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尊の過去 編
絶望の谷で出会った人
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風磨が何も言わないなか、怜香は微笑んだまま強引に話を続ける。
『お父様には、あなたが篠宮フーズに入ると言ってありますからね。ね? あなた』
妻に同意を求められ、父は申し訳なさそうな顔で俺を見る。
『尊……、我が社で働いてくれないか? お前の優秀さは買っている』
――あんたがそれを言うのかよ。
母との間に無責任に俺を作り、放置した挙げ句、母が亡くなったらここぞとばかりに父親面をしてくる。
『私に遺されているのは尊だけだ』と言っておきながら、家には妻も息子もいた。
――こいつの何を信じたらいいか分からねぇ。
篠宮フーズを牽引する経営者としての腕は本物でも、父親、一人の男としては最低最悪だ。
『もういいでしょう。あなたは十分〝父親〟の役割を果たしました。大学にも通わせてもらえて感謝してますよ。恩返しならしたいと思っていますが、進路については、自分の人生なんですから俺に決めさせてください』
押し殺した声で言ったが、怜香が一笑に付した。
『〝恩返し〟をするんでしょう? 自由気ままな大学生活を送らせてあげているんだから、篠宮フーズに勤めるしか道はないじゃない。それ以上の恩知らずになりたいの?』
日々の態度から分かっていたが、怜香は俺を憎んでいる。当然だけどな。
俺は努めて〝いい子〟であろうとしたし、ただでさえ悪い印象が悪化しないように優秀な成績を収め、篠宮家の息子として紹介されても恥じない行儀作法を身につけた。
それでも怜香は満足せず、〝恩知らず〟と思っていた。
本当はここで『なら出ていきます』と言えば良かったのかもしれない。
だが先に怜香が根回しをしていた。
『パーティーで皆さんにあなたの話をしてあげたのよ。皆〝気の毒に〟と仰っていたけれど、〝うちの会社を志望されたらどうしよう〟という顔をされていたわ。篠宮フーズの婚外子が自社に入れば、他の会社さんにどういう顔をしたらいいか分からないものね? 私としてもあなたがよそで迷惑を掛けると思ったら、気が気でないの。……あぁ、そうだわ。海外に行こうとか思っていないわよね? そんな恩知らずな事をすると思っていないけれど……』
そこまで言い、怜香は凍り付きそうな目で俺を凝視した。
――あぁ……、逃げられないのか。
その時俺が抱いたのは、諦念だ。
ここで無理に海外逃亡すれば、母が守ってきたものすべてが台無しになる。
もし俺が海外に逃げれば、日本に居場所はなくなるだろう。
縁を切ったとはいえ、母の実家にまで迷惑が掛かるかもしれない。
ゆっくりと、胸の奥で希望が萎んでいくのを感じた。
トンと触れられたオジギソウのように、急激にこうべを垂れ、勢いを失う。
この時、俺の心は一度殺されたと言ってもいい。
『…………分かりました。言う通りにします』
視線を落として承諾すると、怜香は返事をせずに風磨に別の話題を振った。
『……尊くん?』
夏場にボーッと歩いていると女性に呼びかけられ、俺は頭痛がするなか胡乱な目をそちらに向ける。
閉ざされた未来に絶望を味わった俺は、大学が夏休みなのをいい事に、朝から晩まであてどなく歩き回るようになっていた。
場所など確認せず歩くので、呼びかけられて足を止めた時、自分がどこにいるのか分からなかった。
(誰だ……?)
目を眇めて見た先には、日傘を差した和服姿の中年女性がいる。
品の良さそうなその顔を見て、『誰かに似てる』と思った時、彼女が弾けるように声を上げた。
『やだ! 酷い顔色じゃない!』
その時、自覚していなかったが、俺は炎天下のなか歩き続けて、顔面蒼白になっていた。
『うち、近くだから来てちょうだい! 日傘に入って! 歩ける!?』
女性は俺の腕を組むと、支えるようにして歩き始めた。
意識が朦朧とするなか豪邸に入ったあと、玄関でスポーツドリンクを飲まされた。
目を閉じてぐったりとしていると、彼女が誰か男性を呼び、俺を客間のベッドへ連れていかせた。
横になると首筋や腋の下に保冷剤を挟まれ、しばらく目を閉じて気分の悪さが収まるのを待っていた。
回復するのを待っている間に、少し眠ってしまったかもしれない。
一人暮らしになって怜香がいなくなっても、自宅にいると思考が内側に向いて落ち着かず、このところ不眠気味だった。
その時、心身共に限界を迎えて初めて、泥のように眠る事ができたのだと思う。
ふ……、と意識を浮上させると、時計の秒針の音が耳に入った。
重たく感じる腕をもたげて額に乗せられているタオルに触れると、『気がついたのね』と女性の優しい声がした。
『お父様には、あなたが篠宮フーズに入ると言ってありますからね。ね? あなた』
妻に同意を求められ、父は申し訳なさそうな顔で俺を見る。
『尊……、我が社で働いてくれないか? お前の優秀さは買っている』
――あんたがそれを言うのかよ。
母との間に無責任に俺を作り、放置した挙げ句、母が亡くなったらここぞとばかりに父親面をしてくる。
『私に遺されているのは尊だけだ』と言っておきながら、家には妻も息子もいた。
――こいつの何を信じたらいいか分からねぇ。
篠宮フーズを牽引する経営者としての腕は本物でも、父親、一人の男としては最低最悪だ。
『もういいでしょう。あなたは十分〝父親〟の役割を果たしました。大学にも通わせてもらえて感謝してますよ。恩返しならしたいと思っていますが、進路については、自分の人生なんですから俺に決めさせてください』
押し殺した声で言ったが、怜香が一笑に付した。
『〝恩返し〟をするんでしょう? 自由気ままな大学生活を送らせてあげているんだから、篠宮フーズに勤めるしか道はないじゃない。それ以上の恩知らずになりたいの?』
日々の態度から分かっていたが、怜香は俺を憎んでいる。当然だけどな。
俺は努めて〝いい子〟であろうとしたし、ただでさえ悪い印象が悪化しないように優秀な成績を収め、篠宮家の息子として紹介されても恥じない行儀作法を身につけた。
それでも怜香は満足せず、〝恩知らず〟と思っていた。
本当はここで『なら出ていきます』と言えば良かったのかもしれない。
だが先に怜香が根回しをしていた。
『パーティーで皆さんにあなたの話をしてあげたのよ。皆〝気の毒に〟と仰っていたけれど、〝うちの会社を志望されたらどうしよう〟という顔をされていたわ。篠宮フーズの婚外子が自社に入れば、他の会社さんにどういう顔をしたらいいか分からないものね? 私としてもあなたがよそで迷惑を掛けると思ったら、気が気でないの。……あぁ、そうだわ。海外に行こうとか思っていないわよね? そんな恩知らずな事をすると思っていないけれど……』
そこまで言い、怜香は凍り付きそうな目で俺を凝視した。
――あぁ……、逃げられないのか。
その時俺が抱いたのは、諦念だ。
ここで無理に海外逃亡すれば、母が守ってきたものすべてが台無しになる。
もし俺が海外に逃げれば、日本に居場所はなくなるだろう。
縁を切ったとはいえ、母の実家にまで迷惑が掛かるかもしれない。
ゆっくりと、胸の奥で希望が萎んでいくのを感じた。
トンと触れられたオジギソウのように、急激にこうべを垂れ、勢いを失う。
この時、俺の心は一度殺されたと言ってもいい。
『…………分かりました。言う通りにします』
視線を落として承諾すると、怜香は返事をせずに風磨に別の話題を振った。
『……尊くん?』
夏場にボーッと歩いていると女性に呼びかけられ、俺は頭痛がするなか胡乱な目をそちらに向ける。
閉ざされた未来に絶望を味わった俺は、大学が夏休みなのをいい事に、朝から晩まであてどなく歩き回るようになっていた。
場所など確認せず歩くので、呼びかけられて足を止めた時、自分がどこにいるのか分からなかった。
(誰だ……?)
目を眇めて見た先には、日傘を差した和服姿の中年女性がいる。
品の良さそうなその顔を見て、『誰かに似てる』と思った時、彼女が弾けるように声を上げた。
『やだ! 酷い顔色じゃない!』
その時、自覚していなかったが、俺は炎天下のなか歩き続けて、顔面蒼白になっていた。
『うち、近くだから来てちょうだい! 日傘に入って! 歩ける!?』
女性は俺の腕を組むと、支えるようにして歩き始めた。
意識が朦朧とするなか豪邸に入ったあと、玄関でスポーツドリンクを飲まされた。
目を閉じてぐったりとしていると、彼女が誰か男性を呼び、俺を客間のベッドへ連れていかせた。
横になると首筋や腋の下に保冷剤を挟まれ、しばらく目を閉じて気分の悪さが収まるのを待っていた。
回復するのを待っている間に、少し眠ってしまったかもしれない。
一人暮らしになって怜香がいなくなっても、自宅にいると思考が内側に向いて落ち着かず、このところ不眠気味だった。
その時、心身共に限界を迎えて初めて、泥のように眠る事ができたのだと思う。
ふ……、と意識を浮上させると、時計の秒針の音が耳に入った。
重たく感じる腕をもたげて額に乗せられているタオルに触れると、『気がついたのね』と女性の優しい声がした。
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