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「時人様」
そこに執事服を着た男性が現れ、葵がベッドの上で苦しんでいる姿を見て瞠目する。
「陣内……、葵さんが事故にあった。俺は……、彼女の血を吸って血を与えてしまった」
綺麗な顔を歪めて時人が弱々しく告げると、陣内は現状を把握したようだった。
「旦那様へ連絡をしておきます。パーティーが終わりましたら、お耳に入るように致しますので。私も自身の体験からでしか、葵様をサポートできませんが、尽力致します」
そう言って陣内は「失礼致します」と室内の照明を落とし、真っ暗にした。
「血を与えられて覚醒したばかりは、人の頃に当たり前だった光量がつらくなります。時人様が悩んでおられたように、五感も発達して匂いや音に敏感になるでしょう。お食事はなるべく刺激の少ない物をご用意致します」
「ありがとう。俺はどうすればいい?」
子供の頃から頼ってきた存在がすぐ側で落ち着いてくれているからか、時人も多少の冷静さを取り戻す。表情はまだ不安を残しているが、葵のためにできることがあるのなら何でもする。そういう面構えをしていた。
「従者になったばかりの頃は、主人を強く求めます。時人様が葵様に血を与える事が必要となりますので、時人様も血液を作る食べ物をとられるようお勧め致します。血を与え、時人様が側にいらっしゃれば、葵様の情緒は落ち着かれると思います」
時人の手を握る葵の握力は、成人女性の平均を遥かに超えていた。
それは化け物としての力。これから葵が自分と同じ化け物の仲間となり、血を飲むのだと思うと、時人の心の奥はブラックホールに支配されたように暗く重たくなる。
けれど同時に葵が自分だけを求め、自分の血と存在とを渇望するのだと思うと、歪んだ喜びを覚えてしまうのも事実だった。
その時、叫びながらのたうち回っていた葵が急に静かになり、時人と陣内は彼女を見た。
暗い室内で葵の息遣いが聴こえ、薄く開かれた目は血色に輝いていた。
「とき……ひと、……さん」
乾いてしまった唇が愛しい人の名を呼び、時人の手を握る指先にきゅっと力がこもる。
「葵さん、聞こえますか? 大丈夫ですか?」
暗闇の中から新しい従者に声を掛ける主人の声は、葵の耳にとても心地よく響いた。
「私……、変なんです。生まれ変わったみたい。お家の中にいてるのに、ご近所のテレビの音や話し声、遠くからクリスマスソングが聞こえます。お台所から、食事のええ香りもしますね。……あぁ、なんやえらい空腹な気がします。けど……今は、……あなたがほしいです」
葵の声はぼんやりしているが、心の病気を抱えていた時の儚さではない。
闇の中で目を赤く光らせ、葵は真新しい感覚を鋭敏に拾い取っているようだ。
時人が自分のシャツのボタンに手を掛けると、陣内は一礼をして部屋を去っていった。
「葵さん、お腹が空いているのなら、俺が美味しいものをあげます。怪我をした体は大丈夫ですか?」
シャツを脱ぎ、その下に着ている半袖のTシャツも脱いでしまうと、時人はベッドに潜り込んで葵の頬に手を滑らせた。暗闇の中で赤い目と目が見つめ合い、葵が妖しく微笑む。
「今、えらい気分がええんです。あんなに気持ちが落ち込んでたのも、体が痛かったのも、全部嘘みたい。時人さんが、私を生まれ変わらせてくれはったんですか?」
とろりと赤い目を細め、葵は自分の頬に触れていた時人の指先にキスをする。
「……これから、言葉の通り俺はあなたに対してすべての責任を負います。あなたを妻とし、一生一緒に生きていきます。あなたに恋をして、あなたの体を作り変えた俺の気持ちを……、どうぞ受け取ってください」
そう言って時人はベッドサイドの引き出しからリングケースを取り出し、華奢で美しいデザインのプラチナの指輪を葵の指に嵌めた。
「嬉しい……。ほんまにプロポーズですか? ……うれしい」
指に淡く光るプラチナの指輪を見て、葵は赤い目を嬉しそうに細める。指輪には葵の誕生石であるアクアマリンが鎮座していた。
「あの夏の日に、両親に紹介をしてからこっそり買っていたんです。今年のクリスマスに正式にプロポーズをしようと思って。これは婚約指輪ですが、葵さんと一緒に出掛けられるようになったら、一緒にあなたの気に入る結婚指輪を買いに行きましょう」
「はい」
ロマンチックな会話をしている間にも、葵の赤い目は物欲しげに時人の血管の浮いた手の甲や、首筋をチラチラと見ていた。
その目は「血が欲しい」と訴えていて、何度も葵はゴクリと生唾を飲み込んでいる。
「血が欲しいですか? あげます。遠慮しないで、さあ」
時人が自分の首筋を晒すと、葵の息遣いは更に激しくなる。
「……けど、ええんですか? 私、時人さんの……。あぁ、あきません。こんなの」
溢れそうな唾を何度も飲み込み、葵は懸命に自分の本能と戦っていた。その気持ちは痛いほどに分かるつもりなので、今まで葵が自分に対して言っていたように優しく諭す。
「俺はもうあなただけのものです。身も心も、血の一滴すらも。葵さんが俺に対してそう思ってくれたように、俺もあなたが愛しいからあげたいと思うんです」
新しく生まれ変わった体、そして感覚に酔っていた葵は、そのままじっと時人を赤い目で見つめる。潤んだ目の奥に、人としての理性と吸血鬼の本能とがせめぎ合い、戦っている。
そして彼女は大きな目から涙を零し、震える声で呟いた。
「……今なら、時人さんがあれだけ悩み苦しんではったのが、分かります。好きな人の血が欲しいって、こないに狂おしくて切ない事なんですね」
――血がほしい。
けれど、好きな人に牙をたてたくない。
時人がいつも懊悩していた中に、今にも爆発してしまいそうな情熱を秘めていたのが、今なら痛いほどに分かる。
「いいんです。さぁ、血が欲しいでしょう。どうぞ」
まだ躊躇っている葵を前に、時人は人差し指の爪を伸ばし、自分の首筋に傷を付けた。先ほど傷を付けた手首は、吸血鬼の再生能力によりもう治癒している。
「あ……っ」
その瞬間、スンッと葵の鼻が鳴り、一際大きく喉が鳴った。
「どうぞ、遠慮しないで」
「すみません……、すみません……」
葵は泣きながら何度も謝り、そっと時人の首筋に唇をつけた。
初めは遠慮するようにペロペロと時人の口筋を舐めていたが、そのうち強烈な吸引になり、目を赤く光らせた葵は時人に牙をたててしまう。
「……っ」
皮膚が破られ、牙を突き立てられる感覚に時人は目を閉じて堪える。自分の血が葵を生かすのなら、と黙って血を吸われていた。
時人の血を吸って興奮した葵はそのまま時人の肉体を求め、久し振りに体を重ねた二人はベッドの中で汗が引くのを待っていた。
「時人さん、ずっとこないな世界に住んでいはったんですね」
「俺の場合、不快指数が高いのでずっと苦痛でしたが、葵さんは調子が良さそうで良かったです」
枕に顔を埋めている葵は、出会った頃のように生き生きとした顔をしている。
彼女を従者にしてしまった後悔はあるものの、また葵が以前のように普通に喋り、普通に笑ってくれる事が素直に嬉しい。
「確かに、聞こえすぎるとか匂いが強いとかはありますが、私の場合それが不快……というのはあまりない気がします。うふふ、チゲ鍋とか今食べたらえらい事になりそう」
「チゲ鍋ですか。確かにつらそうですね」
葵が昔のように明るく冗談を言ってくれるのが、時人は嬉しくて堪らない。
時人の血を吸った葵は渇きも大分収まったのか、目の色も赤茶色ほどに落ち着いていた。
「……夢みたい」
その目を細め、葵は愛しげに何度も時人の顔の輪郭を指先で辿る。
「夏が終わった頃から、意識がずっともやにかかったみたいになってたんです。時人さんが心配してくれはってると思って、元気出さなって思っても上手くいかへんくて。食べな元気出ぇへんて思っても、食欲がなくて。けど今は、それが嘘みたいです」
「仕方がないですよ。あんな事があれば、普通の人はきっとそうなってしまいます」
前のように穏やかな空気があり、変わらない時人の優しさに、葵は不思議そうな顔をしていた。やがて、温かな笑みを浮かべる。
「時人さん、自分の事を弱いってずっと言わはってましたが、そないな事全然あらへんのですね。時人さんは私なんかより、ずぅっと強い人です」
「え……?」
きょとんと目を瞬かせる時人に、葵は聖母の如く微笑んでみせる。
「私が想像してたより、時人さんはずっと深くてしんどいことに囚われてはりました。私が今感じる欲望をずっと抑え込んで、人よりもずっと人らしく、理性的に生きてきはったんですもの。それだけで、私は時人さんを尊敬します」
「それは……、人の間で生きるために必要なことですから」
褒められ慣れていない時人が言葉を濁らせると、葵は優しく笑い時人に抱き付いた。
「努力しはったんですね。時人さん、偉いですね」
その声が心地よくて、裸の背中を撫でてくれる手が優しくて。時人はまたいつものように涙ぐんでしまっていた。
今まで誰も褒めてくれなかった事を、葵だけが認めて褒めてくれた。
そして、こんなに優しい葵を化け物にしてしまったという後悔もある。
「葵さんは……俺と同じ化け物になって、怒っていませんか? 恨んでいませんか?」
小さく鼻を啜って尋ねると、顔を離した葵は不思議そうに時人の目を覗き込む。
「なんで怒らなあかんのですか? 時人さんは私を救ってくれはったのに。もう、お腹も全然痛まないんですよ? ほら、手術の跡も消えてます」
時人の手をとって柔らかな腹部に導くと、そこには滑らかな肌がある。あの惨たらしい傷は薄らとした跡すらない。
「葵さんはもう……、人間じゃないんですよ? 俺の従者になってしまったから、しばらくの間は日光などもとても眩しく感じると思います。渇きを覚えたら、俺の血を求めるようになります。もしかしたら……」
その後に続く言葉を言えず、時人は不鮮明に言葉を途切れさせてしまう。
だがそれについては葵も考えていたらしく、思っていたよりもずっとしっかりとした反応が返ってくる。
「一度人としてあかんようになってもうた私は、時人さんに救われたと思ってます。それはいつまで経っても変わらしまへん。お日様に当たっても、映画みたいに灰になってまう訳やないでしょう? 陣内さん、私と同じ匂いがしましたが、陣内さんも平気で昼間に歩いてはりますもの。私、こう見えても辛抱できる女なんです。体調が落ち着くまでは、ずっと我慢します。それに……、もし私が時人さん以外の人の血を求めるようになったら、その時は時人さんが私を殺してください」
色味は異なるものの、葵の目は時人が知っている理知的で穏やかな光を灯していた。
時人に本音を吐露する葵の気持ちの根底には、強い意志が宿っている。
「時人さんのお父様がそうしはっているように、必要なら血液パックなら受け入れます。けど私も、かつて人であった者の意志として、誰かに牙をたてる事はしたないんです。誰かを傷付けるくらいなら、私が死んだほうがええんです。そやし、その時は……」
おそらく葵の脳裏には、白根の幼い姉妹の笑顔があるのだろうか。
姉の美来や義兄の智治、そして一華と沙夜。宇佐美の家族に葵を任せて京都へ戻った両親も、葵が吸血鬼になってしまったと聞けばどんな反応を示すだろう。
時人が吸血鬼だと知っていれば、葵を任せはしなかったと言うだろうか。
「すみません、葵さん、本当にすみません」
葵の肩口に顔を埋め、時人は心から謝罪する。
「あのとき気持ちが焦っていて、葵さんが後になってどんな風に思うかとか、まったく考えていませんでした。俺の独りよがりな選択で、あなたを……」
「ええんです、ほんまにええんです」
小さく震える時人が、どれだけの悲しみと後悔を抱えているかは察するしかできない。
だが葵はこれでいいと思っていた。
あのまま抜け殻のように生きて時人や周囲に迷惑をかけるより、こうして身も心も元気になって、時人と一緒に過ごせたほうがいい。
まだ経験していない吸血鬼ならではの苦しみはあるかもしれないが、時人が一緒に生きてくれるのなら、乗り越えていけると思っていた。
「私、時人さんが一緒ならそれでええんです。その代わり、ずっと一緒にいててくださいね」
「ずっと一緒にいます」
深い悲しみにまみれた二人は、聖夜に誓った。
葵が一度死に、生まれ変わった二〇一三年十二月二十四日の夜に、二人は血の契約を交わし、共に生きると互いの魂に刻んだのだ。
そこに執事服を着た男性が現れ、葵がベッドの上で苦しんでいる姿を見て瞠目する。
「陣内……、葵さんが事故にあった。俺は……、彼女の血を吸って血を与えてしまった」
綺麗な顔を歪めて時人が弱々しく告げると、陣内は現状を把握したようだった。
「旦那様へ連絡をしておきます。パーティーが終わりましたら、お耳に入るように致しますので。私も自身の体験からでしか、葵様をサポートできませんが、尽力致します」
そう言って陣内は「失礼致します」と室内の照明を落とし、真っ暗にした。
「血を与えられて覚醒したばかりは、人の頃に当たり前だった光量がつらくなります。時人様が悩んでおられたように、五感も発達して匂いや音に敏感になるでしょう。お食事はなるべく刺激の少ない物をご用意致します」
「ありがとう。俺はどうすればいい?」
子供の頃から頼ってきた存在がすぐ側で落ち着いてくれているからか、時人も多少の冷静さを取り戻す。表情はまだ不安を残しているが、葵のためにできることがあるのなら何でもする。そういう面構えをしていた。
「従者になったばかりの頃は、主人を強く求めます。時人様が葵様に血を与える事が必要となりますので、時人様も血液を作る食べ物をとられるようお勧め致します。血を与え、時人様が側にいらっしゃれば、葵様の情緒は落ち着かれると思います」
時人の手を握る葵の握力は、成人女性の平均を遥かに超えていた。
それは化け物としての力。これから葵が自分と同じ化け物の仲間となり、血を飲むのだと思うと、時人の心の奥はブラックホールに支配されたように暗く重たくなる。
けれど同時に葵が自分だけを求め、自分の血と存在とを渇望するのだと思うと、歪んだ喜びを覚えてしまうのも事実だった。
その時、叫びながらのたうち回っていた葵が急に静かになり、時人と陣内は彼女を見た。
暗い室内で葵の息遣いが聴こえ、薄く開かれた目は血色に輝いていた。
「とき……ひと、……さん」
乾いてしまった唇が愛しい人の名を呼び、時人の手を握る指先にきゅっと力がこもる。
「葵さん、聞こえますか? 大丈夫ですか?」
暗闇の中から新しい従者に声を掛ける主人の声は、葵の耳にとても心地よく響いた。
「私……、変なんです。生まれ変わったみたい。お家の中にいてるのに、ご近所のテレビの音や話し声、遠くからクリスマスソングが聞こえます。お台所から、食事のええ香りもしますね。……あぁ、なんやえらい空腹な気がします。けど……今は、……あなたがほしいです」
葵の声はぼんやりしているが、心の病気を抱えていた時の儚さではない。
闇の中で目を赤く光らせ、葵は真新しい感覚を鋭敏に拾い取っているようだ。
時人が自分のシャツのボタンに手を掛けると、陣内は一礼をして部屋を去っていった。
「葵さん、お腹が空いているのなら、俺が美味しいものをあげます。怪我をした体は大丈夫ですか?」
シャツを脱ぎ、その下に着ている半袖のTシャツも脱いでしまうと、時人はベッドに潜り込んで葵の頬に手を滑らせた。暗闇の中で赤い目と目が見つめ合い、葵が妖しく微笑む。
「今、えらい気分がええんです。あんなに気持ちが落ち込んでたのも、体が痛かったのも、全部嘘みたい。時人さんが、私を生まれ変わらせてくれはったんですか?」
とろりと赤い目を細め、葵は自分の頬に触れていた時人の指先にキスをする。
「……これから、言葉の通り俺はあなたに対してすべての責任を負います。あなたを妻とし、一生一緒に生きていきます。あなたに恋をして、あなたの体を作り変えた俺の気持ちを……、どうぞ受け取ってください」
そう言って時人はベッドサイドの引き出しからリングケースを取り出し、華奢で美しいデザインのプラチナの指輪を葵の指に嵌めた。
「嬉しい……。ほんまにプロポーズですか? ……うれしい」
指に淡く光るプラチナの指輪を見て、葵は赤い目を嬉しそうに細める。指輪には葵の誕生石であるアクアマリンが鎮座していた。
「あの夏の日に、両親に紹介をしてからこっそり買っていたんです。今年のクリスマスに正式にプロポーズをしようと思って。これは婚約指輪ですが、葵さんと一緒に出掛けられるようになったら、一緒にあなたの気に入る結婚指輪を買いに行きましょう」
「はい」
ロマンチックな会話をしている間にも、葵の赤い目は物欲しげに時人の血管の浮いた手の甲や、首筋をチラチラと見ていた。
その目は「血が欲しい」と訴えていて、何度も葵はゴクリと生唾を飲み込んでいる。
「血が欲しいですか? あげます。遠慮しないで、さあ」
時人が自分の首筋を晒すと、葵の息遣いは更に激しくなる。
「……けど、ええんですか? 私、時人さんの……。あぁ、あきません。こんなの」
溢れそうな唾を何度も飲み込み、葵は懸命に自分の本能と戦っていた。その気持ちは痛いほどに分かるつもりなので、今まで葵が自分に対して言っていたように優しく諭す。
「俺はもうあなただけのものです。身も心も、血の一滴すらも。葵さんが俺に対してそう思ってくれたように、俺もあなたが愛しいからあげたいと思うんです」
新しく生まれ変わった体、そして感覚に酔っていた葵は、そのままじっと時人を赤い目で見つめる。潤んだ目の奥に、人としての理性と吸血鬼の本能とがせめぎ合い、戦っている。
そして彼女は大きな目から涙を零し、震える声で呟いた。
「……今なら、時人さんがあれだけ悩み苦しんではったのが、分かります。好きな人の血が欲しいって、こないに狂おしくて切ない事なんですね」
――血がほしい。
けれど、好きな人に牙をたてたくない。
時人がいつも懊悩していた中に、今にも爆発してしまいそうな情熱を秘めていたのが、今なら痛いほどに分かる。
「いいんです。さぁ、血が欲しいでしょう。どうぞ」
まだ躊躇っている葵を前に、時人は人差し指の爪を伸ばし、自分の首筋に傷を付けた。先ほど傷を付けた手首は、吸血鬼の再生能力によりもう治癒している。
「あ……っ」
その瞬間、スンッと葵の鼻が鳴り、一際大きく喉が鳴った。
「どうぞ、遠慮しないで」
「すみません……、すみません……」
葵は泣きながら何度も謝り、そっと時人の首筋に唇をつけた。
初めは遠慮するようにペロペロと時人の口筋を舐めていたが、そのうち強烈な吸引になり、目を赤く光らせた葵は時人に牙をたててしまう。
「……っ」
皮膚が破られ、牙を突き立てられる感覚に時人は目を閉じて堪える。自分の血が葵を生かすのなら、と黙って血を吸われていた。
時人の血を吸って興奮した葵はそのまま時人の肉体を求め、久し振りに体を重ねた二人はベッドの中で汗が引くのを待っていた。
「時人さん、ずっとこないな世界に住んでいはったんですね」
「俺の場合、不快指数が高いのでずっと苦痛でしたが、葵さんは調子が良さそうで良かったです」
枕に顔を埋めている葵は、出会った頃のように生き生きとした顔をしている。
彼女を従者にしてしまった後悔はあるものの、また葵が以前のように普通に喋り、普通に笑ってくれる事が素直に嬉しい。
「確かに、聞こえすぎるとか匂いが強いとかはありますが、私の場合それが不快……というのはあまりない気がします。うふふ、チゲ鍋とか今食べたらえらい事になりそう」
「チゲ鍋ですか。確かにつらそうですね」
葵が昔のように明るく冗談を言ってくれるのが、時人は嬉しくて堪らない。
時人の血を吸った葵は渇きも大分収まったのか、目の色も赤茶色ほどに落ち着いていた。
「……夢みたい」
その目を細め、葵は愛しげに何度も時人の顔の輪郭を指先で辿る。
「夏が終わった頃から、意識がずっともやにかかったみたいになってたんです。時人さんが心配してくれはってると思って、元気出さなって思っても上手くいかへんくて。食べな元気出ぇへんて思っても、食欲がなくて。けど今は、それが嘘みたいです」
「仕方がないですよ。あんな事があれば、普通の人はきっとそうなってしまいます」
前のように穏やかな空気があり、変わらない時人の優しさに、葵は不思議そうな顔をしていた。やがて、温かな笑みを浮かべる。
「時人さん、自分の事を弱いってずっと言わはってましたが、そないな事全然あらへんのですね。時人さんは私なんかより、ずぅっと強い人です」
「え……?」
きょとんと目を瞬かせる時人に、葵は聖母の如く微笑んでみせる。
「私が想像してたより、時人さんはずっと深くてしんどいことに囚われてはりました。私が今感じる欲望をずっと抑え込んで、人よりもずっと人らしく、理性的に生きてきはったんですもの。それだけで、私は時人さんを尊敬します」
「それは……、人の間で生きるために必要なことですから」
褒められ慣れていない時人が言葉を濁らせると、葵は優しく笑い時人に抱き付いた。
「努力しはったんですね。時人さん、偉いですね」
その声が心地よくて、裸の背中を撫でてくれる手が優しくて。時人はまたいつものように涙ぐんでしまっていた。
今まで誰も褒めてくれなかった事を、葵だけが認めて褒めてくれた。
そして、こんなに優しい葵を化け物にしてしまったという後悔もある。
「葵さんは……俺と同じ化け物になって、怒っていませんか? 恨んでいませんか?」
小さく鼻を啜って尋ねると、顔を離した葵は不思議そうに時人の目を覗き込む。
「なんで怒らなあかんのですか? 時人さんは私を救ってくれはったのに。もう、お腹も全然痛まないんですよ? ほら、手術の跡も消えてます」
時人の手をとって柔らかな腹部に導くと、そこには滑らかな肌がある。あの惨たらしい傷は薄らとした跡すらない。
「葵さんはもう……、人間じゃないんですよ? 俺の従者になってしまったから、しばらくの間は日光などもとても眩しく感じると思います。渇きを覚えたら、俺の血を求めるようになります。もしかしたら……」
その後に続く言葉を言えず、時人は不鮮明に言葉を途切れさせてしまう。
だがそれについては葵も考えていたらしく、思っていたよりもずっとしっかりとした反応が返ってくる。
「一度人としてあかんようになってもうた私は、時人さんに救われたと思ってます。それはいつまで経っても変わらしまへん。お日様に当たっても、映画みたいに灰になってまう訳やないでしょう? 陣内さん、私と同じ匂いがしましたが、陣内さんも平気で昼間に歩いてはりますもの。私、こう見えても辛抱できる女なんです。体調が落ち着くまでは、ずっと我慢します。それに……、もし私が時人さん以外の人の血を求めるようになったら、その時は時人さんが私を殺してください」
色味は異なるものの、葵の目は時人が知っている理知的で穏やかな光を灯していた。
時人に本音を吐露する葵の気持ちの根底には、強い意志が宿っている。
「時人さんのお父様がそうしはっているように、必要なら血液パックなら受け入れます。けど私も、かつて人であった者の意志として、誰かに牙をたてる事はしたないんです。誰かを傷付けるくらいなら、私が死んだほうがええんです。そやし、その時は……」
おそらく葵の脳裏には、白根の幼い姉妹の笑顔があるのだろうか。
姉の美来や義兄の智治、そして一華と沙夜。宇佐美の家族に葵を任せて京都へ戻った両親も、葵が吸血鬼になってしまったと聞けばどんな反応を示すだろう。
時人が吸血鬼だと知っていれば、葵を任せはしなかったと言うだろうか。
「すみません、葵さん、本当にすみません」
葵の肩口に顔を埋め、時人は心から謝罪する。
「あのとき気持ちが焦っていて、葵さんが後になってどんな風に思うかとか、まったく考えていませんでした。俺の独りよがりな選択で、あなたを……」
「ええんです、ほんまにええんです」
小さく震える時人が、どれだけの悲しみと後悔を抱えているかは察するしかできない。
だが葵はこれでいいと思っていた。
あのまま抜け殻のように生きて時人や周囲に迷惑をかけるより、こうして身も心も元気になって、時人と一緒に過ごせたほうがいい。
まだ経験していない吸血鬼ならではの苦しみはあるかもしれないが、時人が一緒に生きてくれるのなら、乗り越えていけると思っていた。
「私、時人さんが一緒ならそれでええんです。その代わり、ずっと一緒にいててくださいね」
「ずっと一緒にいます」
深い悲しみにまみれた二人は、聖夜に誓った。
葵が一度死に、生まれ変わった二〇一三年十二月二十四日の夜に、二人は血の契約を交わし、共に生きると互いの魂に刻んだのだ。
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