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尊の傷 編

憎んでもいいんです

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「母と妹を轢いた犯人が、いかに温厚で優しい人だったかを滾々と聞かされたよ。犯人の息子は定職に就かずフラフラしているらしく、そいつが作った借金の連帯保証人にされたんだと。貯金を崩してもまだ足りず、どう死んだら保険金が下りるかを考えていた時、あの女に声を掛けられたそうだ」

 私は何とも言えず、彼の手を握り返す。

「継母に疎まれているのは分かっていたが、まさか母と妹があの女に殺されたとは思わなかった。当時はもう家を出て一人暮らししたあとだったが、八年も黒幕と同じ家で暮らしていたと思うと、感情が荒れ狂って収集がつかなくなった。……考えが纏まらず、ショックをまともに受け止めたら壊れちまいそうで、酒をしこたま飲んだ。墓前に供えるつもりの花は衝動のまま叩きつけ、手放す事すら忘れていた。……そのまま、近くの駅まで歩いて潰れたんだと思う」

「……あそこ、近くに霊園ありますもんね」

 私は小さな声で言い、尊さんを抱き締めた。

 彼の性格はいいとは言いがたいけど、常識人で基本的に善人だ。

 母親と妹を轢いた相手を完全な悪としたいのに、本当はどんな人か聞かされて、大いに困惑し、悩んだだろう。

 犯人の家族に為人ひととなりを教えられ、本当は実行犯の人は悪くないと理解したと思う。

 でも当時の彼は、誰かを憎まないと生きていけなかった。

 事件があった当時、逮捕された犯人に対し、『死刑になれ』と思っていたかもしれない。

 人殺しだと思って当たり前のように憎んでいたのに、その人殺しはごく普通の、同情すべき事情を持った、ただの老人だった。

 さらに彼を打ちのめしたのは、自分もろとも、母子に死んでほしいと願っていた黒幕は継母だったという事実だ。

 篠宮家に住んでいる間、彼女に冷遇されて憎まれて、針のむしろだったのは尊さんが一番理解している。

『死んでほしいと思われるほど憎まれている』という自覚だってあっただろう。

 けれど、まさか継母が本当の殺意を持っていて、ほんの少しのタイミングのズレで母と妹だけが亡くなってしまったとは思わなかっただろう。

 どれだけ『一緒に死にたかった』と願ったか分からない。

 気がおかしくなりそうなほど苦しんで、復讐のために生きた。

 ――でも誰かを愛して気を紛らわせる事すら許されなかった。

 私は尊さんの壮絶な人生を思い、ギュッと目を閉じる。

「……あの人、どこから狂っていったんだろうな」

 尊さんは悲しみと怒りにまみれながらも、しみじみと呟く。

「許すつもりはない。今後もずっと嫌い、憎み続けていくつもりだ。……でも人殺しをするまで堕ちた女を見て、『どうしようもねぇな』と呆れて、哀れに思う自分もいる」

「……そうですね。誰だって、怒りや悲しみ、嫉妬の感情を抱きます。でも普通の人は、人としてやってはいけない事はわきまえていると思います」

 尊さんは疲れ切った表情で私を見て、額に唇を押しつけてくる。

「……どんなに我を忘れそうな怒りに囚われても、俺は最後の一線だけは守りきる。あの女が外道に堕ちても、俺は同じ地獄に堕ちてやらねぇ。あくまで法の裁きで決着をつけて、…………あとは、母と妹の分も幸せになりたい。……こんな俺でも、幸せになっていいんだと理解したい」

「幸せになりたい」と言った彼の声は、とても弱々しく消えてしまいそうだった。

「本当は憎みたい。永遠にあの女を憎み続けて、苦しむ姿を見て高笑いしたい」

 尊さんは苦しげに言ったあと、小さく首を横に振った。

「……考えに整理がつかなくて、沢山本を読んだり、ネットを見たよ。……最終的には、『幸せになって見返す事』が一番だと書いてあった。いつまでも憎んでいれば、あいつと同じになっちまう。〝同じ〟は嫌だ。俺はあの女とは違う」

「尊さんは人としての尊厳を守っていますよ。だって私刑をせずにきちんと警察に任せたじゃないですか」

 そう言ったけれど、彼は私の両手を握って自分の額につけ、震える声で呟く。

「母が望んでいたように〝いい人〟でありたい。間違えた人を許し、自分の環境に感謝し、幸せを循環させていける人になりたい。……そう思ってるが、胸の奥で真っ黒な火が燃えさかって、消えてくれないんだ」

 彼の気持ちは痛いほど分かる。

「いいんですよ。憎んでもいいんです。あなたはそれだけの事をされたんですから。大切なお母さんと小さな妹さんを殺されて、『仕方ない』って許せる人なんていません。自分を欺せば、あとから絶対苦しみます。それならネガティブな気持ちに素直になってもいいんですよ」

 言ったあと、私は彼の手を握り返す。

「私は尊さんの憎しみに付き合います。あなたの感情を完全には理解できないし、生い立ちも違う。でも、寄り添いますし、とことん付き合います。生半可な覚悟で結婚したいって思った訳じゃないですから」

 私は洟を啜り、目を潤ませて彼に微笑みかける。

「……でも、これだけはしっかり胸に留めておいてください。私たち幸せになるんでしょう? 結婚して子供を作って、未来に繋げていくんでしょう? その時は親の苦しみを子供に見せちゃいけません。それこそ〝同じ〟になってしまいます」

「…………そう、……だな」

 尊さんはゆっくり息を吐き、頷く。
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