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尊の傷 編

これ以上、自分に鞭を打たないで

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「子供が生まれるまでは、もうちょっと自由に生きましょう。私と一緒に沢山の事を経験して、笑って、幸せを感じるんです。親になる前に、この世界の素晴らしいところ、人のいい所を私たちが知れば、きっと子供にも教えられます」

「……ん……」

 力なく頷いた彼を見て、私は涙を零した。

「『大切な人を差し置いて幸せになっていいのかな?』って思う気持ち、分かります。『自分みたいに心の中でどす黒い事を考えている人に、幸せになる資格があるのかな?』とも思ってるでしょう? 私も同じです」

 ――私たちは、似た者同士だ。

「でもね、幸せになるのに誰かの許可なんて要らないんです」

 私は彼の髪を撫で、涙を流しながら笑った。

「尊さんの事、『性格悪い』って言いましたけど、あなたは『いい人』です。本当に性格が悪くて終わってる人は、誰かを傷つけても何とも思わないし、非道な事をしても『正しい事をしている』と思い込んでいます。そういう人は自分の事を『性格が悪い』なんて言わないんです」

 怜香さんは決して揺らがなかった。

 彼女なりの苦しみがあったのは分かるけど、誰かの死を望み、十歳の子供に『死ねば?』と言った事実は正当化しちゃいけない。

「……私も、父が私に何を望んでいるかなんて分かりません。父が生きていたら、もしかしたら『こんな面倒な男、やめておけ』って言われるかも」

 冗談めかして言うと、尊さんは軽く瞠目する。

「悲しいけど亡くなった人が何を思うかなんて、想像するしかないじゃないですか。なら、自分の都合のいいように解釈しましょう? 私の父は、優しくて尊敬できる人でした。父が生きていたなら、きっと『好きになった人を信じて幸せになりなさい』と言ってくれるに違いないと思っています。……尊さんは?」

 尋ねると、彼は少し目を伏せて考えてから笑った。

「……だな。きっと母も妹も、俺の幸せを願ってくれている」

「でしょう? なら、足止めをしているのは自分なんです。私たちは自分で自分を許せていない」

「…………そうだな……。……今思えば、十歳の子供が暴走する車相手に何ができた訳じゃない。当時は継母の存在なんて知らなかった。警察が結論づけたように、高齢者が誤った運転をしたんだと思い込んでいた。…………あの時の俺にできた事は、何一つない」

 私は尊さんの胸板に手を当てた。

「この奥に、大人の尊さんに許してもらえない、十歳の尊さんがいます。十歳の子供に責任を負わせようとするのは、可哀想だからやめてあげてください。今の尊さんがどれだけ力を持っていても、当時のあなたは無力だった。……後悔しても過去は変わらないんです。……もうこれ以上、自分に鞭を打たないで」

 尊さんはしばらく私を見つめていたけれど、ふ……、と息を吐いて目を閉じた。

 そして私を抱き、脚を絡めてくる。

 私たちはそのまま、ぬくもりを分かち合っていた。

 ホテルの高層階にある部屋だから、外の喧噪も入ってこない静かな空間で、私たちの呼吸音だけが微かに聞こえる。

 やがて尊さんが息を吐き、笑う。

「やっぱりお前の事、好きだわ。この先、朱里以上にいい女は現れない。……今まで俺の人生は大していい事がなかった。だからその分、お前が現れて今後一気に幸せになっていくんだと信じたい」

「任せてください! あげまんですよ」

 本当にあげまんかは分からないけれど、彼がそう信じてくれるならそれでいい。

 尊さんは私を見て微笑んだけれど、どこか遠慮がちな笑みに思えた。

 つらい終わり方だったけれど、これで怜香さんについては決着がついたはずだ。

 でも彼はまだ何かを抱えているような雰囲気がある。

「……まだ他に何かありますか? 全部聞きますよ」

 そっと尋ねると、尊さんは物言いたげな目で私を見つめてきた。

「何でも言ってください。今さら何があっても驚きませんから」

 彼は私を見つめて、何か言おうと口を開く。

 ……が、閉じてしまい、また小さく開いては閉じる。

 かなりの葛藤があるみたいなので、私は黙って彼が話してくれるのを待っていた。

 やがて尊さんは溜め息をつき、私に視線を合わせず告白する。

「……俺はお前の未来をねじ曲げた」

 彼の言っている事が分からず、私は少しの間その意味について考えた。

「結婚の事を言ってるんですか? それなら『ふざけんな』ってひっぱたきたいんですが」

「そうじゃない」

 尊さんは首を横に振り、もう一度力なく言う。

「……そうじゃないんだ。…………お前はまだ俺がしてきた事を全部知らないから、好意的に思ってくれてるけど……。……知ったらドン引きすると思う」

「今までだって何回もドン引きしたので、今さら何を言われても動じませんよ。私の結婚の決意を舐めてます?」

 挑むように言ったからか、彼は溜め息混じりに言った。

「……お前、中学生頃に橋から飛び降りようとしただろ」
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