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自分の幸せを考えるんだ
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「きっとあいつはとてもつらい経験をしたのかもしれない。だからといって娘の人生を支配し、奪っていい理由にはならない。それに年頃の娘がいるのに不審な男を家に上げて、好き放題させて自分は寝ていた? そんなの許されるはずがないだろう。母親なら自分の娘ぐらい守ってみせろっていうんだ」
冬夜は春佳が暴行を受けた日を思いだすと、目に暗い火を灯す。
怒ってくれるのはありがたいが、その話題になるたびに春佳は岩淵に襲われた事を思いだしてしまう。
だから春佳はなるべく、あの日の事は考えないようにしていた。
「……お母さんはつらい事があって、自分の事しか考えられなかったのかもしれないね。普通の母親は、何より子供を優先するって聞くけど、人それぞれだと思うし」
なるべく広い心を持ちたいと思っているが、春佳だって嫌な事があったら「自分はこんなにつらいのに……」と周囲を恨んでしまいたくなる。
人は簡単に身を落としてしまうと分かっているから、春佳は暗い気持ちになった時は本を読んだり風呂に入ったり、別の事をして気持ちを切り替えようとしている。
けれど母はそううまく、気分転換ができないのだろう。
ずっと専業主婦だったし、たまに心のスイッチをオンにして、化粧をして出かける事はあったが、基本的に家に閉じこもっていた。
家事はしたりしなかったりで、冬夜が家にいた頃は彼が料理をしていた事が多かった。
春佳は少しでも母の役に立ちたくて、レシピ動画を参考に少しずつ料理を覚えていった。
でも母は春佳の作った食事を一度も「美味しい」と言わなかったし、家事をしても感謝される事はなかった。
だから母に関しては、「そういうものだ」と思うようになっていたのだ。
もしも春佳の家族が涼子だけだったなら、彼女はもっと歪んだ性格の女性になっていたかもしれない。
父と兄がいてくれたからこそ、春佳の心に良識が植え付けられたのだ。
だから春佳は父が好きだったし、兄の事も尊敬していた。
……今は少しばかり、兄とどう接するか悩んでいるが。
冬夜には感謝はしているが、彼がすべての家族の役割を負おうとしているように思え、「そこまでしなくていいのに」と心配になってしまう。
冬夜は両親にとても冷たい態度をとっていたし、妹に近づく男には合コンの男性であれ、岩淵であれ、狂犬のように攻撃的になる。
そんな兄の一面を知るたびに、彼が知らない男性になったように思えて仕方がない。
麦茶をもう一口飲んだ冬夜は、何かをそらんじるように言う。
「優しい人はまず自分の心を満たし、余力で他人を気に掛ける。自分の時間や気力を削って他人を気にかければ共倒れになってしまう。だから優しい人は余裕があるように見えるんだ。……春佳はまず、自分の幸せを考えるんだ。自分のために勉強して、働いて、友達と遊ぶ。たまに少し贅沢ができる程度の生活を送る。そう過ごしながら、余力で母親の事を考えればいい」
兄の言葉は一理ある。
それでも、春佳の心には引っかかりがあった。
「でも家族だし。お母さんが大変な時に遊んでたら駄目だよ」
だが冬夜は首を左右に振った。
「親父が死んで世界が変わったか? ニュースにもならないし、時間も止まらない。ポストは赤いし、日は昇って沈むし、海外情勢も何も変わらない」
「……そんな意地悪言わなくても」
春佳はムッとして唇を尖らせる。
「冷たい事を言えば、大災害で大勢の人が亡くなっても、自分の住んでいる街が被害を受けていないなら、普通に過ごすしかないんだ。生きて、飯を食って寝て起きて、学校に行き、会社に行き、社会と経済を回す。あと数年経って春佳が社会人になったあと、お前の仕事が何かに貢献するかもしれないし、誰かの人生を変えるかもしれない。そのためにいま勉強する手を止めてはいけないんだ。悲しいからって、自分の人生を投げ出したらいけない」
兄の言葉は正しく、正しいがゆえに春佳の心を刺す。
冬夜は春佳が暴行を受けた日を思いだすと、目に暗い火を灯す。
怒ってくれるのはありがたいが、その話題になるたびに春佳は岩淵に襲われた事を思いだしてしまう。
だから春佳はなるべく、あの日の事は考えないようにしていた。
「……お母さんはつらい事があって、自分の事しか考えられなかったのかもしれないね。普通の母親は、何より子供を優先するって聞くけど、人それぞれだと思うし」
なるべく広い心を持ちたいと思っているが、春佳だって嫌な事があったら「自分はこんなにつらいのに……」と周囲を恨んでしまいたくなる。
人は簡単に身を落としてしまうと分かっているから、春佳は暗い気持ちになった時は本を読んだり風呂に入ったり、別の事をして気持ちを切り替えようとしている。
けれど母はそううまく、気分転換ができないのだろう。
ずっと専業主婦だったし、たまに心のスイッチをオンにして、化粧をして出かける事はあったが、基本的に家に閉じこもっていた。
家事はしたりしなかったりで、冬夜が家にいた頃は彼が料理をしていた事が多かった。
春佳は少しでも母の役に立ちたくて、レシピ動画を参考に少しずつ料理を覚えていった。
でも母は春佳の作った食事を一度も「美味しい」と言わなかったし、家事をしても感謝される事はなかった。
だから母に関しては、「そういうものだ」と思うようになっていたのだ。
もしも春佳の家族が涼子だけだったなら、彼女はもっと歪んだ性格の女性になっていたかもしれない。
父と兄がいてくれたからこそ、春佳の心に良識が植え付けられたのだ。
だから春佳は父が好きだったし、兄の事も尊敬していた。
……今は少しばかり、兄とどう接するか悩んでいるが。
冬夜には感謝はしているが、彼がすべての家族の役割を負おうとしているように思え、「そこまでしなくていいのに」と心配になってしまう。
冬夜は両親にとても冷たい態度をとっていたし、妹に近づく男には合コンの男性であれ、岩淵であれ、狂犬のように攻撃的になる。
そんな兄の一面を知るたびに、彼が知らない男性になったように思えて仕方がない。
麦茶をもう一口飲んだ冬夜は、何かをそらんじるように言う。
「優しい人はまず自分の心を満たし、余力で他人を気に掛ける。自分の時間や気力を削って他人を気にかければ共倒れになってしまう。だから優しい人は余裕があるように見えるんだ。……春佳はまず、自分の幸せを考えるんだ。自分のために勉強して、働いて、友達と遊ぶ。たまに少し贅沢ができる程度の生活を送る。そう過ごしながら、余力で母親の事を考えればいい」
兄の言葉は一理ある。
それでも、春佳の心には引っかかりがあった。
「でも家族だし。お母さんが大変な時に遊んでたら駄目だよ」
だが冬夜は首を左右に振った。
「親父が死んで世界が変わったか? ニュースにもならないし、時間も止まらない。ポストは赤いし、日は昇って沈むし、海外情勢も何も変わらない」
「……そんな意地悪言わなくても」
春佳はムッとして唇を尖らせる。
「冷たい事を言えば、大災害で大勢の人が亡くなっても、自分の住んでいる街が被害を受けていないなら、普通に過ごすしかないんだ。生きて、飯を食って寝て起きて、学校に行き、会社に行き、社会と経済を回す。あと数年経って春佳が社会人になったあと、お前の仕事が何かに貢献するかもしれないし、誰かの人生を変えるかもしれない。そのためにいま勉強する手を止めてはいけないんだ。悲しいからって、自分の人生を投げ出したらいけない」
兄の言葉は正しく、正しいがゆえに春佳の心を刺す。
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