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二人が出会った公園から二駅。目白に葵のマンションはあった。
移動途中に葵は京都出身で、現在は東京に一人暮らしをして音楽大学に通い、プロのピアニストを目指しているのだと伝えた。それに対して時人は、自分はいずれ親の跡を継いで会社経営をしなければならない事などを簡単に告げた。
夢のために邁進している彼女に対して、自分の受動的な生き方に羞恥を覚える。
着いた先、葵が済んでいるマンションは見るからに高級そうな物件だった。大学生の一人暮らしというので、質素な物件を想像していた時人はやや驚く。それに葵は「親の持ちもんなんです」と恥ずかしそうに笑った。
美人で性格も良くて、その正体は京都のいい家の令嬢とは、あまりに出来が良すぎる。同時に、彼女になら自分が釣り合うのでは。自分達は出会うべくして出会ったのだ、と浮かれる気持ちもあった。
葵についてマンションの中に入り、エレベーターに乗って一室へ入った。
「あっつーい! 葵ちゃん、クーラーつけて」
「はぁい」
姉妹は慣れた様子でちょこちょこと部屋の中に入り、外を歩いて疲れた脚を癒やそうとソファに飛び乗る。
「いっちゃん、さっちゃん。まずはお手て洗ってね」
葵に言われると姉妹は「えー」と顔を見合わせる。が、『格好いいお兄ちゃん』に「一緒に手を洗おう」と言われ、すぐにソファから飛び降りた。
「うふふ、いっちゃんもさっちゃんも女の子やねぇ。私の言う事より、時人さんの言う事の方がよぉきくわ」
おませな女の子に葵は思わず笑い、全員が洗面所へ向かう。
「葵ちゃん、汗でベトベト~。いちシャワー入りたい」
「さやも~」
すぐ目の前のバスルームを見て姉妹はそう言い出し、葵は困って時人を見る。
「どうぞ、さっぱりしてきてください。俺はリビングでのんびり待たせてもらいますから」
「ええんですか?」
「はい、お構いなく」
それならと、葵は姉妹の着替えを用意し始めた。先に時人に麦茶を出してから、「すぐ出ます」と言って洗面所の方へ消える。
「みまさか……あおい、さん、……か」
麦茶を一口飲んで冷えた吐息が、彼女の名を紡ぐ。男にしては長い睫毛が、愛しそうに伏せられた。目を閉じると、この空間一杯に葵を感じられる気がする。
匂いすぎないルームフレグランスの香りがし、壁時計の秒針が等間隔に時を刻んでゆく。
目を開けてリビングを見回すと、アイボリーとグリーンで統一された室内は、とても居心地良さそうに見えた。
これまで時人も女性と付き合った事がない訳ではない。半ば連れ込まれるようにして上がった女性たちの家は、よく分からないジャラジャラとした物が雑多とあったり、少し視線をやると隅の方に埃が溜まっていたりした。
だが葵の部屋は無駄な物は置いておらず、シンプルな分掃除がいき届いている。そこにまた好感を持った。
「逆ナン……されたのかな」
また一口麦茶を飲んでそう呟き、今まで逆ナンされたことは何度もあっても、今回のように嬉しいと感じた事は初めてだ。
出会いというものはどこに落ちているか分からないし、家の外に出なければ訪れない。
改めて、今日家の人間に追い出されるように外出して良かったと思う時人だった。
「彼氏……いるんだろうか」
葵は様々なものが好条件で揃っている女性だ。もしかしたら他にも彼女を想う男がいて、自分は葵の取り巻きの一人かもしれない。そう思うと、胸の奥がどす黒い嫉妬で支配される。だが葵のような魅力的な女性に、彼氏がいない方がどう考えてもおかしい。
「でも……、何番目でもいいから……、彼女の彼氏になりたいな……」
初めて願う「好きな人に想われたい」という気持ち。
誰にも聞こえないように呟いた時人の切ない願いとは裏腹に、洗面所の方からは姉妹たちがシャワーを浴びて無邪気にはしゃぐ声が聞こえてきた。
「はぁ、お待たせしました」
ドライヤーで髪を乾かしてから葵と姉妹が笑顔でリビングに戻り、姉妹はすぐに葵に冷たいものをねだる。
「葵ちゃん、アイス!」
「葵ちゃん、ジュース!」
「はいはい、ほなアイス食べようか」
姉妹の声に葵は笑って台所に向かい、用意してあったのかアイスのパーティーパックを取りだした。
「時人さん、何味がええですか?」
「いち、チョコ!」
「さや、イチゴ!」
すぐに姉妹が反応し、葵はスプーンと一緒に姉妹にそれぞれのアイスクリームを渡す。
「残りになってまいましたが、どれがええです? バニラとラムレーズンとお抹茶」
「葵さんは? 俺は何でもいいですよ」
「そうですか? ほな私お抹茶にします」
「じゃあ、俺はバニラにします」
食べるフレーバーが決まって四人はアイスクリームに頬を緩ませ、そのあいだ葵はそっと時人を盗み見する。が、ふと目が合ってしまうと恥ずかしそうにパッと視線を逸らした。
今までそんな甘酸っぱい体験をしていなかった時人は、子供達の前だというのにドキドキしてしまう。
アイスクリームを食べ終わった頃には十三時過ぎになり、一華が葵におねだりをした。
「葵ちゃん、ピアノ弾いて!」
「さやも聴きたい!」
姉妹の声に時人も同調した。
「あ、いいですね。俺も葵さんのピアノを聴いてみたいです」
「えぇ……、そうですか? 恥ずかしいなぁ」
三人にせがまれて葵は恥ずかしがりながらも、立ち上がって別室へ向かう。姉妹がその後をちょこちょこと付いて歩くので、時人も続いた。
音楽室として使っているらしい洋室の一つに、グランドピアノがあった。
「立派ですね」
時人がそう褒めると、葵が嬉しそうに笑ってカバーを外す。
「小さい頃からの相棒なんです。プロになりたいさかい東京に行きたいって両親に伝えたら、道は容易くないけど気張りなさいって言うてくれて。この子も一度分解されてここまで付いてきてくれたんです」
ピアノの黒い本体に刻まれているのは、海外の有名なメーカーの名前だ。
それを見て時人は、紛れもなく葵がいい家の令嬢であろうことを察した。
「このマンションに住むと決まった時、親がええ防音の部屋にしてくれたんです。流石に真夜中は弾きやしませんけど、お陰で集中して練習できてるんですよ」
葵は親と言う単語が出て多少恥ずかしそうにしていたのは、年頃という事もあるのだろう。誤魔化すように椅子に座り、何度かポーン、ポーンと鍵盤を押す。
「葵ちゃん、今日はなに弾いてくれるの? しょぱん?」
「こないだ聴いたの綺麗でさや好きだったなぁ。何だっけ?」
首を傾げて沙夜が言い、覚えているメロディを鼻歌で歌い出す。
「あぁ、リストの『愛の夢』やね」
そう言って葵が主旋律を簡単に弾くと、沙夜が顔を輝かせて「それ!」と喜ぶ。
「ほな、『愛の夢』弾こか」
そう言って葵は椅子に座り直し、楽譜を広げる。
「葵さん、譜めくりしましょうか?」
時人がそう申し出ると、葵はきょとんと目を瞬かせた。
「え? 時人さん楽譜読めるんですか?」
「少し音楽を習っていたので、譜めくりができる程度には」
「ほな、宜しくお願いします」
時人が少し自分の事を話すと、葵はにっこり笑って依頼した。
一華と沙夜は部屋の壁にもたれるようにして床に座り、ワクワクとした顔で葵を見る。期待に満ちた空気の中、葵の指がゆっくりと動き始めた。
ゆったりと右手が空気を包むような柔らかな副旋律を奏で、左手が主旋律を歌ってゆく。
時人が見守っている先、葵のほっそりとした指は魔法のように動いている。爪を短く切ってクリアピンクのマニキュアが塗られている指は、次々と美しいメロディーを生み出していった。
時人にとって女性の指というものは、お洒落を強調して派手なネイルを塗っているもの、程度の認識しかなかったが、葵の指は違う。それ一つが葵とは別の意志を持った生き物のように動き、光に祝福された美を歌う。
急に、葵が奏でるピアノを聴いている内に時人は身震いしてきた。
(この人は――、俺にないものを持っている)
その直感は、ただ葵がピアノが上手いという単純な事ではない。歩んでいる人生そのものについてだ。時人が今まで一人鬱々としたものを抱えて歩いてきた間、葵は周囲に祝福され何の曇りもない笑顔で、光に包まれて生きてきた。
突然、そう思ってしまったのだ。
ガラガラと心の中で何かが崩れていくような感覚と同時に、こみ上げたのは「葵が欲しい」と強く願う気持ちだった。
地に咲く向日葵が、決して手の届かない太陽に焦がれているような気持ち。
葵が自分と似たような金持ちの子供だとしても、その属性は全然違う。
笑顔と光に包まれて育っただろう葵と、人目を避けて生きてきた時人。
斜め上から見下ろした彼女の睫毛は驚くほど長く、下にある澄んだ目は真っ直ぐに楽譜や鍵盤を見る。透明さを感じさせる目に、時人は自分が一生かかっても得られないものを感じていた。
甘くうっとりとするような旋律の中で時人は狂おしい熱を葵に抱き、奏でられる名曲に涙しそうになっていた。
「すごぉい! 葵ちゃん!」
葵が一曲をミスする事なく弾き終えると、姉妹が小さな手で熱心に拍手を送る。
「素晴らしい演奏でした。葵さん」
時人も賞賛を惜しまず伝えると、葵は面映ゆそうに頭を下げた。
「葵ちゃん、いちもピアノ弾いていい?」
「さやも!」
「ええよ、椅子にちゃんと座って? そしたらきっとええ音がでるよ」
葵がそう言うと姉妹は横幅のある椅子に並んで座り、それぞれが覚えているメロディーを奏で始めた。
小さな手で確かめて鍵盤に触れている姉妹を、葵はにこにこと眺めている。
やがて葵から習ったのか、一華が歌いながら『きらきら星』を弾き始めた。
「きぃ、らぁ、きぃ、らぁ、ひぃ、かぁ、るぅ、……おぉ、そぉ、らぁ、のぉ、ほぉ、しぃ、……よぉー」
あどけない歌声と一緒にたどたどしい音色が時人の耳を打ち、また時人を衝動が襲う。
こんな綺麗なものを、自分は知らない。
そう思った。
何の穢れも知らず、ただ純粋で真っ直ぐで、天使のような存在。
自分みたいな男が一緒にいてはいけないと思いつつ、時人は思わず姉妹の背中に手を伸ばしかけ――。ハッと我に返り、手を下ろした。
涙の滲んだ目で姉妹を見ている時人の横顔を、葵は隣に立ったままそっと見ているのだった。
移動途中に葵は京都出身で、現在は東京に一人暮らしをして音楽大学に通い、プロのピアニストを目指しているのだと伝えた。それに対して時人は、自分はいずれ親の跡を継いで会社経営をしなければならない事などを簡単に告げた。
夢のために邁進している彼女に対して、自分の受動的な生き方に羞恥を覚える。
着いた先、葵が済んでいるマンションは見るからに高級そうな物件だった。大学生の一人暮らしというので、質素な物件を想像していた時人はやや驚く。それに葵は「親の持ちもんなんです」と恥ずかしそうに笑った。
美人で性格も良くて、その正体は京都のいい家の令嬢とは、あまりに出来が良すぎる。同時に、彼女になら自分が釣り合うのでは。自分達は出会うべくして出会ったのだ、と浮かれる気持ちもあった。
葵についてマンションの中に入り、エレベーターに乗って一室へ入った。
「あっつーい! 葵ちゃん、クーラーつけて」
「はぁい」
姉妹は慣れた様子でちょこちょこと部屋の中に入り、外を歩いて疲れた脚を癒やそうとソファに飛び乗る。
「いっちゃん、さっちゃん。まずはお手て洗ってね」
葵に言われると姉妹は「えー」と顔を見合わせる。が、『格好いいお兄ちゃん』に「一緒に手を洗おう」と言われ、すぐにソファから飛び降りた。
「うふふ、いっちゃんもさっちゃんも女の子やねぇ。私の言う事より、時人さんの言う事の方がよぉきくわ」
おませな女の子に葵は思わず笑い、全員が洗面所へ向かう。
「葵ちゃん、汗でベトベト~。いちシャワー入りたい」
「さやも~」
すぐ目の前のバスルームを見て姉妹はそう言い出し、葵は困って時人を見る。
「どうぞ、さっぱりしてきてください。俺はリビングでのんびり待たせてもらいますから」
「ええんですか?」
「はい、お構いなく」
それならと、葵は姉妹の着替えを用意し始めた。先に時人に麦茶を出してから、「すぐ出ます」と言って洗面所の方へ消える。
「みまさか……あおい、さん、……か」
麦茶を一口飲んで冷えた吐息が、彼女の名を紡ぐ。男にしては長い睫毛が、愛しそうに伏せられた。目を閉じると、この空間一杯に葵を感じられる気がする。
匂いすぎないルームフレグランスの香りがし、壁時計の秒針が等間隔に時を刻んでゆく。
目を開けてリビングを見回すと、アイボリーとグリーンで統一された室内は、とても居心地良さそうに見えた。
これまで時人も女性と付き合った事がない訳ではない。半ば連れ込まれるようにして上がった女性たちの家は、よく分からないジャラジャラとした物が雑多とあったり、少し視線をやると隅の方に埃が溜まっていたりした。
だが葵の部屋は無駄な物は置いておらず、シンプルな分掃除がいき届いている。そこにまた好感を持った。
「逆ナン……されたのかな」
また一口麦茶を飲んでそう呟き、今まで逆ナンされたことは何度もあっても、今回のように嬉しいと感じた事は初めてだ。
出会いというものはどこに落ちているか分からないし、家の外に出なければ訪れない。
改めて、今日家の人間に追い出されるように外出して良かったと思う時人だった。
「彼氏……いるんだろうか」
葵は様々なものが好条件で揃っている女性だ。もしかしたら他にも彼女を想う男がいて、自分は葵の取り巻きの一人かもしれない。そう思うと、胸の奥がどす黒い嫉妬で支配される。だが葵のような魅力的な女性に、彼氏がいない方がどう考えてもおかしい。
「でも……、何番目でもいいから……、彼女の彼氏になりたいな……」
初めて願う「好きな人に想われたい」という気持ち。
誰にも聞こえないように呟いた時人の切ない願いとは裏腹に、洗面所の方からは姉妹たちがシャワーを浴びて無邪気にはしゃぐ声が聞こえてきた。
「はぁ、お待たせしました」
ドライヤーで髪を乾かしてから葵と姉妹が笑顔でリビングに戻り、姉妹はすぐに葵に冷たいものをねだる。
「葵ちゃん、アイス!」
「葵ちゃん、ジュース!」
「はいはい、ほなアイス食べようか」
姉妹の声に葵は笑って台所に向かい、用意してあったのかアイスのパーティーパックを取りだした。
「時人さん、何味がええですか?」
「いち、チョコ!」
「さや、イチゴ!」
すぐに姉妹が反応し、葵はスプーンと一緒に姉妹にそれぞれのアイスクリームを渡す。
「残りになってまいましたが、どれがええです? バニラとラムレーズンとお抹茶」
「葵さんは? 俺は何でもいいですよ」
「そうですか? ほな私お抹茶にします」
「じゃあ、俺はバニラにします」
食べるフレーバーが決まって四人はアイスクリームに頬を緩ませ、そのあいだ葵はそっと時人を盗み見する。が、ふと目が合ってしまうと恥ずかしそうにパッと視線を逸らした。
今までそんな甘酸っぱい体験をしていなかった時人は、子供達の前だというのにドキドキしてしまう。
アイスクリームを食べ終わった頃には十三時過ぎになり、一華が葵におねだりをした。
「葵ちゃん、ピアノ弾いて!」
「さやも聴きたい!」
姉妹の声に時人も同調した。
「あ、いいですね。俺も葵さんのピアノを聴いてみたいです」
「えぇ……、そうですか? 恥ずかしいなぁ」
三人にせがまれて葵は恥ずかしがりながらも、立ち上がって別室へ向かう。姉妹がその後をちょこちょこと付いて歩くので、時人も続いた。
音楽室として使っているらしい洋室の一つに、グランドピアノがあった。
「立派ですね」
時人がそう褒めると、葵が嬉しそうに笑ってカバーを外す。
「小さい頃からの相棒なんです。プロになりたいさかい東京に行きたいって両親に伝えたら、道は容易くないけど気張りなさいって言うてくれて。この子も一度分解されてここまで付いてきてくれたんです」
ピアノの黒い本体に刻まれているのは、海外の有名なメーカーの名前だ。
それを見て時人は、紛れもなく葵がいい家の令嬢であろうことを察した。
「このマンションに住むと決まった時、親がええ防音の部屋にしてくれたんです。流石に真夜中は弾きやしませんけど、お陰で集中して練習できてるんですよ」
葵は親と言う単語が出て多少恥ずかしそうにしていたのは、年頃という事もあるのだろう。誤魔化すように椅子に座り、何度かポーン、ポーンと鍵盤を押す。
「葵ちゃん、今日はなに弾いてくれるの? しょぱん?」
「こないだ聴いたの綺麗でさや好きだったなぁ。何だっけ?」
首を傾げて沙夜が言い、覚えているメロディを鼻歌で歌い出す。
「あぁ、リストの『愛の夢』やね」
そう言って葵が主旋律を簡単に弾くと、沙夜が顔を輝かせて「それ!」と喜ぶ。
「ほな、『愛の夢』弾こか」
そう言って葵は椅子に座り直し、楽譜を広げる。
「葵さん、譜めくりしましょうか?」
時人がそう申し出ると、葵はきょとんと目を瞬かせた。
「え? 時人さん楽譜読めるんですか?」
「少し音楽を習っていたので、譜めくりができる程度には」
「ほな、宜しくお願いします」
時人が少し自分の事を話すと、葵はにっこり笑って依頼した。
一華と沙夜は部屋の壁にもたれるようにして床に座り、ワクワクとした顔で葵を見る。期待に満ちた空気の中、葵の指がゆっくりと動き始めた。
ゆったりと右手が空気を包むような柔らかな副旋律を奏で、左手が主旋律を歌ってゆく。
時人が見守っている先、葵のほっそりとした指は魔法のように動いている。爪を短く切ってクリアピンクのマニキュアが塗られている指は、次々と美しいメロディーを生み出していった。
時人にとって女性の指というものは、お洒落を強調して派手なネイルを塗っているもの、程度の認識しかなかったが、葵の指は違う。それ一つが葵とは別の意志を持った生き物のように動き、光に祝福された美を歌う。
急に、葵が奏でるピアノを聴いている内に時人は身震いしてきた。
(この人は――、俺にないものを持っている)
その直感は、ただ葵がピアノが上手いという単純な事ではない。歩んでいる人生そのものについてだ。時人が今まで一人鬱々としたものを抱えて歩いてきた間、葵は周囲に祝福され何の曇りもない笑顔で、光に包まれて生きてきた。
突然、そう思ってしまったのだ。
ガラガラと心の中で何かが崩れていくような感覚と同時に、こみ上げたのは「葵が欲しい」と強く願う気持ちだった。
地に咲く向日葵が、決して手の届かない太陽に焦がれているような気持ち。
葵が自分と似たような金持ちの子供だとしても、その属性は全然違う。
笑顔と光に包まれて育っただろう葵と、人目を避けて生きてきた時人。
斜め上から見下ろした彼女の睫毛は驚くほど長く、下にある澄んだ目は真っ直ぐに楽譜や鍵盤を見る。透明さを感じさせる目に、時人は自分が一生かかっても得られないものを感じていた。
甘くうっとりとするような旋律の中で時人は狂おしい熱を葵に抱き、奏でられる名曲に涙しそうになっていた。
「すごぉい! 葵ちゃん!」
葵が一曲をミスする事なく弾き終えると、姉妹が小さな手で熱心に拍手を送る。
「素晴らしい演奏でした。葵さん」
時人も賞賛を惜しまず伝えると、葵は面映ゆそうに頭を下げた。
「葵ちゃん、いちもピアノ弾いていい?」
「さやも!」
「ええよ、椅子にちゃんと座って? そしたらきっとええ音がでるよ」
葵がそう言うと姉妹は横幅のある椅子に並んで座り、それぞれが覚えているメロディーを奏で始めた。
小さな手で確かめて鍵盤に触れている姉妹を、葵はにこにこと眺めている。
やがて葵から習ったのか、一華が歌いながら『きらきら星』を弾き始めた。
「きぃ、らぁ、きぃ、らぁ、ひぃ、かぁ、るぅ、……おぉ、そぉ、らぁ、のぉ、ほぉ、しぃ、……よぉー」
あどけない歌声と一緒にたどたどしい音色が時人の耳を打ち、また時人を衝動が襲う。
こんな綺麗なものを、自分は知らない。
そう思った。
何の穢れも知らず、ただ純粋で真っ直ぐで、天使のような存在。
自分みたいな男が一緒にいてはいけないと思いつつ、時人は思わず姉妹の背中に手を伸ばしかけ――。ハッと我に返り、手を下ろした。
涙の滲んだ目で姉妹を見ている時人の横顔を、葵は隣に立ったままそっと見ているのだった。
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