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加速する絶望 編

一世一代の恋

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 その一年後の十一月三十日は木曜日だ。

 平日なのでピアノを弾くのは週末にし、リビングのコンポでモーツァルトの『ラクリモーサ』を掛けて朝食をとる。

 いつものように出社し、その日ばかりは早めに退勤して墓地へ向かった。

 四年前に墓地で中山の家族と遭遇したあと、気持ちを整えてからしっかり話を聞き、怜香を陥れるための証拠を用意した。

 復讐する手はずを整える一方で、俺の朱里への気持ちに変化ができていった。

 最初は彼女が幸せになるなら、隣にいる男は田村でも誰でもいいと思っていた。

 俺も恋人を作り、お互い別の人を大切にしてそれぞれの人生を歩むはずだった。

 だが怜香により俺の人生は破壊され、精神的にも追い詰められていく。

 たった一つだけでいいから、望むもの――朱里がほしいと望んでしまった俺は、彼女を篠宮フーズに引き入れてしまう。

 そのあとにも誤算はあった。

 側で見守っていようと決めていたのに、朱里は田村から大切にされていなかったと知る。

 結果、『俺ならもっと朱里を大事にするのに』……という思いが膨れ上がり、徐々に『見守ろう』という気持ちが崩れていく。

 さらに朱里が田村に抱かれたと聞いて、頭の中で何かがパンクした。

 妹のように思っていたはずだったのに、俺はいつの間にか朱里を恋愛対象として見てしまっていたようだった。

 ――俺なら朱里を大切にできる。

 ――俺が一番彼女を理解できる。

 ――周りの誰も頼りにならないなら、俺が彼女をもらったっていいだろ?

 そして自分と朱里が幸せになるには……、と考え、障害となるものを定めた。

 ――怜香さえ排除すれば、朱里を愛しても誰も文句を言わないんじゃないか?

 父も風磨も、俺に遠慮しているから、何かを望めば受け入れてくれるはずだ。

 それを逆手にとって我が儘を言っている訳ではないが、いつか大切な頼み事ができた時のために、ずっと大人しく過ごしている。

 あいつらだって、怜香さえ黙らせれば俺の幸せに協力してくれるだろう。

 一度甘い期待を抱いてしまうと、そればかりを考えるようになった。

 朱里には『嫌な上司』と思われたままで、恋愛対象として見てもらえるか分からないのに、俺は彼女との未来を夢想して水面下で動き始めた。

 ある意味、夢想に取り憑かれたやべぇ奴だ。

 朱里が田村と別れたのは一年前だが、その間、俺は怜香を陥れる準備に奔走していて、朱里に迫るどころではなかった。

 フリーになった朱里に迫る奴が現れないか心配だったが、朱里が田村に強い未練を抱いていたのがある意味幸いだった。

 中村さんからも報告を受け、朱里はまだ次の恋愛に目を向けるどころではないと確認してある。

 ゆっくりと彼女の心の傷が癒えるのを待つ間、俺は自分の成すべき事をしていった。

 そうしているうちに一年が経ち、朱里の田村への未練もやや薄れた〝今〟なら、準備を整えた俺が行動を起こしてもいいのでは……と感じていた。






 墓の掃除を終えた俺は、しゃがんで母とあかりに報告する。

『母さん、あかり。……俺、幸せになっていいかな。どうしても気になって仕方がない子がいるんだ。最初はあかりに重ねて、妹を見守っている気持ちだった。……でも今は違う。朱里が言ったように十年……いや、十二年が経ち、お互い結婚しても問題ない年齢になった』

 風に吹かれて揺れる花を見て、俺は切なげに笑った。

『今までずっと朱里に対して、嫌な上司を演じてきた。本当は甘やかして大切にしてやりたいけど、あいつには付き合っている男がいたし、本気にならないために壁を作ってきた。……でも朱里と田村は別れ、気を遣う必要もなくなった。……この気持ちを打ち明けたら、えらく驚かれてドン引きされると思う。…………けど、最後に一回だけ女性を信じて愛したい。幸せになりたい。……あいつが欲しいんだ』

 押し殺した声で言ったあと、俺は小さく首を横に振って笑った。

『違う。……本音を言えばずっと朱里を抱きたかった。大切にしていた朱里の処女を田村なんかに奪われたと知って、腸が煮えくりかえるぐらいムカついた。あいつを一番想ってるのは俺だ。…………ずっと見守っていたんだ。もう妹の代わりなんかじゃない。……朱里がほしい。…………あいつと幸せになりたい』

 最後は、か細い声で望みを口にした。

『朱里の名前を口にするたび、あかりを思いだす。……でも、もう違うんだ。ごめんな。あかりの事は心の奥でずっと大切に想ってる。……でも兄ちゃんはそろそろ、結婚して幸せになりたいんだ。お前を忘れる訳じゃない。朱里と混同する訳でもない。…………人として、人を愛して、前に進みたいんだ』

 振り返れば、俺は怒りと憎しみ、絶望と共に生きてきた。

 母とあかりを喪ってこの世のすべてに絶望し、不甲斐ない父に怒り、怜香への憎しみを育て続けた。

 人を好きになりかけた事は何回かあったが、その想いは成就されなかった。

 三十二歳になってなお、俺は真の意味で人を愛する事を知らないガキのままだ。

 母とあかりの死の真相を知り、当面の間、人生の目標を復讐に定めた。

 だが復讐を果たしたとして、そのあとはどうする?

 この憎しみは一生消えず、引きずっていくだろう。

 だが怜香に法の裁きを与たあとも、あの女を憎みながら生きていくのか?

 ――そんなの嫌だ。

 俺だって人並みの幸せが欲しい。

 人を愛して、愛されて、恋人になり、愛のあるセックスをして、結婚して子供を授かりたい。

 母とあかりが遺せなかったものを俺が継いで残していきたいし、『生まれて良かった』と思えるようになりたい。

 妻に愛され、子供に頼られ、理想的な家庭を築きたい。

 だから、恋をする覚悟を決めた。

 一世一代の恋だ。

 受け入れてもらえるかは分からない。恐らくとても難しいだろう。

 命の恩人の〝忍〟だったという切り札は使えば簡単かもしれないが、俺は〝速水尊〟を好きになってほしい。

 汚い事もするし、ずっと朱里を裏から見守ってきたストーカーだ。

 ちょっと金は持ってるが、性格は良くないし家庭環境は最悪、過去はクソ重たい訳あり中の訳ありだ。

 それでももし、朱里が俺を好きになってくれるなら、彼女にすべてを懸けたい。

 性経験はあっても、恋愛はど下手くそだ。

 やり方を間違えるかもしれないし、もっと嫌われるかもしれない。

 けど、可能な限り誠実に接して、俺の想いを伝えていきたい。

 もしフラれたとしても、俺は今後ずっと朱里を想い続けるだろう。

 十二年見守り続けた朱里以上に、好きになれる女性なんてきっと現れない。

『……ははっ、すげぇクソデカ感情だな』

 俺は自嘲する。

『いまだ田村を想ってるあいつが、嫌いな上司である俺に応えてくれるかは分からない。でも田村を完全に忘れるのを待ってたら、他の男に盗られるかもしれない。その前に俺が〝次の男〟になりたい。……正直、どう迫るのが正解か分からないし、成功する確率もすげぇ低いだろう。……でも、あいつを大切にしたい気持ちは誰にも負けない。……頑張ってみる。……だから、二人も見守っていてくれ』

 立ち上がり、俺は新しい道を歩む気持ちで踵を返す。

(あいつより俺のほうがずっと大切にしてやれるって教えたいけど、どうやったら聞いてくれるかな)

 考えながら帰路についたが――、マンションのロビーに悪魔――怜香が待っていた。
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