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過去5-5

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 自宅に帰っても葵は戻っていなかった。夜が更け、日付が変わってから京都の美作家から電話があった。
「はい、時人です」
 陣内から子機を渡されて電話口に出ると、受話器の向こうにいたのは葵ではなく、その母の昭だった。
「夜分、えらいすみません。葵の母です」
「葵さん、そちらに帰られましたか?」
「ええ、連絡もよこさず急なもんでしたさかい、私もびっくりしてまいまして。けど、久し振りにあの子に会いましたが、特に変わった様子もなく外を出歩けたみたいで、二重にびっくりしました。宇佐美さんの芳でえらい良くしてもろたお陰やと思ってます。ほんまにおおきに」
「いいえ、お気にせず。それで、葵さんの様子はどんな感じなのでしょうか?」
「それが……、部屋で泣いてばかりで、何があったのか話そうとしやしません。時人さん、なんやご存知でしょうか?」
 昭に尋ねられ、時人は散々迷う。だが「事情は全部知っておきたいんです」という言葉に負けて、白根の家であった事や葵が感情的になり自分も上手に受け答えができなかった事を口にする。
「すみません。俺がこれからちゃんと葵さんを支えていくと決めたのに……」
「いいえ、時人さんはよぉしてくれはってます。ほんまにおおきに。けど、親ながらに思いますが、葵も実家に帰れへんかったり、思うように外出できひんかったり、大学もお休みしたり……。色々我慢せざるをえない状況に、ちょっと爆発してもうたのかもしれません」
「そう……、ですね。葵さんには、随分色んな事を我慢させてしまった気がします」
「時人さんはほんまに優しい方ですねぇ。あの子、けっこう積極的っちゅうか、自分の我を通すとこもあるでしょう」
 昭の声には母親らしい優しさが含まれ、時人はその母性に感謝する。本来なら自分の娘を化け物にしたと、罵られ恨まれても仕方がないのに、美作の両親は懸命に歩み寄ろうとしてくれている。
「葵さん、たまにグイグイくる所もあるんですが、そういう所も含めて、とても好きなんです」
 思い出すのは、初めてあったあの夏に葵が興味を隠さず時人を知りたがった事。彼女の有無や合コンに行った事などで、面白いほど反応していた純粋な感情。
 いつだって記憶には葵のあの大きな目があり、じっとこちらを見て時人の隠された気持ちを知ろうとしている。そしてそれを、時人はずっと心地よく思っていたのだ。
(好きなんだ)
 葵が離れてしまってから、時人はその思いを再確認した。
「時人さん、もしよかったらお正月にでもこっち来やはりませんか? 大したお構いはできやしませんが、葵と一緒に京都の街歩いたり、東京とは違う過ごし方もええかもしれませんね。葵も馴染んだ場所で気持ちが緩むかもしれません」
「はい。ご迷惑でないのなら伺って葵さんに会いたいです。今度こそちゃんと会って自分の気持ちをしっかり伝えたいです」
「はい。そのお気持ち、ちゃんと聴きました。今度、葵に直接言ったってくださいね」
「どうもありがとうございます。では、三が日をすぎた辺りに伺います」
「楽しみに待ってますね」
 通話を切る間際に時人は重ねて申し訳ないという旨と、葵を宜しく頼むと昭に伝え、静かに子機のボタンを押した。
「来年になるまで……、少し気持ちを落ち着かせておこう」
 陣内が去ってから独り言ちると、葵がいつも座っていたリクライニングソファに目をやる。
 この二年間、いつもすぐ側に愛しい気配を感じていたのに、今はこの屋敷にも、東京にすら葵はいない。
「恋をするって……、こんなに心を使う事なのか」
 緩く握った拳を胸に当てると、葵を想う度に心臓が切なく脈打っている気がする。
「もう少ししたら……、迎えに行きますからね」
 数時間前に耳にした白根家での明るい笑い声は、時人の心の中で温かな火のように灯っていた。けれど葵がいない今、すべてが嘘で心の火も消えてしまったように感じた。


 二〇一六年 一月四日
 新年を迎えて、恒例の宇佐美家の年を取らない男衆と、普通に年を取る女衆との奇妙な新年会が終わった。一日休憩してから時人は京都へ発つ準備をする。
 十二月に昭から電話を受けてからすぐ父に相談し、父のつてにより何とか京都中心部にあるホテルを取る事ができた。その間に母が美作の両親にと手土産を用意してくれ、時人は小さめのスーツケースに数日分の衣類などを詰め込んだ。
 葵を説得して東京へ一緒に帰るまで何日かかるか分からないし、彼女の気持ちがどうなっているのか分からない。取り敢えず大体の荷物をまとめれば、母が「お洗濯はホテルの方に頼めばいいわ」と提案してくる。
 つくづく自分は「宇佐美のお坊ちゃん」で、いざという時にこうして両親に頼らないとならないのは情けない。だが今年大学四年生を終えようとしている時人は、来年の春から父の仕事の手伝いをする事になっている。
 葵に関して色々親に甘えてしまった事も、時臣は「働いて恩を返してくれればいい」と言うのだった。

 そして時人は約束の三が日が明けた一月四日に京都駅におり立った。年末に昭から手紙を受け取り、それに新幹線の時間に合わせて京都駅に迎えに行くと書いてあった。なので、先方に合わせてホテルに荷物を置いてから、駅前の目立つ所で昭を待っていた。
 今まで京都には一度だけ修学旅行で訪れた事がある。その時はあまり神社仏閣などに興味がなかったのだが、葵に出会って京都に興味を持ってから、自分で調べ直したりなどしている。その結果、今では認識を改めて日本古来の魅力を持つ魅力的な街だと思っていた。
 知れば知るほど興味がわいて調べたいと思い、好きになる。
 それは人に対して――葵についても同じだ。
 初めて出会った時に一目惚れしてから、彼女の事を知れば知るほど好きになっていった。たとえ彼女が病んでしまって蛹のようになっても、自分が牙をたててしまって人でなくなったとしても、葵は葵だ。
(多少時間がかかっても構わない。また、葵さんと暮らすんだ)
 好きな人と同じ空間にいる幸せという、一種の麻薬のような快楽に時人は夢中になり、どうしても葵を連れ戻したいと思っていた。それが自分の独りよがりな願いだと承知し、近い将来結婚するのだからと自分に言い訳をする。
 やがて中央口の前に高級そうな国産車が静かに停車し、そこからやはり着物姿の昭が現れて頭を下げた。
「お久し振りです」
 車を待たせてはいけないと時人は小走りに近付き、長身を折り曲げるように頭を下げる。
「新年の時はご丁寧なお年賀をどうもおおきに。さ、乗ってください」
 言われた通り後部座席へ乗り込むと、その隣に昭も乗り込む。
「夫は新年早々、仕事の関係で出てまして堪忍です。夕方には戻りますさかい」
「いいえ、こちらもご厚意に甘えてしまってすみません。両親からも宜しく伝えるようにと言われています」
 車はそのまま静かに塩小路通から堀川通へ抜け、北へ上がってゆく。
「葵さんは……お元気ですか?」
 待ちきれずというような時人の問いに、昭は「はい……」と返事をしてから考え込むように黙ってしまった。
「何か……あったんですか?」
 何もなければすぐに「元気ですよ」と返事があるはずだ。昭の沈黙に時人は嫌な予感がし、彼女の言葉の先を促す。
 京都へ来て葵に会えると思っていた気持ちは、急に不安に曇っていった。
「葵は……、眠ってまいました」
「眠って……?」
 鸚鵡返しに問う時人に、昭は申し訳なさそうな、底知れない悲しみを秘めた目で微かに笑った。
「うちに帰ってきて、しばらくは泣き暮らしてたんです。一華と沙夜を襲ってまう夢をみたとか、夜寝るのも怖い感じで。そして何べんも『時人さんに申し訳ない』って、ずっと泣いてばかりで……」
 葵が深く傷ついている事を察し、時人は静かに息を吐き出した。
「……俺が、葵さんを迷惑に思う事なんてないのに……」
「葵、そのまま使ってへん離れに入り込んで、深く眠ってもうたんです。呼び掛けても揺すっても、叩いても起きひんくらい、深く深く……。不思議な事に死んだみたいに硬直してるんですが、呼吸はしてるんです。それを見て、『あぁ、この子は自分の意志でこうなったんや』と思いまして……。けど、もしかしたら時人さんの声になら、目を覚ましてくれるかもしれませんね」
 昭の言葉に時人は深く静かなショックを受け、すぐ上手な受け答えができなかった。たっぷり五秒ほど沈黙してから、「必ず起こしてみせます」と掠れた声で呟く。
 膝の上で握った拳は震え、目蓋の裏には青白い顔をして深く眠っている葵が浮かび上がるようだ。
「えらいすみません。葵は時人さんにご迷惑かけてばかりですね」
 寂しそうに言う昭の横顔は、去年の春に宇佐美家を訪れた時よりもずっと老け込んで見えた。
「そんな事ないです。俺は本当に葵さんが好きなんです」
 もう謝らないでほしいと思う時人は、ただただ葵を想うしかできない。
 そんな二人の心境とは裏腹に車はスムーズに走り、真っ直ぐ北へ上がって下鴨へ向かった。

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