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過去3-2

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 そんな幸せに浸ったまま、二人は時間になるとシアター内に入り、邦画サスペンスを手を繋いで観ていた。
 白根一家とは、映画が終わった後に待ち合わせをする店を決めている。
「何だか思う所の多い映画でしたね」
「そうですねぇ」
 映画を観ていて隣の葵からグスッと鼻を啜る音が聞こえたので、時人はハンカチか何か渡そうと思った。だがそこはさすが女子なので、葵は自分のティッシュで鼻をかんでいた。
 映画の感想を言いつつ、二人は待ち合わせの喫茶店へ向かう。
「時人さん、後でお知らせしたいことがあるんです」
「え? 何ですか?」
 用事があるなら今言えばいいのにな。とぼんやり思うが、彼女が「後で」というならその理由があるのだろう。
「うふふ、後でのお楽しみ」
 弾むような声で言うと、またフワッと葵の匂いがする。馥郁たる香りから、時人は葵が何かいい秘密を抱えて上機嫌なのだな、と予想した。

 二人が喫茶店に着くと、葵が「家族連れと待ち合わせしてますが」と店員に言い、そこへ奥から「葵ちゃんだ!」という元気な声がした。
「あ、いっちゃん」
 その声を聞いて店員は二人を家族の近くの席に案内し、六人が合流する。
「いっちゃん、さっちゃん、映画どうやった?」
「面白かったぁ~!」
「あのね、すごい冒険だったんだよ!」
 目をキラキラさせてアニメ映画の内容を語り出す一華と沙夜。時人は穏やかな気持ちで耳を澄まし、メニューをめくる。
 今ならいつも食べられない温かい肉料理だって、食べられるような気がする。
 近い将来自分と葵は結婚して、普通の人間らしい生活をして幸せな家庭を築いていく。
 そう思うだけで胸の奥が熱くなり、男としてしっかりしないと、と気持ちが引き締まる。
 昼食のメニューを決めてしまうと、葵は「ちょっと行ってきますね」と手洗いへ向かう。
「時人さん、これからどこ行きます?」
 隣のボックスから美来が話し掛けてき、時人は「いっちゃんとさっちゃんは行きたい場所ある?」と小さな姉妹に尋ねる。
「いち、遊園地!」
「さやも!」
 子供らしい選択に大人三人は頬を緩め、テーマパークへは行けなくても、街中にある遊園地になら……と話す。その間に白根家の食事が運ばれてきた。
「あら、時人さんのとこまだきてないんですね」
 気遣った美来が言うが、時人は微笑して首を振る。
「いいえ、温かいうちに食べてください。待っていてお腹がすいたでしょう。俺と葵さんは後でゆっくり頂きますから」
「そうですか? ほなお言葉に甘えて」
 時人と美来が会話をしている間にも、一華と沙夜はお構いなしでスパゲッティやハンバーグに取り掛かっている。
 時人は葵が戻ってくるまでスマホを弄っていたが、しばらくしてやけに時間がかかるなと手洗いの方を向く。腕時計を見れば十分以上は経っていて、果たして女性の手洗いはそんなに時間が掛かるのかと首をひねる。
 出したいものが出ないという事も想像するが、それにしては……となぜか違和感を抱くのだ。女子トイレに入る事はできないが、少しでも……と思い時人は立ち上がり手洗いへ向かった。
 店の奥の通路には木製のドアが向かい合っている。女子トイレの前にはハンドバッグを手にした女性が立っていて、手持ち無沙汰にスマホを弄っていた。
 その姿を見て時人は胸騒ぎを感じるが、まず考えを纏めるために男子トイレに入った。
「……何だろう、やばいな」
 ボックス席にいた時は料理の匂いや客の香水、様々な匂いに惑わされていた。だが手洗いの前を通ると、やけに葵のあの香りが強く漂い、体が過敏に反応しそうになっていた。
 手を洗って鏡を見ると、時人の色素の薄い目はやや赤みがかっている。
「……嫌な予感がする」
 もしかして、葵が血を流しているのではないかと思う。だとしたら経血の匂いなのだろうかと勘繰る。男子トイレを出ても、まだ先ほどの女性が立っていて、トイレのドアをノックしていた。
「失礼ですが……、まだ中に入っているんですか? すみません、あの、変な人間とかではなく、俺の連れが戻ってこないので……」
 堪らず時人は声をかける。
「あ、はい。私も結構長く待ってるんですが。お連れさんが中にいるんですか?」
 若い女性は声を掛けられて不審に思ったものの、それが長身の美形なので雰囲気が和らぐ。
 女子トイレの前に立つと、ドアの隙間から葵の血の匂いがプンプンと匂う。
 経血程度の量ではない血の香りに、時人の胸はどんどん不安に塗り潰される。
「すみません、店員さんを呼んできます」
 女性に告げ、時人は大股にその場を離れる。カウンターへ食器を下げに来た女性スタッフに声をかけた。
「すみません。俺の連れが長い時間手洗いから戻らないんです。具合を悪くしているかもしれないので、中の様子を見られませんか?」
「畏まりました。様子を見て参りますね」
 女性スタッフは手洗い前へ行き、「お客様?」と声掛けをして大きめのノックをする。何度ノックをして大きな声をかけても、中からは反応はない。スタッフは「少々お待ちください」と言って足早に店長を呼びに行った。
「葵さん? 具合が悪いんですか?」
 時人が大きな声を出しても、中からは何の返事もない。
「時人さん、どないしはったんですか?」
 そこへ美来も現れ、時人は葵が出てこない事を説明する。更にマイナスドライバーを持った店長も現れた。
「お客様、いま外側からドアを開けます」
 緊迫した表情の店長は、ドライバーを赤い表示の側にある溝に差し込み回す。
「美来さん、子供達をこちらに近付けないようにしてください」
「分かりました」
 時人の固い声に美来はすぐに、夫に事情を説明しに行った。
 その間に何度かドライバーを回し、カチャリという音がした。店長がもう一度「お客様、開けますよ」と声を掛けてからドアを開く。
「ひ……っ」
 その途端、ムワッと血の臭いが鼻に届き、目の前には壁にもたれ掛かってぐったりとしている葵が現れた。その腹部には包丁と思われる取っ手が生えていて、彼女のサマーニットやスカートに濃い色の染みをつけている。
「きゃあああっ!!」
 トイレ待ちをしていた女性が悲鳴を上げ、店長は必死になって冷静さを保とうとしていた。
「葵さん……?」
 震える声で葵の名を呼び、時人は一歩トイレの中に足を踏み入れ、彼女の側に膝をつく。濃い血の香りで時人の体は興奮を示し、自然と目は赤くなり下半身は男として反応してしまっていた。
「葵さん」
 もう一度名前を呼んで手を口元にかざすと、微かに呼吸が感じられた。
「救急車をお願いします!」
 時人の声に店長は我に返り、この店の責任者としてすべき事が頭に次々とよぎったのだろう。緊張した顔で「はい!」と返事をし、その場から姿を消した。
 様子を見に来ようとする野次馬を、スタッフ達が押しとどめる。その中にはあの姉妹もいたのだろうか。
「時人さん、葵は?」
 気が付くと入り口に真っ青な顔をした美来が立っていて、きつく握られた拳は細かく震えていた。
「まだ息があります。急いで治療してもらえば、絶対に助かります」
 不思議と時人の心は冴え渡っていた。だというのに、その目からは大粒の涙が次から次へと零れている。
「小さい子達は?」
「大丈夫、夫に任せて先に帰ってもらってます」
 店の方からは悲鳴が聞こえたり、食器の音や椅子を動かす音がひっきりなしに聞こえる。
 事情を求めるピリピリとした声があったり、それに応対する焦った様子のスタッフの声。
 混沌とした状況の中で時人はただ呼吸を整え、自分の化け物の性が爆発しないよう己を律していた。
「美来さん、店員さんに言ってタオルを沢山もらってきてください。救急が駆け付けるまで、少しでも止血しましょう」
「分かりました」
 妹が血まみれになっているのを前に美来は顔を真っ青にしていたが、固い声で気丈に振る舞う。美来が立ち去ってから、時人はブルブルと震える手でそっと葵の肩に触れた。
「う……っ」
 それだけで痛みがあったのか、それともタイミングが悪かったのか、葵が顔を歪めてうめく。恋人の姿を見て、時人の目から新たな涙が零れた。
「葵さん、痛いですよね。大丈夫、もうすぐ救急車がきますから」
 葵の頬を撫でると、長い睫毛を震わせて彼女が薄っすらと目を開いた。
「時人……さん……」
 冬の空気に白い息が吐かれるような、ホッとした吐息と共に葵が愛する人の名を呼ぶ。
 その黒目は涙に濡れて輝き、こんな時だというのに時人は葵を美しいと思う。
「葵さん、大丈夫ですよ。側にいます」
 冷たくなってしまった彼女の指先を優しく握ると、葵が微かに笑う。
「よか……っ、た……、ぁ」
 彼女の呼吸は浅く、それだけでも傷に障るのか、眉間には皺が寄ったままだ。
「誰に刺されましたか? 顔は見ましたか?」
 時人の問いに、葵は血色の悪くなった唇で呟く。
「後藤……くん。女性の格好してはった、けど、バッグに包丁忍ばせて……、それ、……から、外から鍵かけはったんです」
「分かりました……っ。怖かったですね。もう……っ、大丈夫ですからっ」
 頬を熱い涙が伝い落ち、時人は何度も葵の頭を撫でる。
 この噎せ返るような血の香りの中、葵の生命力が空気の中へ蒸発していくのが見える気がする。自分はこうして葵の側にいる事しかできず、何とも己の無力さを痛感させられる。
「葵さん……っ、俺は無力です。宇佐美家に生まれても、化け物に生まれても……っ、あなたがっ、血を、……流して倒れているのを前にっ、俺は何をする事もできない……っ」
 上背の高い体を折り曲げて涙を零し、声を震わせる時人が愛しい。悲しそうな目は初めて会った時と変わらない、純粋な透明感がある。葵はそんな泣き虫な時人が、好きで好きで堪らない。
「だいじょうぶ……です。泣かんといてください、ときひとさん……」
 囁いて微笑み、葵は疲れたように目を閉じた。そこにタオルを抱えた美来が戻って来る。
「時人さん、これで止血を!」
 葵の側に美来が跪き、二人は葵の腹部にタオルを押し当てて止血をしながら葵に声を掛け続ける。包丁が刺さったままというのは見ていて痛々しいが、そのままの方が出血せずに済むと時人が判断した。
 遠くからサイレンの音が聞こえ、混沌とした状況の中で葵は救急隊員によって搬送されていった。
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