泥に咲く花

臣桜

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第五十三章

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 リハビリに取り組む桜を、忠臣は眩しいものを見るように見守っている。

 彼女はやはり花だ。
 泥にまみれて尚咲き誇る、美しい花。

 そう思う忠臣も、自身が花だという事に気付いていない。

 人を見て人を羨ましがり、己の事にはあまり気付かない。
 それはまだ年齢が至っていない所為かもしれないし、心に余裕があれば広い視野を持つ事が出来る。

 けれども、美しいものを美しいと思えるだけでもいいではないか、と忠臣は思う。
 彼女の指はまだ元の様に美しい音色を奏でる事は出来ない。
 だが、それで桜の指の美しさが損なわれた訳ではないし、未来というものはどの様に変わるのかも分からない。

 自分を信じて、支えてくれる人を信じれば、どれだけ泥にまみれた闇の中にいても、きっと進んでいける。

「ねぇ、忠臣さん。今日はこんだけ曲がったの」
「本当? 頑張ったね」

 笑ってそう報告してくれる桜が愛しくて堪らない。

 泥の中に咲く彼女だからこそ愛しくて、毎晩その指にキスをして眠る。

 ピアノの部屋のドアは開いていた。

 毎朝、桜は起きたらピアノの部屋に行き、大好きな曲をハミングしながらグランドピアノを撫でて、そのどっしりとした表面に顔をつけて愛情を伝える。
「今まで邪険にしてごめんね」と言うように。

 いつだってその時がスタートだと思えば、人生は新しくやり直せる。

 自分が泥にまみれていると思っても、視点を変えればすぐ側に似たような花が寄り添ってくれているのかもしれない。

 それに気づけるのは自分自身。

「桜、朝ご飯出来たよ」

 愛しい人の声がして、桜が「はぁい」と返事をする。
 ごくありふれた朝の風景。

 冬の光を浴びるピアノの前に桜が座り、忠臣と小さな姉妹がまたその音色に耳を傾けるのは、そう遠い話ではない。

 忠臣がかつて麻薬の様に感じたあの甘い香りは、もしかしたら桜の中にある泥に咲く花の香りだったのかもしれない。
 自分を化け物だと思って桜に感じていた欲は、ただの初恋の衝動。
 鏡で見た自分の目の変化は、ただの光の錯覚。
 人並みに幸せになりたいと思っていた自分の願いは叶っていて、今は鏡の自分に向かって「そんなお前も好きだよ」という事が出来る。

 蝉の声はもう聞こえない。

 あの夏はもう終わって、季節は巡る。

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