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 二〇四七年 七月

「ん……」
 朝だ、と美弥(みや)は思った。
 カーテン越しに光が届き、薄いタオルケットの下でしなやかな体が身じろぎする。
「あつ……」
 寝汗を掻いてもそもそと起き上がると、体は自然にバスルームへ向かっていた。
 タッチパネルで操作をするとザァッとお湯が降り注ぎ、美弥はしばらくシャワーを浴びながらバスチェアに座って呆けていた。
 どうにも、夢の残滓を引きずっているような気がする。夢の中身は覚えていないのだが、とても甘く懐かしく、切ない夢だった気がする。
「あ、そうだ。今日……」
 その気持ちとリンクしたのか、週末である今日の予定を思い出して美弥は微笑んだ。
 今日は、母の古くからの友人と食事会だ。世界の長者番付にも名を連ねるような人で、一般家庭で育った美弥には雲の上のような人だ。
「ふふ……。時人(ときひと)さん」
 想い人の名前を呟き、美弥はそれならば綺麗に体を磨かないとと思い、上機嫌にシャンプーを始めた。

 シャワーから上がると、美弥は高校受験を控えている身なので、大人しく自室で勉強を始めた。高校受験など焦らなくても近場の公立を受ければいいと友人は言っているが、美弥は少しでも憧れの時人に近い存在になりたいと思っている。
 魅力的な大人である彼の側には綺麗な敏腕秘書がいてもおかしくない。可能なら自分がそうなりたいと思っているのだ。
 母の沙夜(さや)に相談すると、「それならいい大学に行けるように勉強をしないと」と言われ、遊びたいのを我慢して真面目に勉強に打ち込んでいる。
 美弥が憧れている時人という男性は、大人の男の人だ。
 フルネームは宇佐美(うさみ)時人。大手企業はといえばすぐに名前が出る宇佐美グループの代表取締役社長で、その家柄も遡れば華族に連なるらしい。
 時人は現在広尾の超高級マンションに一人で暮らしている。彼の実家は歴史的資料にもなりそうな洋館に、増築やリフォームをした屋敷だと聞いている。
 高級なオーダーメイドのスーツを着こなす綺麗な顔立ちの男性で、経済紙にはよく顔写真付きで名前が出るらしい。それなりの年齢で重役なのは分かっているのに、時人は『おじさん』という外見ではない。美弥から見ればまだ二十代後半か三十代前半ぐらいに見える美青年だ。
 週刊誌などにはアンチエイジングの美容外科を施していると書いてあるが、美弥の知る時人という人はそういう事に金を使う人に見えない。
 所謂『イケメン』の彼がネットニュースなどに出ると、周りの女友達がミーハーな気持ちで騒ぐ。美弥は密かにそれを嫌だと思っていた。
「時人さんは私だけのものなのに」という独占欲が、友人に対しても向けられてしまう。
 幼い頃から気がつけば美弥の家族の側に時人がいて、物心ついた美弥が恋をしたのは時人だ。その想いは中学生になった今も、ずっと変わっていない。
 この日は美弥の従兄の諒(りょう)の誕生日で、時人はそれをお祝いしてくれる日だ。
 諒は沙夜の姉の一華(いちか)の息子で、美弥よりも一つ年上の高校一年生だ。諒とはお互いに思春期であることから、昔のように天真爛漫に遊ぶ相手にはならなくなってしまった。だが互いに一人っ子なので、兄妹同然に育ったと言ってもいい。
 時人は一華の家族とも親しくしているので、両方の家族を招いてお祝いをしたいと丁寧な招待状を送ってきた。


 朝食の匂いが階下から漂ってくると、美弥はリビングに下りニュースを見る。
「美弥、もう少し音小さくして」
 台所から沙夜の声がし、美弥はボリュームを調節して音量を落とす。
「ママ、私新しい洋服欲しいな」
「そうね、もう少ししたら夏のセールがあるから、それに合わせてお買い物に行く?」
「そうじゃなくて……。今日着て行くようなちょっとお出掛け用の」
「あぁ……、そうね。けど今日はもう間に合わないから、ピンクのワンピースあったでしょう? あれを着て行きなさい」
「……前回もあのワンピースだったじゃない」
 美弥はそう口元で小さく文句を言ったが、沙夜にはその声は届かなかった。
「美弥、お洋服選ぶのに時間かかるじゃない。お昼から出掛けてもいいけど、約束の時間に間に合わなかったら本末転倒よ?」
「分かってるよ……。でも、時人さんと会うのに同じ洋服着て行きたくないの」
「…………」
 娘の拘りに、沙夜は沈黙した。
 娘が時人に恋をしているのは、母親の直感で分かっている。口を開けば「時人さん、時人さん」で、彼の話をする時の美弥はとても嬉しそうだ。だが沙夜は大人の良識と母親という立場から、中学生の美弥と大人の時人との恋愛を表だって応援できないでいる。
 本当は応援したい気持ちもある。けれど時人その人が倫理を大事にする人だ。せめてそういう話をする時は、美弥が十八の成人を越してから……と思うのだ。
「じゃあ、お昼前から出掛けようか。パパは疲れているから付き合わせたら可哀想だし、パパとは別行動ね」
「うん、分かった!」
「けど、ワンピース代はパパが出してくれるんだから、パパにちゃんとお礼を言っておくこと」
「はぁい!」
 一気にご機嫌になった美弥は笑顔になり、そんな娘を沙夜は優しく見守るのだった。


 約束の昼前に、美弥は母親と一緒に今夜着ていくワンピースを求めに買い物に出た。納得のいく一枚が決定したのは、夕方近くになってしまった。だが無事それに袖を通し、ホテルへ向かうことができたのだった。
「美弥ちゃん、こんばんは!」
 ホテルのラウンジで手を振っているのは、伯母の一華だ。お淑やかな印象の沙夜とは対照的に、一華は元気な性格だ。その隣には夫と諒がいる。
「伯父さん、いち伯母さんこんばんは。諒くんお誕生日おめでとう」
 美弥が挨拶をすると、諒は恥ずかしそうに視線を逸らしてから、「ありがと」と返事をする。
「ごめんねー、美弥ちゃん。うちの諒サマはまだまだ反抗期みたいで」
 一華が息子を小突くと、諒は「やめろよ」とそっぽをむいてしまった。
「パパも来てたんだね」
「美弥、可愛いワンピース見つけたんだな」
 ラウンジに座っていた父親の誠也(せいや)が立ち上がり、モデルや芸能人のスカウトも多々受けている娘を見て満足そうに微笑む。
「パパのお陰だよ、ありがとう」
 反抗期らしい反抗期も見せない美弥は、秋月(あきづき)家の宝であり、やや悩みの種でもある。美弥そのものはこの上ない良い子だ。だが年頃になっても同い年の男の子が好きだとか、彼氏ができたという話がなく、両親としては心配になってしまう。
 勿論、美弥が時人に想いを寄せているのは分かっている。けれど両親としては年相応の相手を……という気持ちがある。
 それを言えば美弥に対する恋愛の強制になってしまうし、親としては避けたい。
 結果的に美弥の知らない所で、大人達のわだかまりができているのだ。
「時人さん待ってるよ。行こう!」
 嬉しさを隠さない美弥はエレベーターのボタンを押し、ゴンドラに六人が乗り込む。
 やがてゴンドラは静かに最上階へと着き、一番に美弥が降り立った。
 約束しているレストランに入ると、ウェイターが近付き美弥は時人の名前を告げる。その後、一同はスムーズに時人が待っている個室まで案内された。
「時人さん、こんばんは!」
「やぁ、美弥ちゃん久し振りだね。諒くん、誕生日おめでとう」
 窓際に立って夜景を見下ろしていた時人が振り返り、惚れ惚れするような笑みを浮かべる。いつも通りパリッとしたスーツを着ていて、ネクタイは上品なネイビーだ。
(時人さん、やっぱり格好いい……)
 胸がきゅうっと苦しくなる。大人達と挨拶をしている時人を、美弥はチラチラと気にした。時人が諒にプレゼントを渡し、全員が席に着いて乾杯が済むと、コース料理が順番通りに運ばれてくる。
「美弥ちゃんは受験勉強、頑張っているのかい?」
「うん、将来時人さんの立派な秘書になれるように頑張ってるよ」
「おや、嬉しいね。けど……なかなか食い下がる芸能事務所もあったんだっけ?」
 時人がそう言うと、美弥は「うーん」と首をひねる。
「高校卒業するまではそういうのはしません。って言っても、なかなか……ねぇ」
 実際、美弥は美しい。
 母親の沙夜に似て透明感があり、白い肌や黒い直毛の髪は正統派の美少女だ。
 零れそうに大きな瞳も、スッと通った鼻梁、形のいい唇なども、スカウトマンから見れば垂涎ものだ。メディアや雑誌に出ていてもおかしくない美少女が手つかずで一般人生活を送っている。その姿を見れば、どうしても仕事に結び付けたいのが、大人の思考というものなのだろう。
「美弥ちゃんの判断は正しいと思うよ。もし目指している夢があるのなら、努力していたものが途中で無駄になってしまうかもしれない。でも、人生というのは経験の積み重ねだから、芸能界入りが一概に悪いことだとは言わないけれどね」
「うん、……そうだね」
 一辺倒な見方をしない時人を大人だと思い、美弥は更に時人への憧れを強める。
 美弥だって芸能界からスカウトがくると悪い気はしない。「もしかしたら芸能界で働くことも可能なのか」と考えてしまう時だってあるが、時人の秘書という目的がしっかり定まっている彼女は、まず目指す大学合格までは気を抜いてはいけないと思う。
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