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過去3-6

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 ナースステーション前で看護師たちに軽く会釈をし、葵の病室に入ると時人の母が笑顔を浮かべて美作家の人間に挨拶をした。
「初めまして。私は宇佐美香織と申します。息子の時人が葵さんにいつも良くして頂いています。この度は、お見舞い申し上げます」
 丁寧に名乗って頭を下げた上品な夫人を前に、美作の家族たちも慌てて立ち上がり挨拶をする。
「初めまして、わては美作仁(じん)です。この度はどうもおおきに。葵の命がこうしてありますのも、時人さんがいたはったお陰ですさかい」
「宇佐美さん、もし宜しければ違う場所でお話しませんか? 時人さんと葵にもお話させてあげたいと思ってますさかい」
 昭が提案すると、香織は「勿論、喜んで」とにこやかに返事をする。寝ている葵に挨拶と少しの声掛けをしてから、美作の両親と共に病室を出て行った。
「美来さんは帰られたんですか?」
「はい、お姉ちゃんも白根の家の家事がありますさかい。お母さんって大変ですね」
 久し振りに両親と会って話をし、葵は泣き腫らした目をしていたが、気持ちはスッキリしているようだった。
「うちの母さん、お見舞いに来たはずなのにすみません。話が終わったらきっとまた病室に来ると思いますから」
「ええんです。お忙しい中来てくれはっただけで、御の字ですさかい」
 昭がしたのか、彼女の長い髪は緩い三つ編みにされていた。
「時人さん」
 細い糸を揺らすような声で葵が呼びかけ、そっと手を差し出す。ベッド横に座った時人は、その先を言われずとも葵の手を握り返す。
「ご両親がいらっしゃって、安心しましたか?」
 葵の手を優しく握り、さすると、彼女は恥ずかしそうに笑う。事件があってから初めて、まともに見せた笑顔だった。
「はい、お恥ずかしいですが、子供みたいに泣いてまいました」
「そのほうがいいですよ。葵さんはもっと感情を解放した方がいいんだと思います。葵さんは年齢より落ち着いていて、とても優しい人です。でも時々、ストレスが溜まっていないかと不安にもなっていました」
「そうですね。感情を出したほうがストレスも溜まらへんし、……後藤くんにも嫌な事は嫌やとハッキリ伝えた方が……。こないな事にならへんかったのかもです」
 後悔した葵の言葉の中には、幸いな事に僅かな希望が窺えた。時人の手を弱く握り返し、彼女は儚く微笑む。
「けど私、幸運なんやて親が言うてました。後藤くんに恨まれてストーカーされて。こういう事件では命を落としてまう人もいはります。そんな中で、私は刺されても命が助かったんです。それに……。命がけで後藤くんを捨てる代わりに、私は時人さんを手に入れました」
 その声も表情も弱々しく、時人が手を放してしまえば葵は簡単に崩れてしまいそうに見えた。
「大丈夫、俺はずっと側にいますから」
 今日の朝から、何度この言葉を繰り返しただろう。
「時人さん……、あかちゃん、残念でしたね……っ」
 優しい時人の言葉に葵は微笑もうとした。けれどその顔は流産してしまった子供の事を口にした瞬間、折り紙のようにクシャッと歪んでしまった。
 静かに嗚咽する葵の手を握り、午後の日差しが差し込む病室で時人はずっと葵に付き添っていた。

 美作の両親はその後、別の場所で宇佐美の両親と顔を合わせたそうだ。同時に「こんな時だが」という感じで、時人と葵の将来について話したようだった。
 そして翌日になり女装をした後藤が、あの店の防犯カメラに映っていたのが時人達に伝えられた。程なくして、東北にある実家で、警察に任意同行されたという話も報告された。


 二人にとって出会いの季節であり、悪夢でもあった夏は終わった。鼓膜にこびりつくような蝉の声も終わろうとし、残暑を経て秋がくる。その頃には葵は退院していて、通院しながら宇佐美の実家に暮らし始めていた。
 一人であのマンションで過ごしていれば、孤独と共にストーカーをされていた記憶や、無断で部屋に上がられていた恐怖も蘇る。なので、時人が両親に許可を得た事もあり、葵もその好意に甘えた。美作の両親も葵に京都へ帰ってはどうかと言っていたのだが、葵が音楽を続けたいという事と、時人と一緒にいたいと言い張り、親を説得した。
 宇佐美の家にもグランドピアノがあり、葵は自由に弾いてもいい事になっている。だが、全力で弾くにはまだ腹部に力が入らず、葵はぼんやりと座って指を動かしていた。
 時人は八月上旬から九月の下旬まで夏休みなので、その間ゆっくり葵と過ごし、彼女の相手をし一緒に散歩をして過ごした。
 けれど不安と焦りと共に感じるのは、葵が生気と希望に輝いていた姿を失ってしまった事だ。
 気が付いたらピアノの前に座って指慣らしをしているが、夢中になっているという様子ではない。それ以外の時はボーッとしている事も多くなり、食も細くなった。
 これが鬱だとかPTSDと呼ばれるものだとかは、時人もなんとなく察する。
 葵の担当医に、もしかしたらそういう事になるかもしれない、と一応の忠告はされていた。
 それ以来ネット通販で、身近に心の病を抱えている人がいる時の接し方、などの本をこっそり買い、葵が寝た後に少しずつ読んでいた。
「時人さん、お庭の葉っぱも色付いてきましたね」
 宇佐美家のサンテラスに二人はいて、家政婦が淹れてくれた紅茶と、お茶請けのクッキーを摘まんでいた。
「そうですね。もう少ししたら食欲の秋ですから、美味しい物を一緒に食べましょうね」
 ティーカップを手にぼんやりと窓の外を見ている葵は、元来の美しさに影が加わり、絵画の中にいる美女のようだ。秋の透明感のある光の中で、陽を浴びた葵はそのまま消えてしまいそうだ。
「時人さんも、一緒に秋刀魚とか食べれたらええですね」
「そうですね」
 相変わらず時人は温かい食べ物や肉、魚を避けていて、細身の体形はそのままだ。
 宇佐美家に葵が世話になっているからと、美作の家から生活費諸々が宇佐美家に振り込まれているようだが、葵はそれほど食べるという訳でもない。
 ピアノ以外のことにあまり興味を持たなくなってしまった今、宇佐美家側としてはその金すら受け取るのも申し訳ない。
 時人の部屋には映画のディスクが沢山コレクションされているが、映画を観ると『あの日』を思い出してしまうらしく、葵は映画を観たがらなかった。夜に一人になるのも怖がり、時人と一緒の部屋で寝ている。後藤にトイレで刺された事もあり、戸の前まで時人が付き添っていた。
「時人さん、ほんまにごめんなさい」
「何がです?」
 退院してから宇佐美家での生活にシフトし、葵に何度謝られただろう。それでも時人は毎回優しく返事をするのだ。
「私、もっと楽しい事とか幸せとか……。私が時人さんに、たんと教えてあげたかったのに」
 沈痛な表情で思い詰めるでもない、夢の中にいるような声。
「俺は葵さんと一緒にいられるだけで幸せですよ。デートをしなくても、好きな人と一緒にいられるだけで満たされます。それにほら、俺はどっちかというとインドアな人間ですし」
 そう言うと、葵はほんの少しだけ笑った。
「お互い、もう少し肌を焼かなあきませんね」
「そうですね。いつか葵さんが元気になったら、海にでも行きましょうか。沖縄の海とか綺麗ですよ。思い切って海外でもいいですし」
「そうですね」
 旅行の話に葵は目を輝かせる事もない。姿勢も目線も変えないまま返事をし、紅茶を一口飲む。
 その静かな反応をする心の奥に、どんな感情の渦があるのか分からない。
 目に見えて言葉を荒らげたり、号泣する、激怒するなどはない。目に見えない所で、葵は静かに緩やかに病んでいるような気がした。
「大丈夫ですよ。春になる頃にはもっと良くなっていますから。京都へ行く春までに、元気になっていましょうね」
 隣に座る葵の頬に手を滑らせると、彼女の目からスッと涙が一粒零れ落ちた。
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