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「はぁ、お腹いっぱいや」
美来の手料理の後に立派なケーキを食べ、葵は満足そうに腹をさする。
特別な処理をしない家庭料理でも、葵は普通に食べて楽しむ事ができた。子供達がいるので刺激の強い食べ物も出ず、葵は特に不自由する事なく姉の手料理を満喫したのだ。
「美味しかったです。美来さん」
時人の味覚は相変わらずだったが、どうしても食べられないという訳ではない。「苦手な物を食べる」ぐらいの気持ちで口にすれば、なんとかなるものだ。
「いち、お手伝いする~!」
「さやも!」
プレゼントをもらった一華と沙夜は、葵に「ママのお手伝いしなあかんね」と言われ、張り切っていた。食べ終わった食器を一華が台所に戻し始め、美来の「気を付けてね」という声の中姉妹はちょろちょろと居間と台所とを往復する。
が、当たり前の結果というように――。
「あーっ!」
パリンという音がして沙夜がコップを落としてしまい、美来が「もぉ」と立ち上がる。
「ママ、ごめんなさい」
困り顔になった沙夜は慌てて割れたコップを片付けようとし、その時に「あっ」と小さな悲鳴と共に、時人と葵の鼻に若い血の香りがした。
「……!」
隣で葵の鼻がスンッと鳴ったのを聞いて、時人は彼女の背に手をやった。それを知らない白根家の家族は、台所で騒ぎの収拾をつけようとしている。
「さやのドジ~!」
「ママ、血が出たぁ!」
「パパ、消毒と絆創膏持ってきて」
「はいはい」
腰を浮かし掛けた葵は、時人が膝に手を置くと座り直す。けれど落ち着きなく指先で唇を弄り回していた。
「葵さん、大丈夫ですか」
「はい、平気です……。我慢です」
口ではそう言っているものの、葵の指はせわしなく唇を触り、喉元は頻繁に生唾を嚥下していた。
「さっちゃんの血を欲しがるなんて、あきません」
白根の家族に聞こえないようにブツブツと言う葵の口元は、今にも牙が伸びてしまいそうになるのを堪えていた。唇がめくれて歯を剥こうとするのをなんとかしようと、葵は両手で口元を覆い、沙夜の姿が見えないように上体を伏せてしまう。小さく震えながら己の本性と戦っている葵の背中を、時人は撫で続ける。その間、沙夜の手当ては終わったようだった。
「いちさやは離れてて」
「はーい」
「ママごめんなさーい」
台所を追い出された沙夜は、指に巻き付けられた絆創膏を見て、名誉の傷というように葵に指を差し出してきた。
「葵ちゃん、ケガしちゃった」
防水加工がされた絆創膏越しにも沙夜の血の香りがし、葵を惑わせる。
「さっちゃん、やめて……ごめんね」
顔を伏せたまま弱々しく言う葵を、一華が「具合悪いの?」と優しく撫でた。その様子に智治も変化を感じたのだろうか。
「葵ちゃん?」
様子を確かめる声に葵は恐る恐る顔を上げ――、その顔を見た智治が固まった。
「葵ちゃん……、目が」
「えっ?」
必死になって血の誘惑を我慢していたのに、何か変化が起こってしまったのだろうか。
不安になって時人を見た葵の目は、爛々と赤く光っていた。
「嫌や、なに?」
慌てて葵はバッグから手鏡を出し、自分の顔を確認して血の気を引かせた。
「――っ! ごめ、ごめんね!」
ボロッと涙が零れ、葵は慌てて立ち上がるとマフラーやコートを鷲掴みにし、玄関へ向かう。
「葵ちゃん!?」
「葵ちゃん、帰っちゃうの?」
「葵?」
台所の床に散らばった破片を片付けようとしていた美来も異変に気付く。時人はすぐに葵の後を追っていた。
「ごめんなさい! ごめんなさい! 私が悪いんです」
焦った葵はそんな風にしか謝れず、ブーツのファスナーを上げるのももどかしく、夜の住宅街へまろび出た。
「突然すみません、お邪魔しました。ご挨拶はまた」
コートに腕を通す間もなく、時人はおざなりに頭を下げて葵の後を追う。
「葵! 時人さん!」
何が起こったのか分かっていない美来は、二人を追いかけて外に出る。しかし二人が走って行ってしまったので、呆然としたまま家の前で見送るしかできないでいた。
「葵さん、待って! 葵さん!」
冷えた冬の空気の中、葵は白い息を吐きながらひた走る。
「葵さん! コートを着て! 冷静になってください!」
時人が声を上げても葵は立ち止まらず、住宅地の角にある小さな公園の前で時人は葵の腕を掴んだ。
「葵さん!」
ハァハァと息を切らして二人は立ち止まり、時人に腕を掴まれたまま葵は嗚咽し始める。
「う……っ、あぁっ、わた、私……っ、さっちゃんの血がほしいって……っ」
「仕方がないです。けど、我慢したじゃないですか。大丈夫」
泣き崩れる葵にコートを羽織らせ、自分もコートに腕を通すと葵を抱き締めた。腕の中で葵は酷く震え、自己嫌悪に陥っている。
「葵さん……、こういう事だってあるんです。刺激されたり、我慢したり、そうやって折り合いをつけていきながら、俺たちは人の間で生きていくんです」
「分かってます……っ、分かってますけど……っ、気持ちが追い付いていかへんのです……っ! あないにかいらしい子が血を出して、可哀想やて思う前に『舐めたい』って思うやなんてっ」
葵が心の底から自分を恐れ、泣く。人と化け物の部分がせめぎ合い、鎬を削る。あらゆる意味で脆くなっている葵の人の気持ちは、今にもクシャリと潰れてしまいそうだった。
「帰りましょう。今日はお祝いできただけでもよしとしましょう」
自分の腕の中で泣きじゃくる葵を慰め、時人はゆっくりと歩き出す。
「……かえります」
「そうですね。帰って二人で飲み直すのもいいですね」
「私、京都に帰ります」
「……えっ?」
葵が帰宅する事に頷いてくれたかと思いきや、「京都に」という言葉がついて時人は振り返る。
「私……、このままあの子たちの近くにいてたらあかんのです。慣れたら血の誘惑に勝てるのかもしれません。けど、まだ二年しか経ってへんやないですか。私、まだ未熟なんですっ! 時人さんみたいに色んな事に耐えて、淡々と過ごすなんてできひんのですっ」
「……俺は……」
自分が淡々と生きてきたと言われ、時人は何も言えなくなる。
確かにそう見られても仕方がないかもしれない。感情の起伏が少なく、葵に会うまでは女性にときめきもしなかった。葵に会うまでの二十一年間が、味気ないものだったのは自覚している。
だがそれは葵も知っている筈だ。
自分の痛みのように理解してくれて、葵の存在がどんなに大きなものかという事を、彼女も「嬉しい」と言ったではないか。
「分かってくれている筈じゃないんですか」と言いかけた。だが時人は今の混乱しきっている葵に、喉までせり上がった言葉をかける事ができなかった。
そして自分という化け物の被害者である葵を前に、彼女を責める事もできない。
結果的に黙ってしまった時人を見て、葵もまた自己嫌悪に陥って視線を外した。
十二月の気温が二人を冷やし、どちらからともなくコートの前ボタンを留めてゆく。
「すみません……。私、時人さんにご迷惑かけてますね」
「そんな事ないです。葵さんは今大変な時だと分かっているつもりです」
こんな時にまで理解を示す優しい時人に、葵は我が儘ばかり言っている自分が情けなくなり、涙腺が緩んでしまう。
「私は……、いつも時人さんに与えてもらってばかりです。この命も、愛しいって気持ちも、あなたを独占したいって気持ちも……」
「俺は葵さんが好きだから……」
「でも!」
何か言おうとした時人の言葉を強い声で遮る。葵は今にも泣き出してしまいそうな顔で時人を見て、懸命に微笑んだ。
「こんな私……、望んでましたか? 時人さんが望んでたのは、人間の、いつも明るい葵やないですか? ほんまに今の私が好きやて言えますか?」
本当ならそこで迷いなく「好きです」と時人は答えておくべきだった。
だが、自分の中で荒れ狂う感情に乱され、時人を責めるような声で迫る葵に「これ以上何かを言えば、もっと彼女の感情を乱してしまうのでは」という惧れがあった。
結果黙ってしまった時人に、それまで堪えていた感情が堰を切るように、葵はクシャッと歪んだ顔で不器用に笑う。
「ほら……。もうあかんのです。私達。きっと、この恋は若い間の一時的な恋なんです」
震える声で告げてから葵は二、三歩後ずさり、追いかけようと一歩踏み出した時人に向かって掌を突き出した。
「来んといてください。私、これ以上時人さんの優しさに甘えたらあかんのです。あなたはもっと……、幸せになるべきなんです。もっと……、私なんかよりもっと……。この恋は、終わらせなあかんのです!」
最後に叩き付けるように言うと、葵はそのまま駆けだしてしまった。
事実上「別れ」を宣告された時人は、ショックでその場に立ち尽くしたまま、葵の姿が道路の角を曲がってしまうのを見送っていた。
「どうして……こうなったんだ」
呆然とする時人の耳にクリスマスソングが入り込む。無責任なほどに明るく、楽しそうなその音は、時人のがらんどうな心に鳴り響く。
冷たい風がやけに頬に刺さると思えば、いつのまにか時人は涙を流していた。
二年前、葵に第二の命を与えた時は、迸る熱情と勢いのままに「このままずっと一緒だ」と思っていたのに。彼女に婚約指輪も贈ったのに。
「全部……、なしになるのか? これで……終わりなのか?」
呟いてから、時人はひとまず家に帰れば葵がいるのではと思い、歩き出した。
出会いの夏はあっという間に終わり、そこから長い秋と冬が訪れた。やっと二年前のクリスマスイブから二人は共に歩み始めたと思ったのに――。
悔やんでも、悔やんでも、時人にいい解決策は見当たらなかった。
美来の手料理の後に立派なケーキを食べ、葵は満足そうに腹をさする。
特別な処理をしない家庭料理でも、葵は普通に食べて楽しむ事ができた。子供達がいるので刺激の強い食べ物も出ず、葵は特に不自由する事なく姉の手料理を満喫したのだ。
「美味しかったです。美来さん」
時人の味覚は相変わらずだったが、どうしても食べられないという訳ではない。「苦手な物を食べる」ぐらいの気持ちで口にすれば、なんとかなるものだ。
「いち、お手伝いする~!」
「さやも!」
プレゼントをもらった一華と沙夜は、葵に「ママのお手伝いしなあかんね」と言われ、張り切っていた。食べ終わった食器を一華が台所に戻し始め、美来の「気を付けてね」という声の中姉妹はちょろちょろと居間と台所とを往復する。
が、当たり前の結果というように――。
「あーっ!」
パリンという音がして沙夜がコップを落としてしまい、美来が「もぉ」と立ち上がる。
「ママ、ごめんなさい」
困り顔になった沙夜は慌てて割れたコップを片付けようとし、その時に「あっ」と小さな悲鳴と共に、時人と葵の鼻に若い血の香りがした。
「……!」
隣で葵の鼻がスンッと鳴ったのを聞いて、時人は彼女の背に手をやった。それを知らない白根家の家族は、台所で騒ぎの収拾をつけようとしている。
「さやのドジ~!」
「ママ、血が出たぁ!」
「パパ、消毒と絆創膏持ってきて」
「はいはい」
腰を浮かし掛けた葵は、時人が膝に手を置くと座り直す。けれど落ち着きなく指先で唇を弄り回していた。
「葵さん、大丈夫ですか」
「はい、平気です……。我慢です」
口ではそう言っているものの、葵の指はせわしなく唇を触り、喉元は頻繁に生唾を嚥下していた。
「さっちゃんの血を欲しがるなんて、あきません」
白根の家族に聞こえないようにブツブツと言う葵の口元は、今にも牙が伸びてしまいそうになるのを堪えていた。唇がめくれて歯を剥こうとするのをなんとかしようと、葵は両手で口元を覆い、沙夜の姿が見えないように上体を伏せてしまう。小さく震えながら己の本性と戦っている葵の背中を、時人は撫で続ける。その間、沙夜の手当ては終わったようだった。
「いちさやは離れてて」
「はーい」
「ママごめんなさーい」
台所を追い出された沙夜は、指に巻き付けられた絆創膏を見て、名誉の傷というように葵に指を差し出してきた。
「葵ちゃん、ケガしちゃった」
防水加工がされた絆創膏越しにも沙夜の血の香りがし、葵を惑わせる。
「さっちゃん、やめて……ごめんね」
顔を伏せたまま弱々しく言う葵を、一華が「具合悪いの?」と優しく撫でた。その様子に智治も変化を感じたのだろうか。
「葵ちゃん?」
様子を確かめる声に葵は恐る恐る顔を上げ――、その顔を見た智治が固まった。
「葵ちゃん……、目が」
「えっ?」
必死になって血の誘惑を我慢していたのに、何か変化が起こってしまったのだろうか。
不安になって時人を見た葵の目は、爛々と赤く光っていた。
「嫌や、なに?」
慌てて葵はバッグから手鏡を出し、自分の顔を確認して血の気を引かせた。
「――っ! ごめ、ごめんね!」
ボロッと涙が零れ、葵は慌てて立ち上がるとマフラーやコートを鷲掴みにし、玄関へ向かう。
「葵ちゃん!?」
「葵ちゃん、帰っちゃうの?」
「葵?」
台所の床に散らばった破片を片付けようとしていた美来も異変に気付く。時人はすぐに葵の後を追っていた。
「ごめんなさい! ごめんなさい! 私が悪いんです」
焦った葵はそんな風にしか謝れず、ブーツのファスナーを上げるのももどかしく、夜の住宅街へまろび出た。
「突然すみません、お邪魔しました。ご挨拶はまた」
コートに腕を通す間もなく、時人はおざなりに頭を下げて葵の後を追う。
「葵! 時人さん!」
何が起こったのか分かっていない美来は、二人を追いかけて外に出る。しかし二人が走って行ってしまったので、呆然としたまま家の前で見送るしかできないでいた。
「葵さん、待って! 葵さん!」
冷えた冬の空気の中、葵は白い息を吐きながらひた走る。
「葵さん! コートを着て! 冷静になってください!」
時人が声を上げても葵は立ち止まらず、住宅地の角にある小さな公園の前で時人は葵の腕を掴んだ。
「葵さん!」
ハァハァと息を切らして二人は立ち止まり、時人に腕を掴まれたまま葵は嗚咽し始める。
「う……っ、あぁっ、わた、私……っ、さっちゃんの血がほしいって……っ」
「仕方がないです。けど、我慢したじゃないですか。大丈夫」
泣き崩れる葵にコートを羽織らせ、自分もコートに腕を通すと葵を抱き締めた。腕の中で葵は酷く震え、自己嫌悪に陥っている。
「葵さん……、こういう事だってあるんです。刺激されたり、我慢したり、そうやって折り合いをつけていきながら、俺たちは人の間で生きていくんです」
「分かってます……っ、分かってますけど……っ、気持ちが追い付いていかへんのです……っ! あないにかいらしい子が血を出して、可哀想やて思う前に『舐めたい』って思うやなんてっ」
葵が心の底から自分を恐れ、泣く。人と化け物の部分がせめぎ合い、鎬を削る。あらゆる意味で脆くなっている葵の人の気持ちは、今にもクシャリと潰れてしまいそうだった。
「帰りましょう。今日はお祝いできただけでもよしとしましょう」
自分の腕の中で泣きじゃくる葵を慰め、時人はゆっくりと歩き出す。
「……かえります」
「そうですね。帰って二人で飲み直すのもいいですね」
「私、京都に帰ります」
「……えっ?」
葵が帰宅する事に頷いてくれたかと思いきや、「京都に」という言葉がついて時人は振り返る。
「私……、このままあの子たちの近くにいてたらあかんのです。慣れたら血の誘惑に勝てるのかもしれません。けど、まだ二年しか経ってへんやないですか。私、まだ未熟なんですっ! 時人さんみたいに色んな事に耐えて、淡々と過ごすなんてできひんのですっ」
「……俺は……」
自分が淡々と生きてきたと言われ、時人は何も言えなくなる。
確かにそう見られても仕方がないかもしれない。感情の起伏が少なく、葵に会うまでは女性にときめきもしなかった。葵に会うまでの二十一年間が、味気ないものだったのは自覚している。
だがそれは葵も知っている筈だ。
自分の痛みのように理解してくれて、葵の存在がどんなに大きなものかという事を、彼女も「嬉しい」と言ったではないか。
「分かってくれている筈じゃないんですか」と言いかけた。だが時人は今の混乱しきっている葵に、喉までせり上がった言葉をかける事ができなかった。
そして自分という化け物の被害者である葵を前に、彼女を責める事もできない。
結果的に黙ってしまった時人を見て、葵もまた自己嫌悪に陥って視線を外した。
十二月の気温が二人を冷やし、どちらからともなくコートの前ボタンを留めてゆく。
「すみません……。私、時人さんにご迷惑かけてますね」
「そんな事ないです。葵さんは今大変な時だと分かっているつもりです」
こんな時にまで理解を示す優しい時人に、葵は我が儘ばかり言っている自分が情けなくなり、涙腺が緩んでしまう。
「私は……、いつも時人さんに与えてもらってばかりです。この命も、愛しいって気持ちも、あなたを独占したいって気持ちも……」
「俺は葵さんが好きだから……」
「でも!」
何か言おうとした時人の言葉を強い声で遮る。葵は今にも泣き出してしまいそうな顔で時人を見て、懸命に微笑んだ。
「こんな私……、望んでましたか? 時人さんが望んでたのは、人間の、いつも明るい葵やないですか? ほんまに今の私が好きやて言えますか?」
本当ならそこで迷いなく「好きです」と時人は答えておくべきだった。
だが、自分の中で荒れ狂う感情に乱され、時人を責めるような声で迫る葵に「これ以上何かを言えば、もっと彼女の感情を乱してしまうのでは」という惧れがあった。
結果黙ってしまった時人に、それまで堪えていた感情が堰を切るように、葵はクシャッと歪んだ顔で不器用に笑う。
「ほら……。もうあかんのです。私達。きっと、この恋は若い間の一時的な恋なんです」
震える声で告げてから葵は二、三歩後ずさり、追いかけようと一歩踏み出した時人に向かって掌を突き出した。
「来んといてください。私、これ以上時人さんの優しさに甘えたらあかんのです。あなたはもっと……、幸せになるべきなんです。もっと……、私なんかよりもっと……。この恋は、終わらせなあかんのです!」
最後に叩き付けるように言うと、葵はそのまま駆けだしてしまった。
事実上「別れ」を宣告された時人は、ショックでその場に立ち尽くしたまま、葵の姿が道路の角を曲がってしまうのを見送っていた。
「どうして……こうなったんだ」
呆然とする時人の耳にクリスマスソングが入り込む。無責任なほどに明るく、楽しそうなその音は、時人のがらんどうな心に鳴り響く。
冷たい風がやけに頬に刺さると思えば、いつのまにか時人は涙を流していた。
二年前、葵に第二の命を与えた時は、迸る熱情と勢いのままに「このままずっと一緒だ」と思っていたのに。彼女に婚約指輪も贈ったのに。
「全部……、なしになるのか? これで……終わりなのか?」
呟いてから、時人はひとまず家に帰れば葵がいるのではと思い、歩き出した。
出会いの夏はあっという間に終わり、そこから長い秋と冬が訪れた。やっと二年前のクリスマスイブから二人は共に歩み始めたと思ったのに――。
悔やんでも、悔やんでも、時人にいい解決策は見当たらなかった。
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