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第三部雨・10
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「はじまり」
レナを連れた血塗れのユヴァを見た瞬間に、戦斧を振り翳して襲い掛かって来た門番をユヴァは難なく斬り捨てた。
そのまま二人は『終わりの街』の門をくぐる。
暴風雨はいつの間にか収まっていて、いつも通り、陰気で粘液質な雨がただ降り続いていた。
顔を天に向け、振ってくる雨で顔に着いた血を洗い流しながらユヴァは言う。
「顔、痛くないのか?」
それにレナは静かな微笑を浮かべて応える。
「平気。殴られるのは慣れてるから。……でも、左の耳が聞こえなくなったみたい。まぁ、いいけど」
アレクに殴られたショックで、レナの左耳は凄まじいダメージを受けていた。後日、顔の方は多少の傷を残して回復するが、レナの左耳は永遠に音を失ってしまっていた。
「取り敢えず……どこに行く?」
返り血で髪がパリパリになってしまったユヴァが、ぬらりとした肉を見せている右腕の傷口を、布で固く縛りながら問う。
レナがアレクの首を包丁で仕留めた一瞬の隙を突き、右半身を男達の攻撃に無防備な状態で晒しつつアレクに向かって突進したのだ。
首を狙って振るわれた剣を咄嗟に庇った右腕で受けた結果、右肘から下が使い物にならなくなった。
「……まずは、あなたの傷を治療出来る人がいる所にいかないと。それから、あなたが元気になったら……うみ、っていう所に行ってみたい。水がたくさんある所なんでしょ?」
自分の意志を持つようになったレナに、ユヴァは片頬を緩めて笑うと頷いた。それを見て、レナも微笑う。
「あなたが笑う所、初めて見た」
言われ、ユヴァは初めてそれに気付く。レナが変化したと同時に、自分も少し変わりつつある事に。
心に大きな欠落がある二人。
一人は片目を失い、片腕を不自由にし、一人は片耳を失っている。
それでも、二人併せてもまだまだ不完全だけれども、『変化』はあった。アレクの死の後に『変化』訪れ、そしてはっきりとした標の無い二人を導いている。
望んだものが全て与えられる訳ではない。幾ら足掻いても、『変化』が無いものはある。
しかし足掻けば『変化』させられるものもある。
母親に『人の心』について教わり、それを理解する事はできなかったが、どうやら自分自身で掴み取れそうだった。
レナが海を見たいというなら、それを目標にして生きてもいい。
それが叶えられたなら、次の目標を定めて生きればいい。
御立派な大義名分や、崇高な使命がなくても生きて行ける。
――何となく。
それでもいいと感じた。
そして不完全な者同士、足掻き続ければ何かを得る事が出来るなら、共に歩いて足掻き続けて生きるのもいい。
目指す『完全』が分からなくても足掻いている内に、もしかしたら分かる時が来るかもしれない。
先の事は全く分からないが、それでも今が変わっていくなら生きていたい。
『今』が変わっていくと同時に変わっていく可能性のある自分を、見届けてやりたい。
腐った王国の、腐った連中も、こうして変わっていくのだろうか。
もし、そうなら、その数多くの小変化の後に大きな『変化』があるならば、見てみたい。
「……悪くない」
ボソリと口元で呟いたユヴァを、レナは不思議そうに見上げてから、思い出したかの様に尋ねる。
「ねえ、手を繋いでいていい? 何だかあなたに触っていると、こころが……揺れて、気持ちがいい。そうしていたい」
たどたどしい好意の表現に、ユヴァは微笑するとレナの華奢な手を握った。
触れ合った部分から体温が混ざり合い、あたたまる。そして、心が優しいリズムを刻み始める。
『終わりの街』を背に荒野を歩き続け、雲が切れて光が射すとレナは足を止めて天を仰いだ。
背後に続くは曇天。
頭上の雲は連続性を失って、所々に穴を空けている。
そこから光の柱が立ち、白い光が大地に射していた。
レナが生まれて初めて見る、太陽の光だ。
立っている位置からすぐ近くにある、陽の当たっている場所に小走りに移動する。
さぁっと光を浴びて体が熱を感じる。
両手を顔の高さまで上げ、それを裏表とひっくり返しては日光によって作られる陰影に彼女は見惚れた。
そして、そのまま両のかいなをしなやかに伸ばすと、天に向けて差し出した。
形のないひかりを、そっと抱いてみる。
――まぶしい。
光が目を射す。でも、嫌じゃない。
「レナ、名字を変えないか?」
初対面の太陽と、ぎこちなく接触しているレナを眺めていたユヴァが、その様子を見て口を開く。
光の下でレナの髪が銀色に光るのを見て、初めて『美しい』という感覚を得ながら。
「……名前?」
光の中でこちらを向くレナの真紅の目を見て、ユヴァは言う。
「『終わりの街』のレナ・スクーニャは死んだ。今日からは、レナ・メイヤ」
「メイヤ……? どういう意味?」
与えられた名に、少々面映ゆい表情を浮かべレナは新しい名字の意味を尋ねる。
「俺が作った言葉だが。メイは『光』。ヤは『風』」
「ありがとう」
そう礼を言って、レナ・メイヤは光の中でとろける様に微笑んだ。
そして、歩く。
前方に広がる青空に向かって、光の中を。
雨音の中に、娼婦であった少女と血と、憎悪と果てしない嫌悪と、癒える事のない傷と、終わりの無い悪夢を封印して。
決して善意に満ちた素晴らしい世界ではないけれど、それでも過去とは違う世界を目指して。
人として、人らしく、人の中で生きるために。
第三部・完
レナを連れた血塗れのユヴァを見た瞬間に、戦斧を振り翳して襲い掛かって来た門番をユヴァは難なく斬り捨てた。
そのまま二人は『終わりの街』の門をくぐる。
暴風雨はいつの間にか収まっていて、いつも通り、陰気で粘液質な雨がただ降り続いていた。
顔を天に向け、振ってくる雨で顔に着いた血を洗い流しながらユヴァは言う。
「顔、痛くないのか?」
それにレナは静かな微笑を浮かべて応える。
「平気。殴られるのは慣れてるから。……でも、左の耳が聞こえなくなったみたい。まぁ、いいけど」
アレクに殴られたショックで、レナの左耳は凄まじいダメージを受けていた。後日、顔の方は多少の傷を残して回復するが、レナの左耳は永遠に音を失ってしまっていた。
「取り敢えず……どこに行く?」
返り血で髪がパリパリになってしまったユヴァが、ぬらりとした肉を見せている右腕の傷口を、布で固く縛りながら問う。
レナがアレクの首を包丁で仕留めた一瞬の隙を突き、右半身を男達の攻撃に無防備な状態で晒しつつアレクに向かって突進したのだ。
首を狙って振るわれた剣を咄嗟に庇った右腕で受けた結果、右肘から下が使い物にならなくなった。
「……まずは、あなたの傷を治療出来る人がいる所にいかないと。それから、あなたが元気になったら……うみ、っていう所に行ってみたい。水がたくさんある所なんでしょ?」
自分の意志を持つようになったレナに、ユヴァは片頬を緩めて笑うと頷いた。それを見て、レナも微笑う。
「あなたが笑う所、初めて見た」
言われ、ユヴァは初めてそれに気付く。レナが変化したと同時に、自分も少し変わりつつある事に。
心に大きな欠落がある二人。
一人は片目を失い、片腕を不自由にし、一人は片耳を失っている。
それでも、二人併せてもまだまだ不完全だけれども、『変化』はあった。アレクの死の後に『変化』訪れ、そしてはっきりとした標の無い二人を導いている。
望んだものが全て与えられる訳ではない。幾ら足掻いても、『変化』が無いものはある。
しかし足掻けば『変化』させられるものもある。
母親に『人の心』について教わり、それを理解する事はできなかったが、どうやら自分自身で掴み取れそうだった。
レナが海を見たいというなら、それを目標にして生きてもいい。
それが叶えられたなら、次の目標を定めて生きればいい。
御立派な大義名分や、崇高な使命がなくても生きて行ける。
――何となく。
それでもいいと感じた。
そして不完全な者同士、足掻き続ければ何かを得る事が出来るなら、共に歩いて足掻き続けて生きるのもいい。
目指す『完全』が分からなくても足掻いている内に、もしかしたら分かる時が来るかもしれない。
先の事は全く分からないが、それでも今が変わっていくなら生きていたい。
『今』が変わっていくと同時に変わっていく可能性のある自分を、見届けてやりたい。
腐った王国の、腐った連中も、こうして変わっていくのだろうか。
もし、そうなら、その数多くの小変化の後に大きな『変化』があるならば、見てみたい。
「……悪くない」
ボソリと口元で呟いたユヴァを、レナは不思議そうに見上げてから、思い出したかの様に尋ねる。
「ねえ、手を繋いでいていい? 何だかあなたに触っていると、こころが……揺れて、気持ちがいい。そうしていたい」
たどたどしい好意の表現に、ユヴァは微笑するとレナの華奢な手を握った。
触れ合った部分から体温が混ざり合い、あたたまる。そして、心が優しいリズムを刻み始める。
『終わりの街』を背に荒野を歩き続け、雲が切れて光が射すとレナは足を止めて天を仰いだ。
背後に続くは曇天。
頭上の雲は連続性を失って、所々に穴を空けている。
そこから光の柱が立ち、白い光が大地に射していた。
レナが生まれて初めて見る、太陽の光だ。
立っている位置からすぐ近くにある、陽の当たっている場所に小走りに移動する。
さぁっと光を浴びて体が熱を感じる。
両手を顔の高さまで上げ、それを裏表とひっくり返しては日光によって作られる陰影に彼女は見惚れた。
そして、そのまま両のかいなをしなやかに伸ばすと、天に向けて差し出した。
形のないひかりを、そっと抱いてみる。
――まぶしい。
光が目を射す。でも、嫌じゃない。
「レナ、名字を変えないか?」
初対面の太陽と、ぎこちなく接触しているレナを眺めていたユヴァが、その様子を見て口を開く。
光の下でレナの髪が銀色に光るのを見て、初めて『美しい』という感覚を得ながら。
「……名前?」
光の中でこちらを向くレナの真紅の目を見て、ユヴァは言う。
「『終わりの街』のレナ・スクーニャは死んだ。今日からは、レナ・メイヤ」
「メイヤ……? どういう意味?」
与えられた名に、少々面映ゆい表情を浮かべレナは新しい名字の意味を尋ねる。
「俺が作った言葉だが。メイは『光』。ヤは『風』」
「ありがとう」
そう礼を言って、レナ・メイヤは光の中でとろける様に微笑んだ。
そして、歩く。
前方に広がる青空に向かって、光の中を。
雨音の中に、娼婦であった少女と血と、憎悪と果てしない嫌悪と、癒える事のない傷と、終わりの無い悪夢を封印して。
決して善意に満ちた素晴らしい世界ではないけれど、それでも過去とは違う世界を目指して。
人として、人らしく、人の中で生きるために。
第三部・完
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