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二〇五〇年 十二月
それから一年が経った冬。
成績優秀だった美弥は、秘書を目指すために志望していた私立大学に推薦入学となり、無事に十一月の間に合格となっていた。
学校で親しくしている友人と小さなお祝いをし、後は友人達を刺激しないように大人しく学生生活を送る。
私立大学は都内にある大学なので、美弥も住居を移す事なく通える。
何もかも上手くいったと美弥は気楽になり、同時にあの妙な感覚――自分の中にもう一人誰かがいるような感覚――も、その頃には多少慣れて過ごしやすくなっていた。
本音を言えば推薦入学でなければ、時人の家庭教師がもう少し受けられたのにと思うが、そうも言っていられない。放課後になって友人が予備校に行ってしまうと、美弥は家に帰る前にほんの少し一人で歩き回るようになった。
だからといって原宿などへ行くのではなく、美弥は公園や美術館へ足を向けていた。
ピアノを習っていて当たり前のように音楽が好きで、同じくらい美術や書道などにも興味があった。将来は時人の側にいる秘書になりたいのだから英語を話せるのも当たり前で、海外への興味も深い。
美弥の『妄想』の中では、時人の隣に立つに相応しい大人の女性になった美弥は、彼の海外出張に同行している。二人で空いた時間にコンサートホールで音楽を聴いたり、美術館に行ったりするのだ。
鑑賞時に役立つ知識も蓄えておきたい。そう思い、美弥は芸術全般に手を出そうとしていた。
(今日はどこへ行こうかな)
ブラブラ歩けば芸能界へのスカウトを受けるのも日常茶飯事になっている。『いつものスカウトマン』が挨拶のように声をかけてくる内に、美弥は自然と彼らの顔や名前を憶えていた。それでなくとも、何となくスカウトをしてくる人たちの格好や雰囲気などは察するようになった。
なので、その日声をかけてきた人物は、意外中の意外だった。
「あの……、すみません」
「はい?」
スカウトマンではないし、ナンパにしても声の中に不安そうな色が窺える。
美弥の前に立っていたのは、大学生ぐらいの男性だった。
黒髪に黒縁眼鏡をかけて、紺のピーコートに黒いズボン。一見で真面目そうな印象を受ける。肩にはショルダーバッグを掛けていて、絵を描いているのか黒いアルタートバッグを持っていた。
「あの……、あ、あの。ナンパじゃないんです。いや、あの……。ナンパなのかな?」
業界の人やナンパをする男性のように、流麗な口説き文句ではない。どもった言い方に、女性に声をかけるのが不慣れなのだとすぐ分かった。
青年はややしばらく口の中でもごもごと何か言っていた。けれどスッと息を吸い込み美弥の目を見ると、思い詰めた声で願いを口にする。
「あの、あなたをモデルに絵を描かせてくれませんか?」
「えぇ?」
流石に絵のモデルの要請は初めてで、美弥は目を丸くして黙ってしまった。
「絵を……って言っても、ヌードモデルとかじゃないです。あなたの雰囲気にすごく惹かれて、どこか落ち着ける場所でスケッチだけでもさせてもらえたらって思ったんです」
制服を着ている美弥が年下なのは目に見えているだろうに、大学生は敬語で真摯に美弥にモデルを頼む。
いつもナンパしてくる男達は、初対面だというのに馴れ馴れしく、人の心にズカズカと入り込んでこようとする。それに比べてこの大学生の礼儀正しさに、美弥は好感を持った。
「いいですよ。門限が十八時なので、それまでに終わるのなら。あと、失礼ですけど本当に人の目のある場所で」
目の前の大学生がいい人そうと思えても、世の中の事件には「まさかあの人が」という犯人がいる。賢い美弥は思春期に陥りがちなスリルを求めず、あくまで時人の側にいる女性になるために健全であろうとしていた。
「どうもありがとうございます。良かった……。じゃあ、どこか喫茶店に入りませんか? 勿論奢ります。喫茶店の好き嫌いとかなければ、俺の行きつけでいいでしょうか? マスターとも知り合いで、いつもそこで絵を描かせてもらっているんです」
「絵描きさんなんですか?」
大学生はゆっくり歩きだし、美弥はその隣を歩く。
「すみません、名乗り遅れました。俺は萩野月也(はぎのつきや)。美大の二年生です」
「私は秋月美弥です。なんだか名前に二人とも『月』があって、親近感がありますね」
美弥のような美少女がそんな風に言って笑えば、大体の男は勘違いしてしまう。
月也も例に漏れず、照れ笑いをした後ごまかすように前を向いてしまった。そこで調子に乗らないのも、また美弥に好感を与える。
二人は出会った場所からそう遠くない喫茶店に入り、東京だというのに落ち着いた雰囲気の店を美弥は珍しそうに見回す。
「いつもこの席に座ってるんです」
落ち着いた内装に、少し気怠そうなウエイトレスが一人と、カウンターの中にマスターが一人。小さいながらも雰囲気がよく、質の高そうな店だ。
「美弥ちゃん……って呼んでいいですか? ちゃん付けが嫌なら、さんで」
「あ、ちゃんでどうぞ。月也さんの方が年上ですし、もっと砕けた口調でもいいですよ」
ボックス席に座ってマフラーを外すと、向かいで月也が安心したように笑って眼鏡を外す。
「良かった。ありがとう、美弥ちゃん」
チェックのマフラーを外して眼鏡を外すと、地味な印象で分からなかったが月也はなかなかの好青年だ。キリッとした眉にハッキリした二重。鼻筋もスッとしていて唇も清潔感がある。
時人の美形に慣れている美弥は、ちょっとやそっと顔がいい程度では何とも思わない。だが清潔感があって唇が荒れていない男子を見ると、心の中で点数が上がるのも事実だ。
「何食べる? モデル料だから何でも食べていいよ」
「何が美味しいんですか? ……って、月也さん、眼鏡は外しちゃっていいんですか?」
裸眼でメニューを開く月也にそう問うと、彼は人懐っこい笑顔で返事をする。
「俺、近視なんだ。外は眼鏡かけないと看板とか見えないんだけど、これぐらいの距離なら眼鏡なしでも大丈夫」
笑うと少年のような顔になる彼を見て、美弥は「親しみやすいな」と更に好感を高める。
学校の教師の他、時人とスカウトの人以外に年上男性の接点はないが、月也はとても自然に美弥の心に入ってきた。
「お勧めはホットサンドとかホットケーキとかかな。一番美味しいのはコーヒーだけどね。腹減ってるなら、ナポリタンとかもオススメ」
「あはは、そんなに食べられません。お腹一杯にして帰ったら、ママに怒られるし」
「お母さんのご飯大事にするって、美弥ちゃんいい子なんだね。じゃあ、ホットケーキか何かと飲み物ぐらいにしておきなよ」
「はい、じゃあホットケーキと月也さんオススメのコーヒーにします」
美弥が答えると月也はウエイトレスにホットケーキとコーヒー二つを頼んだ。そして、早速スケッチブックを広げる。
「月也さん、どんな絵を描いているんですか?」
「見てみる?」
スケッチブックをテーブルの上に置いて広げると、月也の世界があった。
美しい女性の顔があり、その周りを翼や羽根が囲んでいるような幻想的なスケッチ。他にも風景のスケッチなどもあったが、圧倒的に多いのは一人の女性をモデルにしたと思われる、幻想スケッチが主体だった。
「これ……」
その女性の顔を見て美弥は不思議になって呟くと、鞄から鉛筆などを出しながら月也が言う。
「不思議だろ。俺がずっとテーマにしていた幻想の女性、美弥ちゃんにそっくりなんだ」
月也は改めて美弥を見て、目の前に存在している彼女が、幻想美女をしげしげと見る姿に小さく笑う。
「こんな事って……あるんですか?」
「本当に不思議だよね。俺もさっき美弥ちゃんを見て『嘘だろ?』って思ったよ。普段あんな風に声を掛けたり絶対しないのに、思わず……ね」
「この絵の女の人は、どなたなんですか?」
「それが……、分からないんだ。子供の頃から記憶にある顔でね、いま実家にはこの女の人の油絵が、一枚だけある。それも押し入れの奥にしまわれていたのを、偶然見つけたんだ」
「へぇ……」
「親に聞いても『知らない』でね。でもひと目で絵の美女の虜になった俺は、その時からその美女をモデルにして何枚も絵を描いてきたんだ。高校生ぐらいの時かな」
「不思議ですね」
絵の美女についてはそれ以上話は膨らまず、月也はスケッチブックを手にすると、真剣な顔になって鉛筆でアタリを取り始めた。
「だから『彼女』そっくりの美弥ちゃんを見て、チャンスだと思ったんだ。言い方は悪いけど、自分のイメージ世界を膨らませられるいい機会だって」
「それは……そうですね。なんだか不思議なご縁を感じますから、私でいいのならモデルぐらいなりますよ」
「ありがとう」
それから月也は本格的に鉛筆を動かし始め、クラシック音楽が流れている喫茶店の中でシャッシャッと紙と鉛筆が擦れる音がする。美弥はその音を心地よく思い、あまりポーズを変えないよう注意しつつ、運ばれてきたコーヒーやホットケーキを口にした。
「できあがったら、見せてもらえますか?」
「勿論。未熟だから少し恥ずかしいけどね」
月也は時折コーヒーを口にし、その香りが口腔や鼻孔を満たしている間に、香りとBGMに酔って自分の世界に入っているようだった。
その真剣な目を美弥はじっと見て、自分の周りにこんな風に何かに打ち込み真剣な目をする人がいただろうか、と思う。
考えれば世の中にはやりたい事を見つけて打ち込む人はいるが、それはごく僅かな印象だ。大体の人は「なんとなく」生きているように思える。自分の趣味ですら「よく分からない」と言っている友人もいる。
そんな中、月也は何て格好いいんだろう。
美弥は素直にそう思ったのだ。
時人に対して盲目的に憧れ、格好いいと思う気持ちとはまた違う。等身大の身近な人を個人的に認めるという感情が、美弥の中で初めて芽生えた。
月也が勧めてくれたコーヒーは深みがあって美味しく、ホットケーキもフワフワで玉子の味がして美味しい。
ホッと心の底から安堵が生じる気持ちを抱き、美弥は穏やかなひと時を過ごしたのだった。
それから一年が経った冬。
成績優秀だった美弥は、秘書を目指すために志望していた私立大学に推薦入学となり、無事に十一月の間に合格となっていた。
学校で親しくしている友人と小さなお祝いをし、後は友人達を刺激しないように大人しく学生生活を送る。
私立大学は都内にある大学なので、美弥も住居を移す事なく通える。
何もかも上手くいったと美弥は気楽になり、同時にあの妙な感覚――自分の中にもう一人誰かがいるような感覚――も、その頃には多少慣れて過ごしやすくなっていた。
本音を言えば推薦入学でなければ、時人の家庭教師がもう少し受けられたのにと思うが、そうも言っていられない。放課後になって友人が予備校に行ってしまうと、美弥は家に帰る前にほんの少し一人で歩き回るようになった。
だからといって原宿などへ行くのではなく、美弥は公園や美術館へ足を向けていた。
ピアノを習っていて当たり前のように音楽が好きで、同じくらい美術や書道などにも興味があった。将来は時人の側にいる秘書になりたいのだから英語を話せるのも当たり前で、海外への興味も深い。
美弥の『妄想』の中では、時人の隣に立つに相応しい大人の女性になった美弥は、彼の海外出張に同行している。二人で空いた時間にコンサートホールで音楽を聴いたり、美術館に行ったりするのだ。
鑑賞時に役立つ知識も蓄えておきたい。そう思い、美弥は芸術全般に手を出そうとしていた。
(今日はどこへ行こうかな)
ブラブラ歩けば芸能界へのスカウトを受けるのも日常茶飯事になっている。『いつものスカウトマン』が挨拶のように声をかけてくる内に、美弥は自然と彼らの顔や名前を憶えていた。それでなくとも、何となくスカウトをしてくる人たちの格好や雰囲気などは察するようになった。
なので、その日声をかけてきた人物は、意外中の意外だった。
「あの……、すみません」
「はい?」
スカウトマンではないし、ナンパにしても声の中に不安そうな色が窺える。
美弥の前に立っていたのは、大学生ぐらいの男性だった。
黒髪に黒縁眼鏡をかけて、紺のピーコートに黒いズボン。一見で真面目そうな印象を受ける。肩にはショルダーバッグを掛けていて、絵を描いているのか黒いアルタートバッグを持っていた。
「あの……、あ、あの。ナンパじゃないんです。いや、あの……。ナンパなのかな?」
業界の人やナンパをする男性のように、流麗な口説き文句ではない。どもった言い方に、女性に声をかけるのが不慣れなのだとすぐ分かった。
青年はややしばらく口の中でもごもごと何か言っていた。けれどスッと息を吸い込み美弥の目を見ると、思い詰めた声で願いを口にする。
「あの、あなたをモデルに絵を描かせてくれませんか?」
「えぇ?」
流石に絵のモデルの要請は初めてで、美弥は目を丸くして黙ってしまった。
「絵を……って言っても、ヌードモデルとかじゃないです。あなたの雰囲気にすごく惹かれて、どこか落ち着ける場所でスケッチだけでもさせてもらえたらって思ったんです」
制服を着ている美弥が年下なのは目に見えているだろうに、大学生は敬語で真摯に美弥にモデルを頼む。
いつもナンパしてくる男達は、初対面だというのに馴れ馴れしく、人の心にズカズカと入り込んでこようとする。それに比べてこの大学生の礼儀正しさに、美弥は好感を持った。
「いいですよ。門限が十八時なので、それまでに終わるのなら。あと、失礼ですけど本当に人の目のある場所で」
目の前の大学生がいい人そうと思えても、世の中の事件には「まさかあの人が」という犯人がいる。賢い美弥は思春期に陥りがちなスリルを求めず、あくまで時人の側にいる女性になるために健全であろうとしていた。
「どうもありがとうございます。良かった……。じゃあ、どこか喫茶店に入りませんか? 勿論奢ります。喫茶店の好き嫌いとかなければ、俺の行きつけでいいでしょうか? マスターとも知り合いで、いつもそこで絵を描かせてもらっているんです」
「絵描きさんなんですか?」
大学生はゆっくり歩きだし、美弥はその隣を歩く。
「すみません、名乗り遅れました。俺は萩野月也(はぎのつきや)。美大の二年生です」
「私は秋月美弥です。なんだか名前に二人とも『月』があって、親近感がありますね」
美弥のような美少女がそんな風に言って笑えば、大体の男は勘違いしてしまう。
月也も例に漏れず、照れ笑いをした後ごまかすように前を向いてしまった。そこで調子に乗らないのも、また美弥に好感を与える。
二人は出会った場所からそう遠くない喫茶店に入り、東京だというのに落ち着いた雰囲気の店を美弥は珍しそうに見回す。
「いつもこの席に座ってるんです」
落ち着いた内装に、少し気怠そうなウエイトレスが一人と、カウンターの中にマスターが一人。小さいながらも雰囲気がよく、質の高そうな店だ。
「美弥ちゃん……って呼んでいいですか? ちゃん付けが嫌なら、さんで」
「あ、ちゃんでどうぞ。月也さんの方が年上ですし、もっと砕けた口調でもいいですよ」
ボックス席に座ってマフラーを外すと、向かいで月也が安心したように笑って眼鏡を外す。
「良かった。ありがとう、美弥ちゃん」
チェックのマフラーを外して眼鏡を外すと、地味な印象で分からなかったが月也はなかなかの好青年だ。キリッとした眉にハッキリした二重。鼻筋もスッとしていて唇も清潔感がある。
時人の美形に慣れている美弥は、ちょっとやそっと顔がいい程度では何とも思わない。だが清潔感があって唇が荒れていない男子を見ると、心の中で点数が上がるのも事実だ。
「何食べる? モデル料だから何でも食べていいよ」
「何が美味しいんですか? ……って、月也さん、眼鏡は外しちゃっていいんですか?」
裸眼でメニューを開く月也にそう問うと、彼は人懐っこい笑顔で返事をする。
「俺、近視なんだ。外は眼鏡かけないと看板とか見えないんだけど、これぐらいの距離なら眼鏡なしでも大丈夫」
笑うと少年のような顔になる彼を見て、美弥は「親しみやすいな」と更に好感を高める。
学校の教師の他、時人とスカウトの人以外に年上男性の接点はないが、月也はとても自然に美弥の心に入ってきた。
「お勧めはホットサンドとかホットケーキとかかな。一番美味しいのはコーヒーだけどね。腹減ってるなら、ナポリタンとかもオススメ」
「あはは、そんなに食べられません。お腹一杯にして帰ったら、ママに怒られるし」
「お母さんのご飯大事にするって、美弥ちゃんいい子なんだね。じゃあ、ホットケーキか何かと飲み物ぐらいにしておきなよ」
「はい、じゃあホットケーキと月也さんオススメのコーヒーにします」
美弥が答えると月也はウエイトレスにホットケーキとコーヒー二つを頼んだ。そして、早速スケッチブックを広げる。
「月也さん、どんな絵を描いているんですか?」
「見てみる?」
スケッチブックをテーブルの上に置いて広げると、月也の世界があった。
美しい女性の顔があり、その周りを翼や羽根が囲んでいるような幻想的なスケッチ。他にも風景のスケッチなどもあったが、圧倒的に多いのは一人の女性をモデルにしたと思われる、幻想スケッチが主体だった。
「これ……」
その女性の顔を見て美弥は不思議になって呟くと、鞄から鉛筆などを出しながら月也が言う。
「不思議だろ。俺がずっとテーマにしていた幻想の女性、美弥ちゃんにそっくりなんだ」
月也は改めて美弥を見て、目の前に存在している彼女が、幻想美女をしげしげと見る姿に小さく笑う。
「こんな事って……あるんですか?」
「本当に不思議だよね。俺もさっき美弥ちゃんを見て『嘘だろ?』って思ったよ。普段あんな風に声を掛けたり絶対しないのに、思わず……ね」
「この絵の女の人は、どなたなんですか?」
「それが……、分からないんだ。子供の頃から記憶にある顔でね、いま実家にはこの女の人の油絵が、一枚だけある。それも押し入れの奥にしまわれていたのを、偶然見つけたんだ」
「へぇ……」
「親に聞いても『知らない』でね。でもひと目で絵の美女の虜になった俺は、その時からその美女をモデルにして何枚も絵を描いてきたんだ。高校生ぐらいの時かな」
「不思議ですね」
絵の美女についてはそれ以上話は膨らまず、月也はスケッチブックを手にすると、真剣な顔になって鉛筆でアタリを取り始めた。
「だから『彼女』そっくりの美弥ちゃんを見て、チャンスだと思ったんだ。言い方は悪いけど、自分のイメージ世界を膨らませられるいい機会だって」
「それは……そうですね。なんだか不思議なご縁を感じますから、私でいいのならモデルぐらいなりますよ」
「ありがとう」
それから月也は本格的に鉛筆を動かし始め、クラシック音楽が流れている喫茶店の中でシャッシャッと紙と鉛筆が擦れる音がする。美弥はその音を心地よく思い、あまりポーズを変えないよう注意しつつ、運ばれてきたコーヒーやホットケーキを口にした。
「できあがったら、見せてもらえますか?」
「勿論。未熟だから少し恥ずかしいけどね」
月也は時折コーヒーを口にし、その香りが口腔や鼻孔を満たしている間に、香りとBGMに酔って自分の世界に入っているようだった。
その真剣な目を美弥はじっと見て、自分の周りにこんな風に何かに打ち込み真剣な目をする人がいただろうか、と思う。
考えれば世の中にはやりたい事を見つけて打ち込む人はいるが、それはごく僅かな印象だ。大体の人は「なんとなく」生きているように思える。自分の趣味ですら「よく分からない」と言っている友人もいる。
そんな中、月也は何て格好いいんだろう。
美弥は素直にそう思ったのだ。
時人に対して盲目的に憧れ、格好いいと思う気持ちとはまた違う。等身大の身近な人を個人的に認めるという感情が、美弥の中で初めて芽生えた。
月也が勧めてくれたコーヒーは深みがあって美味しく、ホットケーキもフワフワで玉子の味がして美味しい。
ホッと心の底から安堵が生じる気持ちを抱き、美弥は穏やかなひと時を過ごしたのだった。
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