したんだけれど、馬車に乗っていて事故に遭ったみたいね? その時……、強く頭を打ったみたいだわ」
額に巻かれた包帯は、モニカの思い出せない記憶のようにしっかりとしている。
「姫さま……」
今にも泣き出しそうな顔をするケイシーに、モニカは柔らかく笑った。
「大丈夫よ。意識はハッキリしているし、ほんの少し頭が痛む以外はこれといって不便もないの。私は幸運だったわ」
「本当に姫さまは……。器が大きいと言いますか、前向きと言いますか……」
苦笑したケイシーは、改めてシチューを注ぐ。
「私はあのクライヴさまと結婚することになっていたの?」
「……忘れてしまわれているのですね。はい、姫さまとクライヴ殿下は、十年以上のお付き合いです。幼なじみのような親しさがありながら、思春期になるにつれて淡い恋愛と変わりました。傍から見ていて、とても可愛らしいカップルなのですよ」
「そう……なの?」
懐かしむような言い方をするケイシーの言葉を聞いても、モニカの記憶に『それ』はない。
「十歳前に出会われた時は、純粋に好き合われていました。思春期になってクライヴ殿下が姫さまに、好意の裏返しからくる意地悪をしてしまったりなどで、ちょっとした事件もありましたね。ですが十代後半になるにつれて、たどたどしく男女の想いをお伝えになりました。その頃には、両国の国王陛下もお二人をご結婚させようとお思いになっていたようです」
「まぁ、王家ぐるみだったのね」
人ごとのように驚くモニカに、ケイシーはスープを食べるよう勧める。モニカは銀のスプーンを使い、煮込まれたスープを口にし始めた。
上品にスープを食べる姿は、なんら変わりないいつものモニカだ。
けれど、彼女はあんなにも幸せそうに語っていたクライヴのことを、忘れてしまっている。よりによって、嫁ぐその日に――。
(なんて皮肉なことなのかしら)
ケイシーも、クライヴの父の病状は知っている。
だから早い段階から両国の絆を高め、結婚の話を進めていった。クライヴにもモニカにも、他の縁談は一切持ち込まなかった。
満を持して、結婚に臨もうとしていた日だったのに――。
「クライヴ殿下は姫さまを、時にからかったりしながら大きな愛で包まれていました。姫さまもその愛に、はにかみながらも……。時々恥ずかしくて意地を張ったりしてしまったこともありましたが、それは殿下も了解の上です。お二人の関係は、とても良好でしたよ」
「そう……なのね」
遠慮がちに微笑むモニカを見て、ケイシーの胸に「おいたわしい」という気持ちが沸き起こる。
「姫さま、ご不便がありましたら何でもこのケイシーにお申し付けを。私も一刻も早く姫さまの記憶が戻るよう、お手伝い致します」
「ええ、ありがとう」
それからケイシーは下がろうとしたが、モニカによって引き留められた。
自分とクライヴに関わることをすべて話して欲しいと乞われたので、モニカがスープを食べ終えるまで話す。
「私は……、すべての状況を考えた上で、やはり嫁ぐべきなのかしら」
スープを食べ終えて水を口にしたモニカは、真剣な顔でケイシーに問う。
「一介の侍女に過ぎない私の口から、姫さまを指示するようなことは申し上げられません。ですが、両国の王家、そして民がこの度のご婚儀を待ち侘びておりました」
「一国の姫として……。これは避けてはいけない道よね」
けれど……。
胸の底にあるのは、クライヴという『ほぼ初対面』の人への気持ち。
悪い人ではなさそうだと分かったし、自分を心から心配してくれていたのも知った。きっと、ケイシーが言うように深く自分を想ってくれているのだと思う。
「姫さまのご憂慮はお察し致します。愛した記憶の……ない方と夫婦生活をするというのも、不安がありますよね」
ケイシーがそう案じて同意してくれるだけで、心が安堵を覚える。
「ありがとう。ケイシーがそう分かってくれていて……、私とても安心しているの。だからきっと、この結婚を引き受けてもやっていけるわ。一国の王女として、他国の王子との結婚をお断りする訳にいかないもの。ましてや、お義父さまのお命が危ぶまれている場合で……、私の我が儘は言えない」
そうやって言葉を口にすると、決意が固まってきた気がする。
「姫さま……」
「ケイシー、私はウィドリントンの姫だわ。第一に国と民を思い、そのためなら忘れてしまった人だとしても、愛してみせる」
言い放つモニカは凛とした美しさを見せ、ケイシーは思わず見惚れる。
「姫さま……。私、ずっとお側にお仕え致します……!」
深くお辞儀をするケイシーの赤毛を見て、モニカはまたクライブが現れたら話すことを決めていた。
「姫さま、ケイシーでございます。温かいスープを持って参りました」
耳慣れた声は、ずっと側にいてくれた侍女のものだった。
「あぁ……。ケイシー。あなた、いてくれたのね」
クライヴではなく、若干ガッカリした自分がいた。けれど、この見知らぬ場所でケイシーがいるというのは、非常に心強い。
「顔を見せず、申し訳ございません。ですが、クライヴ殿下がいらっしゃいましたので……」
天蓋が開き、ケイシーが姿を現す。ずっと側にいてくれた侍女を見て、ホ……とモニカは安堵する。
「ケイシー。あなたも……クライヴさまを知っているの?」
「えっ?」
ポットから湯気を立てるスープを注ごうとして、ケイシーは動きを止めた。レードルからスープの雫が落ち、陶器の深皿に水玉を作る。
ケイシーの顔は笑みを作り――けれど、どこか引き攣っていた。
「姫さま? クライヴ殿下は、姫さまの……」
「……婚約者、みたいね?」
緑色の目は冗談を言っておらず、困ったように微笑みながら侍女を見る。
「え……。本当……です、か?」
知らずと深皿を持ったケイシーの左手はワゴンの上に落ち、レードルを持った右手もスープポットの中に戻ってしまっていた。
「あなたは無事なようで良かったわ。ほんの少しだけ思い出したんだけれど、馬車に乗っていて事故に遭ったみたいね? その時……、強く頭を打ったみたいだわ」
額に巻かれた包帯は、モニカの思い出せない記憶のようにしっかりとしている。
「姫さま……」
今にも泣き出しそうな顔をするケイシーに、モニカは柔らかく笑った。
「大丈夫よ。意識はハッキリしているし、ほんの少し頭が痛む以外はこれといって不便もないの。私は幸運だったわ」
「本当に姫さまは……。器が大きいと言いますか、前向きと言いますか……」
苦笑したケイシーは、改めてシチューを注ぐ。
「私はあのクライヴさまと結婚することになっていたの?」
「……忘れてしまわれているのですね。はい、姫さまとクライヴ殿下は、十年以上のお付き合いです。幼なじみのような親しさがありながら、思春期になるにつれて淡い恋愛と変わりました。傍から見ていて、とても可愛らしいカップルなのですよ」
「そう……なの?」
懐かしむような言い方をするケイシーの言葉を聞いても、モニカの記憶に『それ』はない。
「十歳前に出会われた時は、純粋に好き合われていました。思春期になってクライヴ殿下が姫さまに、好意の裏返しからくる意地悪をしてしまったりなどで、ちょっとした事件もありましたね。ですが十代後半になるにつれて、たどたどしく男女の想いをお伝えになりました。その頃には、両国の国王陛下もお二人をご結婚させようとお思いになっていたようです」
「まぁ、王家ぐるみだったのね」
人ごとのように驚くモニカに、ケイシーはスープを食べるよう勧める。モニカは銀のスプーンを使い、煮込まれたスープを口にし始めた。
上品にスープを食べる姿は、なんら変わりないいつものモニカだ。
けれど、彼女はあんなにも幸せそうに語っていたクライヴのことを、忘れてしまっている。よりによって、嫁ぐその日に――。
(なんて皮肉なことなのかしら)
ケイシーも、クライヴの父の病状は知っている。
だから早い段階から両国の絆を高め、結婚の話を進めていった。クライヴにもモニカにも、他の縁談は一切持ち込まなかった。
満を持して、結婚に臨もうとしていた日だったのに――。
「クライヴ殿下は姫さまを、時にからかったりしながら大きな愛で包まれていました。姫さまもその愛に、はにかみながらも……。時々恥ずかしくて意地を張ったりしてしまったこともありましたが、それは殿下も了解の上です。お二人の関係は、とても良好でしたよ」
「そう……なのね」
遠慮がちに微笑むモニカを見て、ケイシーの胸に「おいたわしい」という気持ちが沸き起こる。
「姫さま、ご不便がありましたら何でもこのケイシーにお申し付けを。私も一刻も早く姫さまの記憶が戻るよう、お手伝い致します」
「ええ、ありがとう」
それからケイシーは下がろうとしたが、モニカによって引き留められた。
自分とクライヴに関わることをすべて話して欲しいと乞われたので、モニカがスープを食べ終えるまで話す。
「私は……、すべての状況を考えた上で、やはり嫁ぐべきなのかしら」
スープを食べ終えて水を口にしたモニカは、真剣な顔でケイシーに問う。
「一介の侍女に過ぎない私の口から、姫さまを指示するようなことは申し上げられません。ですが、両国の王家、そして民がこの度のご婚儀を待ち侘びておりました」
「一国の姫として……。これは避けてはいけない道よね」
けれど……。
胸の底にあるのは、クライヴという『ほぼ初対面』の人への気持ち。
悪い人ではなさそうだと分かったし、自分を心から心配してくれていたのも知った。きっと、ケイシーが言うように深く自分を想ってくれているのだと思う。
「姫さまのご憂慮はお察し致します。愛した記憶の……ない方と夫婦生活をするというのも、不安がありますよね」
ケイシーがそう案じて同意してくれるだけで、心が安堵を覚える。
「ありがとう。ケイシーがそう分かってくれていて……、私とても安心しているの。だからきっと、この結婚を引き受けてもやっていけるわ。一国の王女として、他国の王子との結婚をお断りする訳にいかないもの。ましてや、お義父さまのお命が危ぶまれている場合で……、私の我が儘は言えない」
そうやって言葉を口にすると、決意が固まってきた気がする。
「姫さま……」
「ケイシー、私はウィドリントンの姫だわ。第一に国と民を思い、そのためなら忘れてしまった人だとしても、愛してみせる」
言い放つモニカは凛とした美しさを見せ、ケイシーは思わず見惚れる。
「姫さま……。私、ずっとお側にお仕え致します……!」
深くお辞儀をするケイシーの赤毛を見て、モニカはまたクライブが現れたら話すことを決めていた。
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