風と雨の神話

臣桜

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第一部・神話1

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「起源」

 神は嘆いた。
 これがかつて緑と水に富んだ、あの美しい世界なのかと。
 大地は不毛の地と化し、底知れぬ深さまでひび割れた空間から虚無の暗黒を覗かせる。大気は乾ききり、乾いた風が砂の礫を降らせ、天から蒼い色を奪い黄色い雲で空を覆い尽くした。水は濁り緑の生命を奪い、海はひたひたと水位を上げて大陸を静かに飲み込もうとしていた。
 人々は絶望の底を、終りのない道を、ただ果てしなく歩き続けていた。
 このままではこの世界は死んでしまう。
 神はそう思い、一つの生命(いのち)を創った。
 神はその生命を『復活(リ・ヴァイブル)』と名付けた。
 神は言う。
〝良いか、リヴァ。私の手によって生を受けたお前の使命は、この崩壊寸前の世界を救う事。この世界を此処まで狂わせたあの魔人はなりを潜めたが、彼奴(あやつ)の成した行いは元には戻せぬ。時を司る不動の神々が重い腰を上げたとしても、この歴史は変える事は出来ぬ。この悲運としか言い表す事の出来ぬ運命は、この世界に必要なものなのだ〟
 神とは言え全能ではない己の立場を深く嘆き、悲しみながらも神はそう言い、それに子は答えた。
「心得ております。主よ。必ずや己に課せられた使命を果たしてみせます」
 どこまでも澄んだ瞳でそう宣誓したリヴァに、父なる神は微笑む。
〝お前に二つの力を授けよう。一つは使命を果たすべく行動を起こした時から、歳を取る事もなく、死よりも最も遠い肉体。二つ目は風と雨を自在に操る力。これらを正しき事に使い、正しく生きよ〟
「仰せの通りに」
 リヴァは畏怖と畏敬の念を込めて深く頭(こうべ)を垂らし、そして立ち上がった。
〝正しき事を行う者に祝福を〟
 神がそう言い、手にしていた杖の先をリヴァの額にそっと当てると、その瞬間リヴァは人としての肉を持って下界へと落ちた。

**

「誕生」

 今、世界は混沌(カオス)そのものであった。
 人でありながら神をも凌駕するかと思える程の力をみせた魔人フィリオン。狂気の海に沈んだ彼が起こした『火の三日間』と呼ばれる世界的大災害より、世界の歴史・気候・社会システムなどはがらりと様変わりしてしまった。
 今となっては、大災害以前の暮しや記憶は夢の中の話かと思える様になってきた。
 顔を上げて前を向いて進むには皆くたびれ果て、生きる気力も、未来への希望も何もかもを放棄してしまっていた。
 過酷なまでの現実を突きつけられ、それらから目を背けずに生きる心の強さを持つものはほとんど居ない。


 人々の大半は、いち早く復興し始めようとしている大きな都市や城下町などへと移り住み、そこで肩を寄せ合って細々と暮らしている。
 機能そのものはほぼ停止してしまったが、居住エリアの規模が大きいだけあって、何とか屋根のある所で寝る事が出来る。地方にある小さな村や町は、一瞬にして焼け野原になってしまった。
 都市全体に魔法障壁がかけられている場所などは、かろうじて都市という形を維持する事は出来ていた。


 だが、住処を失ってしまった者達全てが大きな所へ移動出来る訳ではない。
 絶望に両足首をがっちりと捕らわれ、怪我をしたまま治療もろくに受けられず、食べるべき物もない者達は動く気力すらなく、どんよりとした目をして座り込んだままだ。
 そのうち衛生面などで問題が生じて疫病が流行る様になるだろう。そうすれば、大災害の余波的に多くの者が弱りきった生命にとどめを刺されて死んで行くだろう。
 早くも生きる事を諦めてしまった者の中には、自らを糧として自分よりも若い者に生きる事を望む者もいた。
 己の肉を食えというのである。
 それは親が子に与える事の出来る最後のものであり、何としてでも生きて欲しいという願いそのものであった。
 それが通常の出来事ならば、人間として最大の禁忌を犯す事になる。
 勿論、言われた子は頑なにそれを拒絶する。
 自らの愛する者の肉をどうして食らう事が出来ようか。
 だが、自らを食らって欲しいと望む側は、何としてでもそれを理解して欲しくて泣く。
 愛しているが故に、生きて居て欲しいと望む。
 自分の弱りきった体がいずれは使い物にならなくなり、自分も苦しんだ揚句、他人にも苦しみと悲しみを与えた上に最後には力尽きて死ぬ。その前に、せめてこれ以上体の状態が悪くなってしまわない内に、自らを糧として生きて欲しい。

 その様な血まみれの愛情があった。

 やがて人肉は貴重な食糧となり、食糧とする為に比較的元気な者が動けぬ者を襲って血肉を食らうという惨劇も多々起こり始めた。
 自然の動物を捕らえるのは、比較的元気な者達としても難しい事なのだ。
 体力の無いままに森を歩き回り、逆に肉食の物に襲われてしまっては話にもならない。
 増してや、大災害の為にろくな武器も無いのだ。魔法を使える者は地方には少ない。その前に、多くの魔導士達が大災害の時に魔人に立ち向かい、散ってしまった。
 地上は死の世界であった。
 此処が地獄だ、と人は言う。
 周りに居るは修羅ばかり。そして、己もまた修羅であると。
 混沌の中では善も悪も無い。ただ生きようとする者が居て、生きるが為に争いを繰り広げる。
 弱肉強食。まさに言葉の通りだ。
 人は原初の獣に還っていた。
 だが、全ての理性が死に絶えた訳ではない。
 人としての優しさや愛情が失われた訳ではない。
 そして、未来というものも生というものも根絶した訳ではない。
 失われ、死んでゆくものがあれば、必ず生まれて来るものがある。
 人は強い。
 様々な現象が入り乱れる人間界に住まう人間だからこそ、混沌に生まれ混沌に生きる彼らだからこそ、雑草の様にしぶとく這いつくばって生き続ける。
 そして彼らは生命の糸を紡ぎ続ける――。


 守られた命があった。
 辺境と呼んで差し支えのない場所に、ひっそりと小さな村がある。その小ささ故に魔人の炎より逃れる事の出来た村だ。
 遊牧する為の草原は焼き払われてしまったが、失ったものはその程度であった。人死にがあった訳でもなく、地震などでややがたついてしまったが家屋も原形を留めている。幸運な村であった。
 そこで今、新たな生命が誕生しようとしていた。
 飾り気のない純朴そうな娘が丸い顔を真赤にしていきみ、苦しそうに頭を左右に振っている。夫である青年は彼女の枕元に膝を突き、産婆は彼女の広げられた脚の辺りで座り込んでいる。
 が、二人共出産の興奮とは別のものに気を捕らわれていた。娘が苦しそうに唸るのだが、本来ならば元気付け、励ます為にかけられる声もどことなく上の空だ。
 暗い室内を、ぼんやりとした青白い光が照らしていた。
 曇ってはいるが燃料がもったいないので火は使っていない。月光が威力を発揮する夜でもない。
 それ以前に、厚く垂れ込めた雲と黄砂のお陰で月などは久しく目にしていない。
 その光は、大きく膨らんだ娘の腹から発されていた。
 妊婦の腹が光るなど聞いた事も見た事もない。
 ただただ二人は驚いて、もしや腹の中には魔性のものがいるのでは…と不安と恐怖におろおろとしているだけであった。
 子を産もうとしている娘だけが、新しい生命を産み落とす事だけを考えて必死に頑張っている。
 光は、時間が経過すると共に次第に強くなっていった。
 ぼんやりとしていたそれは、いつの間にかはっきりとした強い光となり、不思議な事に、それと同時に青年と産婆の心にあった不安や恐怖が薄れていった。
 柔らかな光。
 穏やかな青。
 かつての美しい空の色。
 透き通った月光の色。
 生命の根元たる母なる海の色。
 その光に照らされている内に、二人はすっかりと穏やかな気持ちになっていた。
 出産の緊張感や不安は拭われ、心から離れようとしない世界の状況への不安、絶望などもすっかり消え去っていた。
 ――大丈夫だ。
 見えない腕にしっかりと抱かれ、心地良い安心感を得たなか、一人の赤子はこの地上に力強い生声を上げて誕生した。
 ――新しい命。
 それは、――希望。
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